選ばれた君
極天は目を閉じた。
そのまま、数秒間。
「どうして俺に、衛同言のことをあれだけ見せた?」
目を閉じたまま、淡々と。
一字一字、言葉を紡ぐ。
「エリート増殖計画」
「衛同言の崩壊」
「街で交わされた会話」
しばらく待った。
だが、緋紅鈴からの返答はない。
極天は目を開いた。
そこには――
機械アームに接続された一本の手術刀があった。
ゆっくりと。
極天の眉間へ近づいている。
心臓が、跳ねた。
極天は勢いよく頭を横へ逸らした。
だが、力が入りすぎた。
ゴンッ!
狭いカプセルの壁に頭をぶつける。
眉間が、一瞬だけ歪んだ。
次の瞬間。
右肘を後ろへ突き出す。
腹を引き締め、身体を弾き出す。
そして――
爪を立て、緋紅鈴の喉へ一直線に伸ばした。
しかし。
彼女の身体が、ふわりと揺れる。
軽やかに後方へ跳び、攻撃を躱した。
着地。
そして、大きな瞳をぱちぱちと瞬かせる。
顔には、少しばかりの疑問が浮かんでいた。
極天の一撃は空を切った。
その場に立ったまま、極天は自分の手を見下ろす。
拳を握る。
開く。
無意識に、手が出ていた。
顔を上げる。
緋紅鈴を見る。
――おそらく、掴むことすらできない。
「緋紅鈴。さっき、何をするつもりだった?」
緋紅鈴は両手をぱん、と打ち合わせた。
突然攻撃されたことなど、まるで気にしていない。
むしろ、楽しそうに笑っている。
「ああ、それ?」
「君の脳をちょっと調べてあげようと思って」
極天が再び黙り込む。
それを見た緋紅鈴は、慌てて両手を振った。
「お金は取らないよ、お金は!」
「会社持ちだから」
極天が口を開く。
「俺の脳に問題はない。調べなくていい」
「でも極天、さっき変なこと言ってたじゃん」
「どういう意味だ?」
「私が用意したのは、エリート増殖計画に関する歴史体験だけ」
「ここで終わって、君は目を覚ますはずだったんだよ」
そう言いながら、緋紅鈴は二本の指を立て、極天に向かって「ピース」を作った。
?
「君、二秒多く寝てたんだよ」
「それに――」
「そのあと君が言ったこと、私が用意したものじゃないよ」
湮甦じゃない?
極天が再び考え込もうとした、そのとき。
緋紅鈴が何かを思い出したように声を上げた。
「あっ、そうだ」
「さっき最高智脳が来てたよ」
「最高智脳?」
「うん。君が寝てる間に来たの」
「ちょうど二秒」
「一秒も多くないし、一秒も少なくない」
「もしかしたら……」
「君で遊んでたのかもね」
緋紅鈴は軽く身を屈める。
そして顔を上げると、満面の笑みを浮かべた。
最高智脳がやった?
「何をしに来た?」
「さあ?」
極天は、ひとまず思考を引っ込めた。
そして、声を少し低くする。
「五年前の芳芯福利院の事件を知っているか?」
緋紅鈴が、ゆっくりと近づいてくる。
「小さな商店の爆発に巻き込まれた、あの孤児院?」
「そう」
緋紅鈴は目を上へ向けた。
記憶を探っているようだった。
「本当に……運の悪い事件だったよね」
極天は彼女の目を見つめ、一歩近づく。
「お前は――」
「嘘をつくか?」
緋紅鈴の頬が、ぷくっと膨らんだ。
そして、すぐさま睨み返してくる。
「まだ入社もしてないくせに、上司をそんな目で見るんだ?」
拳を持ち上げる。
今にも殴りかかってきそうな構えだ。
「権限を、ドアから出ることすらできないくらいまで削ってあげようか?」
極天は小さく息を吐いた。
感情を押し込める。
そのとき――
頭上から、柔らかな音楽が流れてきた。
極天が顔を上げる。
緋紅鈴の唐傘が、頭上に浮かんでいた。
そこから、ゆったりとした旋律が降り注いでいる。
極天は首を傾げる。
ほんのわずかだが――
傘が動いたように見えた。
その浮遊位置も、極天の頭の動きに合わせて調整されているようだった。
極天は再び緋紅鈴へ視線を戻す。
「中で何があったのか、話してくれ」
「君って、本当に質問ばっかりする小賢しい子だね」
緋紅鈴は首を振り、両手を広げる。
「まあいいか」
「うちの優秀な社員になってくれそうだし。教えてあげてもいいよ」
極天が言葉を遮った。
「意識調整局の書類――」
「どう見ても偽物には見えなかった」
緋紅鈴は答えない。
軽やかな足取りで、ホール中央へ向かっていく。
すると――
床が開いた。
そこから一台の制御卓がせり上がってくる。
緋紅鈴は、その上へぴょんと飛び乗った。
極天も後に続く。
緋紅鈴の眼球が、わずかに動いた。
瞬間。
空中に複数の監視映像が展開された。
映像が高速で切り替わり、巻き戻される。
時間が戻っていく。
そして――
極天たちが、あの扉をくぐった瞬間。
大半の人間が、光を遮るように手を上げながら扉へ入っていく。
次の瞬間。
背後の扉が閉じた。
全員の身体が、一斉に硬直する。
意識そのものを抜き取られたかのように――
次々と倒れていった。
隣の画面。
そこに映っていたのは、あの廃墟世界。
そこには――
「彼ら」が立っていた。
顔。
服装。
動き。
何もかもが、ほとんど同じ。
そして次の瞬間。
「彼ら」が、一斉に目を開いた。
映像が、そこで途切れた。
緋紅鈴が振り返る。
「意識転移だよ」
にっこり笑いながら、付け加えた。
「書類も、本物」
そう言って、人差し指を口元に当てる。
「しーっ」
意識転移?
意識同期に近い技術なのか?
「意識転移って、兄貴がやってるゲームにちょっと似てるな」
緋紅鈴はすぐに否定した。
「全然違うよ」
「ゲームは意識深潜だから」
極天は二秒ほど黙った。
「じゃあ――あいつらは?」
「ん?」
「あの人たちは、どうなった?」
「あの小バカちゃんたち?」
緋紅鈴はぱちぱちと瞬きをする。
そして指先を口元に当て、ふっと息を吹きかけた。
そのまま極天の額へ向かって、指を弾く。
「一人ずつ、脳天にデコピンしてあげた」
「そしたら、何も覚えてなくなってたから」
「そのまま家に帰したよ」
極天は話題を変えた。
「廃墟の中では、迷うことができなかった」
「つまり――この試験を簡単に突破できる、もう一種類の人間は馬鹿ってことか」
「えー」
緋紅鈴は、今さら気づいたような顔をした。
そして独り言のように呟き始める。
「公式の書類を無視する」
「身分の変化も無視する」
「チームの分裂も無視する」
「何も深く考えない」
「死の脅威を理解する必要もない」
「もしかしたら、蝶々を追いかけて――」
「そのまま楽しそうに走っていったら、クリアできちゃうのかもね……」
その瞬間。
極天の頭上に浮かんでいた唐傘が――
ふっ。
突然、浮力を失った。
ゆっくりと落下する。
極天の目の前を通り過ぎ――
床へ落ちる。
その、わずか一秒。
さっきまで目の前で一人で喋っていた緋紅鈴が――
音もなく、消えていた。
極天は左を見る。
いない。
右を見る。
いない。
振り返る。
いない。
勢いよく上を見上げる。
――それでも、いない。
また、何かの悪ふざけか?
視線を落とす。
床に落ちた唐傘。
極天は一歩近づき、腰を屈めて拾い上げた。
実体がある。
裏返して調べる。
スピーカーはない。
浮遊装置のようなものもない。
極天の目の端に、ホール中央の制御卓が映った。
あれ――
俺にも使えるのか?
もし使えるなら。
いろいろなことが、ずっと簡単になるかもしれない。
思考が、どんどん深く沈んでいく。
「ポンッ」
耳元で、かすかな音がした。
極天の瞳孔が縮む。
思考から一気に引き戻された。
反射的に掌底を振り抜く!
同時に、首を捻る。
音がした場所は、視界の端に入っていた。
だが――
誰もいない。
極天は力を抜き、攻撃を止める。
視線が、ゆっくり下へ落ちていく。
そこにいたのは――
背の低い、赤いドレスの少女。
掌は、彼女の頭上二尺ほどのところで止まっている。
「馬鹿なら治せるよ」
?
「馬鹿がクリアしたら、私が治してあげる」
「それでもう一回、受けてもらうの」
さっきの話か?
……確かに、そうだ。
思考が完全に乱されている。
「さっき、どこに行ってた?」
「……まあいい」
極天は試験のことも、緋紅鈴のことも、それ以上追及しなかった。
懐から、あの「ハート型」の装置を取り出す。
「これ、知ってるだろ?」
緋紅鈴は頷いた。
「大昔の骨董品」
「価値なんてないよ」
極天の眉がわずかに寄る。
「百年前のものなら、骨董品と言っても間違いじゃないだろ」
緋紅鈴は人差し指を伸ばした。
そして空中に、ハートを描く。
指先が通った軌跡に沿って、赤いハートの図形が空中に残った。
そのまま、ゆっくりと回転する。
「第二世代・感情モジュール」
「廃棄の波の時代に作られたものだよ」




