第95話 扉が閉じた
閉店後のORIGOには、鏡が一枚だけ立っていた。
ノアが他の鏡をすべて片づけたからだ。返品された桃色の服も、盗まれた診断表の原紙も、同じ作業台へ置かれている。
ミラは売上帳を開いた。無料色膜が出てから注文は減り、祭典スポンサーも一社離れた。来月の家賃を払うには、すぐ使える商品が要る。
貸衣装棚の修理費も足りず、鏡の借用期限も近い。扉の修理代は三か月、後回しのままだった。ミラは誰かを責めず、数字だけを並べる。数字が並ぶほど、結人には「すぐ売れる方法」が必要に見えた。
ノアの診断表を使えば、注文時間を半分にできる。競合へ流れた客も戻るかもしれない。紙そのものが悪いのでなく、最後の決定を本人へ戻せばいい。結人はその案を、昨夜ほとんど眠らず整えていた。
ノアが来る前から、修正版の質問票は三十枚刷ってあった。
結人は診断表を指した。
「質問を増やして、本人が最後に選べる形へ直しましょう」
ノアは返事をしない。
「全部捨てるより、使い方を」
「また売るの?」
「間違えた部分を直して」
「何を間違えたか、あなたがもう決めてる」
ノアは積まれた三十枚を一枚ずつ裏返した。結人は、その動きが遅いことに耐えられず、説明を続ける。
「最終欄へ『決めない』も追加しました。返品期限も延ばします。診断結果は保存せず――」
「私が怖いのは、紙の保存期間じゃない」
ノアは一枚を持ち上げる。「客が座る前に、私たちが答えを用意していること」
「でも、何も用意しなければ仕事になりません」
「そう。だから私も簡単には戻れない」
正しい方へ立っているのではなく、自分も同じ仕組みを作った側だと認める声だった。
結人は言葉を探した。ノアが客より先に答えを出したこと。写しを管理しなかったこと。競合が悪用したこと。それらを項目に分け、修正すれば前へ進めると思った。
「皆が安心して服を選べるように」
結人は「安心」の中へ、店が潰れないこと、職人の賃金、客の迷う時間、自分の居場所まで詰め込んでいた。どれも本当で、どれもノア一人に背負わせる理由にはならない。
「この店がなくなったら、僕はまた――」
そこで止まった。
門外の路地で、扉もない工房を始めた日を思い出す。服を着る自分を変だと見る人々の中で、ここだけが仕事の名前をくれた。店を守りたい気持ちは、顧客のためだけではない。
「皆?」
ノアの声が低くなる。
結人は焦った。
「服を着る人が増えれば、店も続けられます。街で布が普通になれば――」
「あなたも浮かなくて済む?」
胸の内側を直接触られたようだった。
「今は店の話です」
「ずっと店の話にしてきた」
ノアは診断表を畳んだ。破らず、自分の鞄へ入れる。
「私も、似合う答えを先に売った。だから、もう一度考える。でも、あなたの売上を守る場所ではできない」
「戻らないんですか」
「今、その質問をするの」
呼び止める言葉はいくつも浮かんだ。給料を上げる。診断を止める。祭典だけでも手伝ってほしい。どれもノアのためより、自分が置いていかれないための言葉だった。
結人は口を閉じた。
ノアは七十枚の鏡のうち、欠けた小鏡だけを残した。
残りの鏡は持ち主へ返すという。結人は手伝うと言ったが、ノアは断った。
「自分が集めたものは、自分で返す」
「重いですよ」
「知ってる。あなたが全部持とうとする理由も、少し分かる。でも今日は持たせない」
彼女は最初の一枚を両腕で抱えた。鏡の中に、結人とノアと、刷り上がった質問票の白い山が一緒に映る。
ノアは質問票へ一度も触れず、鏡だけを持って出ていった。
「これは?」
「あなた、自分を見る道具を持ってないから」
扉へ向かい、取っ手に手を掛ける。
「閉まりにくいです」と結人。
「知ってる」
ノアは扉を一度持ち上げ、石の段差を越えて閉めた。
金具が噛み合う音は、半年かけて付けた扉が初めて正しく閉まった音だった。




