第11話 最深記録を作った日、私は笑っていました
「三年前の四月でした」
霧咲さんは、湯のみを両手で包んだまま話し始めた。
「協会がスポンサーになって、国内最深記録に挑戦する企画がありました。私のパーティは五人。盾役の戸川ユウさんと、魔法使いの三森カナ。カナは、私の幼なじみです」
霧咲さんの指が、湯のみのふちをなぞる。
「ユウさんは、いつも冗談ばかり言っている人でした。カナは怖がりで、でも誰よりも粘り強かった。二人がいなかったら、私はS級になんてなれていません」
潜る前には、三人で必ず同じことをした、と霧咲さんは言った。
ゲートの前で円陣を組んで、カナが小さな鈴を三回鳴らす。ユウさんが「今日の晩飯は焼肉」と宣言する。そして、全員で笑う。
「カナのおばあちゃんがくれた鈴なんです。魔除けだって。本当は効果なんかないのに、カナはそれがないと潜れなくて」
霧咲さんは、懐かしそうに目を細めた。
「ユウさんの焼肉は、いつも割り勘でした。本当は、ユウさんが一番食べるのに」
窓の外を、電車の音が通り過ぎた。
「五十七階で野営をした夜、下から人が上がってきました。協会の制服を着た男の人と、若い職員が四人。四人とも顔が真っ青で、足元もふらついていました」
俺は、手を止めた。
「男の人は、真壁と名乗りました。『協会の特別調査だ。見なかったことにしてほしい』と。若い職員の一人が、私に何か言いたそうにしていました。でも真壁さんに肩を叩かれて、黙って下へ降りていきました」
霧咲さんは、目を閉じた。
「その子は、首から下げたタグを、ずっと握りしめていました」
湊さんだ、と思った。
同じ月。同じ階層の近く。三年前、霧咲さんは、湊さんとすれ違っていたのだ。
「翌日、私たちは五十八階に着きました。記録です。カメラの前で、みんなで万歳しました。でもそのころには、全員、魔素酔いが始まっていて」
霧咲さんの声が、少しずつかすれていく。
「帰り支度をしていたら、真壁さんが一人で上がってきました。『職員たちは、さらに下へ進んだ』と言って、そのまま地上へ戻っていきました。……一人で、ですよ」
「戸川さんと三森さんは、それを見て」
「はい。『あの子たちを連れ戻してくる』って」
霧咲さんは、唇を噛んだ。
「私はリーダーでした。他の二人はもう歩けなかった。だから、止めました。命令しました。全員で引き返す、と。……そうしたらユウさんが笑って言ったんです。『リーダーは、みんなを連れて帰れ。俺たちは、あの子たちを連れて帰る』って」
そこで、霧咲さんの言葉が途切れた。
しばらくして、彼女はかすれた声で続けた。
「カナは、最後に振り返って手を振りました。『レイ、記録おめでとう』って。それきりです」
◇
「地上に戻ったら、協会の人たちが待っていました」
霧咲さんは、自嘲するように笑った。
「記録達成の記者会見をする、と。二人のことは『記録への挑戦中の事故』として発表する。臨時職員とすれ違ったことは、絶対に口外しない。そういう契約書に、署名させられました」
「守秘義務の契約、ですか」
「はい。断ったら、パーティの残りの二人の探索者資格を取り消すと言われました。二人とも、家族を養っていたので」
霧咲さんは、自分の膝を見つめた。
「だから私は、記者会見で笑いました。記録の配信の切り抜きでは、今でも私が万歳しています。八百万人が、あの笑顔を見ています。……カナの家族も」
俺は、静かに言った。
「霧咲さん。犯罪を隠すための契約は、無効です」
霧咲さんが顔を上げる。
「人の命に関わることを、口止めするための約束は、公の秩序に反します。法律の世界では、そういう契約は最初から効力がないと考えられています。霧咲さんがそれに縛られる理由は、どこにもありません」
「……でも、私は三年間、黙っていました」
「黙らされていたんです。それは、霧咲さんの罪ではありません」
霧咲さんの目から、涙がこぼれた。
◇
そのとき、事務所の入り口で物音がした。
振り返ると、ひよりさんが立っていた。
手に、ノートパソコンを抱えている。忘れ物を取りに戻ってきたのだろう。
顔が、真っ白だった。
「……兄を」
ひよりさんの声が、震えた。
「兄を、見てたんですか。三年前、五十七階で」
霧咲さんが、ソファから立ち上がった。
何か言おうとして、言葉にならず、そのまま深く頭を下げた。
「ごめんなさい。私は、あの子を止められなかった。声もかけられなかった。三年間、ひよりちゃんのご家族が苦しんでいるのを知らずに、黙って、笑って」
ひよりさんは、しばらく何も言わなかった。
パソコンを抱える腕に、ぎゅっと力が入るのが見えた。
それから、彼女はゆっくりと霧咲さんの前まで歩いていった。
「戸川さんと、三森さんは」
ひよりさんは、まっすぐ霧咲さんを見た。
「兄を助けに、下へ行ってくれたんですね」
「……はい」
「兄のために。会ったこともない、ただの臨時職員のために」
ひよりさんの目から、ぽろぽろと涙がこぼれた。
「ありがとうございます。兄は、一人じゃなかったんだ。最後に、誰かが迎えに来てくれたんだ」
霧咲さんが、顔を上げた。
ひよりさんは、泣きながら、彼女の手を握った。
「レイさんのせいじゃないです。悪いのは、兄たちを置いて一人で帰った人です」
霧咲さんは、声を上げて泣いた。
八百万人の前で一度も泣かなかったS級探索者が、子どものように泣いていた。
俺は二人に背を向けて、ほうじ茶を淹れ直した。
遺族、という言葉を、俺はいつも少し狭く使いすぎていたのかもしれない。
血のつながった家族だけではない。帰らなかった誰かを、毎日思い出してしまう人。その人もまた、遺された側なのだ。
霧咲さんは三年間、ずっと五十八階に取り残されていた。
◇
落ち着いたころ、俺は霧咲さんに向き直った。
「戸川ユウさんと、三森カナさん。お二人の遺品を、お探しします」
「お願いします」
「霧咲さん。お二人のことを、思い浮かべていただけますか。何でも構いません。一緒に笑ったこと、喧嘩したこと」
霧咲さんは目を閉じた。
口元が、少しだけゆるむ。きっと、ふざけた冗談を言う盾役の顔と、怖がりな幼なじみの顔を思い出しているのだろう。
俺も目を閉じて、意識を細くした。
《失せ物探し》。
糸が、ほどける。二本。
どちらも、まっすぐに足もとへ伸びていく。六十階を過ぎ、六十三階の沈み溜まりを過ぎ、さらに下へ。
糸の張り具合で、深さを測る。
俺は、ゆっくりと目を開けた。
「六十八階です」
霧咲さんとひよりさんが、息をのんだ。
六十八階。
八年間、一度も行ったことのない深さだった。
「……師匠でも、行ったことがない場所」
「はい。私がこれまで潜ったのは、六十五階までです」
俺は、壁の工具ベルトを見た。
防炎養生シートは、あと十二枚。火ばさみは三本。
「それでも、伺います。二人とも、霧咲さんを待っていますので」
ひよりさんが、パソコンを開いた。
「配信、しますよね」
「霧咲さんさえよろしければ」
「します」
霧咲さんは、即答した。
「三年前の笑顔を見た人たちに、本当のことを見てほしい。カナの家族にも」
ひよりさんは、キーボードを叩きながら付け加えた。
「カメラの発信器は、そのままにしておきます。真壁課長は、灰島さんが六十八階へ行くのを見ることになります。……たぶん、何か動きます」
「承知しました。動くなら、動いていただきましょう」
霧咲さんが、涙のあとが残る顔で、剣の柄を握りしめた。
「私も行きます。今度こそ、迎えに行きたいんです。――たとえ、途中で倒れても」
ご依頼の続きは、本日21:10に。
続きを見逃さないよう、【ブックマーク】で灰島の作業記録を保存しておいてください。
「ここで切るのか!」と思ったら、下の【☆☆☆☆☆】をタップして評価をいただけると、次の深層へ早く潜れます。
※本作は本文の執筆に生成AIを使用しています。




