「オフ」にする――お前の声を
【2426.3.15―10:15】
極天は時刻を確認すると、網膜上に投影されていた「訊鏈」のインターフェースを消した。
目の前には、広々とした明るいホールが広がっている。
そこには、さまざまな服装の人々がひしめいていた。
足音、囁き声……。
あたりは騒然としている。
「湮甦の入社試験って、何をやるんだろうな?」
少し離れたところで、ラフな服装をした若者が、顎に手を当てながら独り言を呟いていた。
「難しくなきゃいいんだけど」
声は決して大きくない。
それでも、周囲にいた耳の早い者たちの何人かが会話を止め、ちらりと若者へ視線を向けた。
ざわめきが、わずかに小さくなる。
すると、左側の人混みから七、八十歳ほどの老人が人をかき分けて出てきた。
若者のそばまで歩み寄ると、周囲から集まる視線を利用するように咳払いを一つ。
「お若いの。誰か、この爺さんと入社のことについて話してくれんかね?」
返事はない。
老人は周囲を見回し、さらに言葉を続けた。
「もしこの老いぼれが湮甦に入れたら、若い身体に取り替えることになる。そうしたら、お前さんたちのことも少しくらい面倒を見てやれるかもしれんぞ」
老人の言動に引き寄せられ、ホールにはさらに多くの視線が集まっていく。
そのとき、極天の右側にいた人混みがわずかに騒めいた。
中年の太った男が、人の間から這い出るように姿を現した。
汗を拭いながら、慌てたように声を上げる。
「おい――!」
「どこの老いぼれだよ! お前、もうそんな歳なんだから――」
言葉が終わる前だった。
頭上の照明が、一瞬だけ暗くなった。
大半の会話が途切れ、ホールは再び静かになっていく。
人混みの中から、戸惑いの声が漏れた。
「ん?」
「何だ?」
「星間企業でも停電するのか?」
全員が反射的に天井を見上げる。
すると、天井から巨大なスクリーンがゆっくりと降りてきた。
画面が点灯する。
黒い背景に、白い文字。
そこに、一つの文章の途中までが浮かび上がった。
――弱者は、消耗品として、
その文字を認識した瞬間。
空気が凍りついたかのようだった。
誰もが胸を締めつけられたように息を詰まらせる。
誰かが口を開きかけた。
だが、声は出なかった。
喉を掴まれたように、呼吸さえ一瞬止まる。
ホールは、一瞬にして静寂に包まれた。
一秒。
二秒。
「クソッ!」
爆発するように、人々が騒ぎ出した。
「ふざけんな!」
「湮甦の野郎、出てこい!」
「何だよ、このクソみたいな入社試験は!」
怒りが大半の人間を呑み込んでいく。
同時に、困惑もまた人々の胸に渦巻いていた。
「あの言葉、どういう意味だ?」
「俺たちを見下してるってことだろ! 他に何がある!」
「チッ……湮甦のクソ野郎どもが!」
誰かがつま先立ちになり、スクリーンを指差して罵声を浴びせる。
誰かは周囲を探り、手頃な武器になりそうなものを探している。
また別の者はただ首を振り、出口へ向かって人混みをかき分けていく。
その中で、極天は俯いた。
手には、一枚の「ハート型」の装置が握られている。
親指で装置に走る一筋の亀裂をなぞり、その指先が一行の小さな文字の上で止まった。
――製造元:湮甦公司。
突然。
周囲の音が、次々と小さくなっていった。
まるで誰かがリモコンで「音量-」のボタンを何度も押しているかのように。
極天は顔を上げた。
気づいた。
すべての音が――
消えている。
極天は素早く周囲を見回した。
正面。
ホールの中央には、小さなステージがある。
そのさらに奥には、一枚の閉ざされた金属製の扉。
ちょうど、背後にある入場口の扉と向かい合う位置だ。
その背後では十数人が扉を叩き続けている。
拳が赤く腫れるほど激しく叩いているのに、音は一切聞こえない。
さらに周囲へ視線を巡らせる。
壁は陶器のように滑らかで、窓は一つもない。
隙間すら存在しない。
極天は視線を戻した。
少し離れた場所では、先ほどの老人が若者の耳元へ顔を寄せ、口を大きく動かしている。
若者はしばらく眉を寄せながら老人の口元を見つめていたが、やがて自分の耳を指差し、首を横に振った。
人々の顔に、次第に疑問、不安、焦燥が浮かび始める。
何人かは胸を激しく上下させ、顔色を青ざめさせながら、辺りを見回していた。
極天は手を上げ、自分の耳元で指を鳴らした。
音はしない。
聞こえないのか。
それとも――音を出せないのか?
極天は試しに口を開いた。
何も聞こえない。
……
他人が発した音も。
自分が生み出した音も。
どちらも聞こえない。
極天はゆっくりと息を吸った。
少しだけ感覚を確かめる。
……問題ない。
呼吸はできる。
少なくとも、この環境には酸素が存在している。
音も、伝播している。
音そのものが消えたわけではない。
知覚。
受信。
物体の振動。
音の伝播。
鼓膜による受信。
脳による翻訳。
もしかすると……
原因は自分自身にある。
受信側――
そこに問題が発生している。
極天は意識を集中させ、「訊鏈」の操作画面を開いた。
視線を「音量+」へ移し、音量を調整する。
だが、表示された音量バーは――
【音量:0】
本当に変更されている。
いつからだ?
警告も、通知も、一切なかった。
極天はさらに何度か「音量+」を押してみる。
しかし、音量はずっと「0」のままだ。
極天は音量設定画面へ入った。
【環境音量:ロック】
変更できない。
戻る。
極天は素早くシステム設定画面を開いた。
画面の最上部に表示されていたのは――
【管理者ID:不明】
管理者アカウントが、置き換えられている。
ならば。
今、この操作権限を握っているのは誰だ?
最後に、極天は電源を切ろうとした。
【操作不能】
極天は顔を上げ、スクリーンを見つめた。
眉間にわずかな皺が寄る。
目を閉じる。
深く息を吸う。
感情を落ち着かせ、身体の力を抜く。
そして目を開いた。
その瞳には、揺るぎない光が宿っていた。
湮甦は――
想像以上に好き勝手やっている。
極天は周囲を見回した。
次第に取り乱していく人々を眺めながら、口元にほんのわずかな笑みを浮かべる。
権限とは――
本当にいいものだ。
ほんのいくつかの「パラメータ」を変更するだけで、他人の行動すら揺さぶることができる。
もし、十分に高い権限を持っていたなら。
他人の人生さえ――
極天は顔を上げた。
スクリーンに表示された一文を見つめる。
絶対に――
湮甦に入らなければならない。
「おやおや。こんなに大勢、感情移入しちゃったの?」
誰だ?
極天の頭の中に、突然、女の声が響いた。
ホールにいる人々もその声を聞いたらしい。
一斉に上を見上げる。
スクリーンの最上部。
そこには、日傘を差した赤いドレスの少女がいた。
少女はそこに座り、両足をぶらぶらと揺らしている。
そして、その足元にあるのは――
「消耗品」
その三文字だった。
極天はわずかに記憶を辿る。
先ほどから視線はずっとスクリーンに向けていた。
途中で瞬きをしたのも、ほんの数回。
なのに。
あの少女は――
いつ、そこに現れた?
頭の中に突然響いた声。
そしてスクリーンの最上部に突如として現れた少女。
人々は一瞬、音が消えていたことすら忘れていた。
誰もが呆然としたまま、少女を見つめている。
少女は立ち上がった。
スクリーンの上端に沿って、反対側へ歩いていく。
コツ。
コツ。
コツ。
やがて、彼女は「弱者」の文字の上で足を止めた。
少女は下を向く。
そして――
人々を見下ろした。
「?」
人混みに困惑が広がる。
互いに顔を見合わせる。
だが、その中でも何人かはすぐに我に返った。
彼らはステージへ駆け上がり、少女へ向かって拳を振り上げる。
中指を立てる。
顔を真っ赤にし、表情を歪ませ、口汚い言葉を吐き散らし、唾を飛ばしながら叫んでいる。
しかし――
そこには、一切の音がなかった。
遠くから見れば、ただ何人かの人間が口を開けたり閉じたりしながら、意味もなく腕を振り回しているだけ。
まるで――
無声劇でも演じているかのようだった。
「それじゃ――」
少女の声が、再び人々の頭の中に響く。
彼女は首を傾げた。
まるで何かを考えているように。
「うーん……お金でも配ってあげようか?」
「?」
なぜ突然、そんな話になる?
困惑が人々の間へ投げ込まれる。
ステージ上で腕を振り回していた者たちも、その動きをわずかに止めた。
顔には、明らかな疑問が浮かんでいる。
赤いドレスの少女は、スクリーンの最上部からふわりと身を躍らせた。
日傘を掴んだまま、舞台中央へと舞い降りてくる。
まだ地面に着く前。
少女は手を放した。
タッ、タッ。
両足がステージに触れる。
日傘が、その横へ落ちた。
突然。
極天の視界が、一瞬だけ揺らいだ。
目の前の世界が――
白と黒に変わる。
あらゆるものが、影絵のようなシルエットへと変貌していた。
ステージ上にいた数人の姿が、完全に静止する。
黒い影が、赤い背景の上に貼り付けられたかのようだった。
次の瞬間。
十数本の白い光が、同時に彼らの身体を走り抜けた。
まるで――
紙を無造作に引き裂くかのように。
彼らの身体は、瞬く間に切り分けられた。
四肢が、ばらばらと――
床へ散らばった。




