登壇
破片が地面に落ちる――その直前。
極天の目の前の光景が、突然停止した。
まるで時間が巻き戻ったかのように、散らばっていた影が逆方向へ舞い上がり、元の形へと繋ぎ合わされていく。
色彩が戻る。
視界が正常に戻った。
ステージの上。
先ほどの数人は、何事もなかったかのように立っていた。
両脚は止めどなく震え、胸は激しく上下している。
目を大きく見開き、目の前にいる小柄な少女を恐怖に満ちた表情で見つめていた。
パチ、パチ。
少女は両手を軽く叩いた。
「もう、降りていいよ」
「ステージは――私に返してね」
男たちは荒い息を吐いていた。
額には冷や汗が滲み、喉仏が苦しそうに上下する。
やがて、ようやく我に返ったのか、映像が途切れるように何度か頷き、足を引きずるように動かし始めた。
ドン。
二人が足をもつれさせ、床に倒れた。
それでも、彼らは立ち止まろうとはしなかった。
慌てて両手を床につき、ステージの端へ這っていく。
人々は静まり返っていた。
その顔には恐怖が張り付き、同時に――疑問が滲んでいる。
今のは……
いったい、何だった?
そのとき。
柔らかく、穏やかなバイオリンの音色が、ホールにゆっくりと響き始めた。
人混みの中にいた極天は呼吸を整え、素早く心を落ち着かせる。
その視線は、ステージ上の少女から離れない。
先ほどの光景……
おそらく、音が操作されたのと同じだ。
訊鏈を通して、直接、脳内へ映像を植え付けた。
目的は……結果の提示か?
警告。
威嚇。
訊鏈へ侵入し、強制的に乗っ取る行為は、すでに違法だ。
もし彼女が本当に今のことをやったのなら――
意識調整局は動くのか?
だが。
彼女の様子を見る限り、まるで気にしていない。
もしかすると、本当に……
それより。
あの女は、一体何者なんだ?
……
疑問というものは、本当に苛立たしい。
極天は少しだけ考えた。
先ほどの連中の様子を見る限り――
うん。
たぶん、死んではいない。
試してみるか?
パチン。
ステージから、少女が指を鳴らした音が響いた。
少女は二歩前へ進み、微笑みながら口を開こうとする。
その瞬間。
一つの人影が、ステージの端から身を翻して上がってきた。
若い黒髪の男だった。
細身で、黒いジャケットを身につけている。
整った顔立ち。
だが、その瞳にはどこか生気がなかった。
コツ。
コツ。
コツ。
男は一歩ずつ少女へ近づいていく。
表情は淡々としていて、喜びも怒りも読み取れない。
指先のない手袋を外す。
そして右手を差し出した。
「こんにちは。俺は極天」
ん?
声が出る。
少女の微笑みが、ほんの一瞬だけ固まった。
明らかな驚きがその表情に浮かんだが、すぐに元へ戻る。
少女は手を差し出さなかった。
代わりに、スカートの裾を軽く摘まみ、ほんの少し身を屈める。
「私のことは、必ず――緋紅鈴って呼んでね」
必ず?
極天は右手を差し出したまま、さらに数歩踏み込む。
もう少しで触れる。
その瞬間、緋紅鈴は反射的に数歩後ろへ下がった。
極天は、相手が離れるより先に、大きく息を吸い込んだ。
突然。
視界が大きく傾いた。
身体が横へ、勢いよく回転する。
ん?
極天の視界が一瞬でぼやけた。
緋紅鈴の赤いドレスが、円を描くように視界の中を流れていく。
ドン。
左肩から衝撃が走った。
最初に痺れ。
その直後、痛み。
続いて胸が締めつけられ、呼吸が苦しくなる。
極天はステージに倒れ込んだ。
何度か呼吸を整える。
身体の痛みに耐えながらも、すぐには起き上がらない。
そのまま腕を枕にするように頭を乗せ、緋紅鈴を見つめた。
違う。
彼女は手を握ることを選ばなかった。
接触を避けるためか?
触れたくない。
それとも――
触れられない?
彼女が後ろへ下がったとき。
わずかに汗ばんでいた右手。
それでも、空気が揺れた感覚はなかった。
それに――
彼女には、匂いがない。
実体ではないはずだ。
だが……
さっき俺は、空中で二回も回転した。
どうやった?
そのとき。
視界の端に、胸元から落ちた「ハート型」の装置が映った。
少し離れた場所に転がっている。
その上のインジケーターが――
一瞬、点滅したように見えた。
エネルギーが接続された?
エネルギー。
力……
先ほどのことを思い返す。
確かに、何かに身体全体を包み込まれたような感覚があった。
極天は二秒ほど黙り込んだ。
そして、倒れたまま口を開く。
「こんにちは。俺は極天。無職です」
緋紅鈴は小さく返事をした。
そこには、わずかな困惑と、どこか間の抜けた響きが混じっている。
声の調子を落としながら――
「おー……」
少し間を置く。
「私は緋紅鈴。ここの支部の二号だよ」
「二号」という言葉を口にしたところで、彼女はふと止まった。
何かを思い出したように、頭を横へ向ける。
そして、独り言のように小さく呟いた。
「もう一人の二号……考えるだけでイライラする」
極天は身体を起こした。
今のところ、得られた情報はこれだけ。
視線を落とし、ハート型の装置を見る。
これ以上、境界を越えれば――
本当に一度、死ぬかもしれない。
極天は小さく首を振った。
俺は、自分自身の意識バックアップに取って代わられるなんて御免だ。
腰を屈めて装置を拾い、胸元へしまう。
そして再び人混みの中へ戻り、何事もなかったかのように立った。
男の一連の行動に、ステージ下の人々は思わず二歩ほど後ずさった。
まるで、自分まで巻き込まれることを恐れているかのように。
彼らの顔には、いまだに驚愕が残っていた。
極天が動きを止めてしばらく経った頃。
ようやく、誰かが気づいた。
先ほど――
あの男はステージの上で喋っていた。
そして。
自分たちは、確かにその声を聞いた。
誰かが我に返る。
音が戻った。
人々は小声で話し始める。
人混みの中では、先ほどの中年太りの男も試すように、
「もしもし……もしもし」
と二度ほど声を出した。
本当に自分の声が聞こえる。
そう気づいた男の顔に、喜びが浮かんだ。
周囲を振り返り、自分の口を指差す。
だが、周囲の人間は何の反応も示さなかった。
男はゆっくりと動きを止めた。
人々の顔に浮かぶ、さまざまな表情を見る。
それでようやく――
先ほどステージで起きたことを思い出したのだろう。
その顔から、喜びが一瞬で消えた。
「緋紅……鈴」
人混みの中から、スーツ姿の男が恐る恐る声をかける。
「俺たちは……帰ってもいいのか?」
言葉が終わった瞬間。
隣にいた上半身裸の男が、肩で彼を小突いた。
そして、そのまま数歩前へ出る。
傲慢そうな表情を浮かべ、ステージへ向かって叫んだ。
「緋紅鈴!」
「さっさと試験を始めろ!」
「権限を手に入れて、こいつらみたいな腰抜けどもを思いっきりいたぶるのが楽しみで仕方ねぇ!」
そう言いながら、帰ろうとしている者たちを一瞥する。
「ダーリン♡」
すると、ヒョウ柄のミニスカートを履いた女が人混みから押し出され、男へ身体を寄せた。
「あなたがいたぶりたい人の中に、私も入ってるの?」
「夜は――私のことも、いっぱい可愛がってくれるんでしょ?」
ドン!
足を踏み鳴らす音が響き、二人の会話を遮った。
「気をつけ――!」
「休め!」
声のした方を見る。
そこには、背筋を真っ直ぐ伸ばし、短髪で浅黒い肌をした男が立っていた。
周囲の視線が一斉に彼へ集まる。
だが、男はそれ以上何も言わなかった。
ただ、前方をまっすぐ見つめている。
その前方。
ステージ上の緋紅鈴が、二歩ほど前へ進んだ。
そして、ゆっくりと口を開く。
「帰りたい人は、止めないよ」
「みんな、安全に帰れるから」
その言葉を聞き、一部の人々の表情が明らかに和らいだ。
しかし。
別の者たちの顔には、むしろ疑念が深く刻まれていく。
緋紅鈴は手を上げ、軽く振った。
「でも――せっかくここまで来たんだもん」
「帰る前に、湮甦からみんなへのプレゼントを見ていかない?」
「――『お金』」
彼女の腕が下ろされる。
その瞬間。
極天の視界右下に、訊鏈の通知がポップアップした。
【意識バックアップ起動契約】
極天は人々を見回した。
彼らの視線の向きを見る限り――
どうやら全員に届いているらしい。
先ほどまで残っていた細かな話し声も、すぐに消えていった。
シン……
シン……
呼吸音だけが、徐々に大きくなっていく。
ひとつ。
またひとつ。
次第に増えていく、重く、荒い呼吸。
人々の瞳が、ゆっくりと見開かれていく。
誰かが口を開いた。
だが、言葉は出ない。
喉仏だけがかすかに動き、ごくりと唾を飲み込む音が聞こえた。
極天は契約内容を開く。
視線が素早く文章の上を走る。
――本体の意識バックアップの起動に同意した場合、本体はその意識バックアップが生み出した利益の70%を、生涯にわたって取得するものとする。
――本体の意識が停止する、その瞬間まで。




