第96話 みんなが着れば
翌朝、ORIGOの鏡には結人一人だけが映っていた。
欠けた縁が右頬を途中で切り、身体を包む上着だけが、何も着けていない作業台の前で濃く見える。
結人は昨夜の言葉を書いた。
皆が安心して服を選べるように。
その下へ、もっと正確そうな言葉を足す。
服が社会の選択肢として定着するように。
紙を見ても、ノアの「あなたも浮かなくて済む?」が消えない。
結人は二枚とも破った。
破った紙を捨てようとすると、指が止まった。正しい言葉だけ残し、醜い方を捨てれば、後でまた自分に都合よく思い出せる。
彼は二枚を作業台へ並べ直した。きれいな標語も、幼い本音も、同じ自分が書いた。どちらか一方だけを本物にしないため、針箱の下へ挟む。
その時、扉の外で客の声がした。開店前なのに、昨日の診断表を使ってほしいと三人が待っている。結人は扉を開け、今日はノアの診断を受けられないと告げた。
一人は怒り、一人は別の店へ行き、一人だけが「自分で選ぶなら、どれくらいかかる」と中へ入った。
新しい紙へ、書きたくない方を書く。
みんなが着れば、僕だけ浮かなくて済む。
文字にすると、ひどく幼く見えた。
扉が開き、エリアーヌが一人で入ってきた。護衛は路地の外にいる。結人は反射的に紙を伏せた。
「見せろ」と言われる前に、彼女は鏡の前へ立った。
「慰めに来たと思うか」
「少し」
「残念だったな」
結人は紙を渡した。
エリアーヌは読み、すぐ否定しなかった。
「服を作るなとは言わない」
エリアーヌは破った紙の端を合わせた。文字は完全には戻らず、「安心」と「浮かない」が斜めに重なる。
「私も、お前の服を選んでほしいと思っている」
「それは、同じですか」
「同じではない。だが、きれいな理由だけで命令しているわけでもない」
女王の公務を減らしたい。匿名で市場を歩きたい。結人が他の人へ作る服を見ると腹が立つ。彼女も私欲を一つずつ言い、最後の一つだけは小さすぎて聞き取れなかった。
結人は聞き返さなかった。
「作ります」
「その欲が消えたとも言うな」
「消えていません」
昨夜より言いやすくなったことが、治った証拠には思えなかった。
店の外で、祭典の広告係が待っていた。次回の大看板案を持っている。
王都のすべての人へ、一着を。
結人が自分で書いた文だった。
広告係は、この言葉ならスポンサーが戻ると言う。布を着る人が増えれば市場も広がり、貸衣装も工房も続く。間違いばかりではない。
結人は看板の前で長く立った。
「刷るのを止めます」
「前金は戻りません」
「分かっています」
代わりの文をすぐ書こうとして、手を止めた。正しい言葉で上書きすれば、また同じことになる。
白い看板をそのまま持ち帰り、店の外壁へ裏返して立てた。
裏側には印刷所の墨が染み、消したはずの文が逆向きに透けていた。通りの子どもが指でなぞり、「何て書いてあるの」と尋ねる。
結人は説明しようとして、言葉を選び直した。
「僕が、みんなにしてほしかったこと」
「何?」
「まだ言いたくないです」
子どもは興味を失い、白い面へ魚の絵を描いた。午後には別の誰かが花を足し、広告になるはずだった板は、店と関係のない落書きで埋まった。
昼、客が一人来た。服を買わず、返品された桃色の一着を見たいと言う。結人は用途も寸法も尋ねず、鏡の前へ出した。
客は肩を丸めたまま、布を身体へ当てず眺める。
「着ないんですか」
「今日は、見るだけ」
結人は頷いた。
夕方まで、その客は何も買わなかった。売上札には空白が一つ増えた。
裏返した大看板も、白いまま店の前に立っていた。




