傍観者の選択
条件としては、確かに魅力的だ。
具体的な収入については、ひとまず置いておくとしても。
たとえ意識バックアップが湮甦でただの重労働をさせられるだけだったとしても、その収入は一般的なサラリーマンとは比べものにならないほど高い。
そのうえ、自分の「労働」によって生み出された報酬の七〇%を、さらに自分から搾取する。
もしかしたら――
普通の人間なら、一生何不自由なく暮らせるのかもしれない。
だが……
その代償は?
さらに下へ視線を滑らせ、不要な情報を読み飛ばしていく。
――最終的に同意するか否かにかかわらず、退場時に本契約に関連する情報はすべて削除されます。
極天の視線が、そこで二秒ほど止まった。
ない?
本体は、ほとんど何も代償を払わなくていい。
自分が、自分自身を搾取する。
極天は、周囲の人々の表情を見渡した。
貪欲。
それが、不安と恐怖の中で芽を出し始めている。
極天は視線を戻した。
そして、「情報」という二文字に目を向ける。
情報。
文字、画像、音声……
これらはすべて情報だ。
だが、それ以上に――
極天は顔を上げた。
視線が、緋紅鈴とぶつかる。
もしかすると、記憶そのものを消してしまったほうが、都合がいいのかもしれない。
中年の太った男が人混みをかき分け、ステージの縁まで身を乗り出した。
息を切らしながら、焦りとわずかな不安を滲ませる。
「これに書いてあること……全部、本当なのか?」
緋紅鈴は薄く笑い、力強く頷いた。
「うん!」
「私、支部のナンバー2なんだから」
「言ったことは、絶対だよ!」
中年男の顔がみるみる赤くなる。
吊り上がった口元には、抑えきれない笑みが浮かんでいた。
「起動した意識バックアップは、どうなるんだ?」
人混みの中から、スーツ姿の男がおずおずと尋ねる。
「そいつらも……人間なんだろ?」
「まさか、実験に使うんじゃ……」
「お前、いちいちうるさいんだよ!」
豹柄の女が、スーツ男の矢継ぎ早な質問を遮った。
「サインしたいならすればいい。しないなら、とっとと帰れ!」
「なんでそんなに質問ばっかりしてんだよ」
老人が一歩前へ出た。
「お嬢ちゃん、こいつだって、みんなが心配してることを聞いただけじゃろう」
「女の子なんだから、そんなにカッカするもんじゃない」
「うるさい! クソジジイ!」
老人が腕を振り上げ、女へ向かって足早に歩き出す。
だが、白いタンクトップを着た大柄な男がその進路を塞いだ。
そして、ステージへ向かって叫ぶ。
「俺は、もう一人の自分に会うことになるのか!?」
好奇心と疑念に火がついた。
人々は次々と声を上げ始める。
「それって倫理的に問題ないのか?」
「湮甦がこんなことやって、違法じゃないのか?」
「星間企業の中でも、あれだけの規模なんだぞ……まさか……」
「それに、ここには百人以上いるんだぞ? まさか全員まとめて騙すなんてことは……」
誰かが鼻で笑った。
「違法? 訊鏈に侵入されても、あいつらが気にしてたか?」
「ひょっとしたら、今ごろ入口そのものが切り替えられてて、外に出た瞬間、鉱山行きだぜ」
「そこには鞭を持った連中が待ってるかもな」
「お前さぁ……陰謀論ばっか言ってんじゃねえよ!」
「てめぇ、今なんつった!?」
「――おい!」
「誰に向かって言ってんだ!」
人々の興奮は、ますます高まっていく。
今にも掴み合いになりそうな者まで出始めた。
そのとき。
豹柄の女の隣にいた、気性の荒そうな男が怒鳴り声を上げた。
「失せろ――!」
「サインしたくねえ奴は、とっとと帰れ!」
「俺の金儲けの邪魔すんじゃねえ!」
……
極天の視線は、人混みを越え――
緋紅鈴の背後にある、固く閉ざされた金属製の扉へと向けられていた。
パチ、パチ。
乾いた拍手が響いた。
その音が、騒がしさを切り裂き、頭の奥まで届く。
人々の言い争いが止まった。
一斉に、音のした方向――ステージへと目を向ける。
ステージの上。
緋紅鈴は両手を合わせ、そのまま頬を乗せるようにして首を傾けた。
そして、ゆっくりと目を閉じる。
ステージの照明が、彼女へと集中していく。
周囲が暗闇に沈んだ。
「もう一人のあなたは、新しい身体の中で目を覚ます」
ゆっくりと瞳を開き、彼女は大きく伸びをする。
その仕草と台詞は、まるで入念に演出された舞台の一幕だった。
「あなたとは、永遠に出会うことのない場所で――」
緋紅鈴は歩き出す。
数歩進んでは立ち止まり、辺りを見回し、軽く腕を振る。
「新しい人生を生きる」
「違う景色を見て、違う人たちと出会う」
彼女は足を止め、額に浮かんだ汗を拭うような仕草をする。
「新しい仕事をして、充実した毎日を過ごす」
そして振り返った。
大きく両腕を広げる。
「その人は――あなたとはまったく違う人生を歩むことになる」
ホールが、しばし静まり返った。
やがて、ステージの照明がゆっくりと散っていく。
周囲が再び明るさを取り戻した。
「それなら……」
「……悪くないかもな」
何人かの表情から、明らかに緊張が抜けていく。
「俺、サインする」
「おい! それ、あいつの一方的な説明だろ!」
「でも、仮に騙されてたとしても、俺には何の損もないだろ」
「それに……本当だったら?」
「そうだよ! 損するわけじゃないなら、俺もサインする!」
その場で契約書にサインする者が次々と現れた。
誰もが笑みを浮かべながら、これから手に入る収入を計算し始めている。
一方で、黙り込んだまま、損得を分析している者もいた。
「なあ、兄弟。なんで迷ってんだ?」
「俺は……何か引っかかる」
「こんだけ大勢がサインしてるんだ。何を怖がる必要がある?」
「おい! お前がサインしたいなら勝手にしろ。他人まで巻き込むな!」
「お前に関係ねえだろ!」
「ここにいるほとんどがサインしたんだぞ。もし本当に全員騙してるなら、意識調整局だって黙ってないだろ!」
「くそっ! 今日はなんでこんなにムカつくんだ!」
「外で勝負するか!」
「上等だ!」
……
「サインしようぜ。大丈夫だって」
「みんなサインしてる」
「これでもう働かなくていいんだ」
「家族と一緒に過ごして、人生を楽しめる」
「そうそう。何も問題ないって」
……
迷っていた者たちも、少しずつ心を動かされていく。
契約書にサインする者は、どんどん増えていった。
サインしない者たちは、入口へと集まり始めていた。
どうやら、他人と無意味な口論を続けるつもりはないらしい。
チリン、チリン。
チリン、チリン。
そのとき。
一把の小さな日傘が、ステージの上からふわりと浮かび上がった。
くるくると回転しながら赤い光を放ち、柔らかな音楽を奏でる。
そして、そのまま出口へ向かって飛んでいく。
ステージの上から、緋紅鈴が声をかけた。
「契約にサインした人は、私の傘についてくればいいよー」
「サインしない人は、そのまま一緒に出てっても大丈夫」
そして、笑いながら付け加える。
「そうそう。報酬の支払いは来月からだからね」
「まあ――その頃には、みんな覚えてないかもしれないけど」
「でも、安全で合法な収入を拒む人なんて、いないよね?」
大半の人間が、それを聞いて笑いながら頷いた。
「いないいない」
「馬鹿じゃあるまいし。合法的に手に入る金なら、もらわない理由がないだろ」
「ほら、入口に立ってるじゃん。金をもらえるのに帰る馬鹿どもが」
「だよな。タダでもらえるってのに」
入口にいた数人が振り返った。
顔には青筋が浮かんでいる。
「誰が馬鹿だって!?」
「自分から返事した奴のことだよ」
「ふざけんな! てめぇはサインしてろ、俺は帰る! いちいち人を不快にさせんな!」
「ほら、ムキになってる」
「おい、爺ちゃんが入口で待ってるぞ!」
「誰が行くか!」
……
緋紅鈴は、入口で騒いでいる者たちには目もくれなかった。
彼女はその場に残っている十数人へ視線を向ける。
そして、後ろへ手を差し出すようにして――
「これからも入社試験を受ける皆さんは、私の後ろにある扉へどうぞ」
「みんなが私の優秀な社員になってくれると嬉しいな」
彼女の背後。
金属製の扉が、ゆっくりと開いていく。
その向こうから、強烈な光が差し込んだ。
あまりにも眩しい。
目を細めて凝視しても、その先に何があるのかは見えない。
ただ一面の白。
極天は、その場に立っていた。
【この契約に記載されたすべての条項に同意しますか?】
【いいえ】
極天は、訊鏈の操作画面を閉じた。
その瞬間。
目の前を、人の波が押し寄せる。
人々は彼をすり抜けるようにして、次々と背後へ退いていった。
極天は顔を上げる。
誰からも見向きもされなくなった、あのスクリーンを一瞥した。
そして、視線を戻す。
その先にあるのは――
あの扉。
極天は、一歩を踏み出した。
人の流れに逆らい、光の中へ歩いていく。
――――
天井に設置されたスクリーン。
そこに、いつの間にか途切れていた後半の文章が表示されていた。
――弱者は、消耗品として代替することができる。
だが――
なくすことは、できない。




