第90話 無料の色
朝の大通りで、黒紋商会は色を無料で配った。
赤、青、黄、緑。薄い膜を腰の紋の外側へ貼ると、一日だけ別の色を足せる。身体の守りへつながるため譲れず、直せず、夕鐘には剥がれる。服ではないが、祭典を楽しむには十分だった。
高価な染め布を買えなかった人々が列を作る。
列の先頭には、祭典で鏡を運んだ床屋がいた。毎日同じ褐色の紋を見ているから、今日は緑を重ねたいという。次の少女は姉と同じ赤、三人目の男は「一番余っている色」を求めた。
係員は三呼吸で膜を貼り、剥がし方を一度見せる。色は均一でも、選ぶ理由は一つも揃わない。
結人は配布速度を数えた。ORIGOなら一人の色を決めるだけで半日かかる。黒紋の列は一刻で百人進む。嬉しそうな顔が増えるほど、胸の奥が熱くなった。羨ましさと敗北感が、同じ場所にある。
魚売りは青を選び、煙突掃除の少年は金、白髪の女は迷わず真紅を取った。王都は一時間で昨日より派手になる。
リュシアは配布箱の前で腕を組んだ。
「平らすぎる。誰が付けても同じ赤」
「同じだから、一万枚作れます」とカシウス。
「色は肌の熱で変わるものよ」
「変わらない色を望む人もいる」
白髪の女が二人の間へ入った。
「私は今日、誰より赤くなりたい。理由はない」
リュシアは口を閉じた。女は鏡へ向かって何度も腰をひねり、単純な赤を心から楽しんでいる。
結人は膜の縁を調べた。三呼吸で貼れ、原価はORIGOの染め布の十分の一以下。外せる服ほど自由ではないが、今日だけ色を試す入口としては強い。
「きれいですね」
結人は黄色い膜を一枚手に取り、自分の上着へ当てた。彼には肌の守りがないため、膜は貼りつかず、ただの薄い皮として滑り落ちる。
カシウスが拾う。
「あなたには使えません」
「分かっています」
「悔しいのは、売れないからですか。使えないからですか」
「両方です」
カシウスは一瞬だけ言葉を失い、それから膜を配布箱へ戻した。結人へ人工の紋を与えられる技術を、まだ口にしなかった。
「競争相手の宣伝をしに来た?」とカシウス。
「悔しいです」
「それも顔に出ています」
昼には、同じ青を選んだ十人が通りで踊り始めた。色は同じでも、姿勢も歩幅も違う。均一な膜が身体を同じにするどころか、違いを目立たせていた。
リュシアはしばらく見た後、無料箱から黄色を一枚取った。
「使うんですか」と結人。
「分解する」
貼った瞬間、彼女の紫がかった紋の外へ、平らな黄が置かれる。リュシアは嫌そうな顔をしたが、通りの子どもが「似合う」と言うと、夕鐘まで剥がさなかった。
その日、ORIGOの注文は減った。
閉店後、ミラは空いた注文台を拭き、今日の損失を紙へ書いた。リュシアは黄色の膜を外し、表面に残った自分の熱の跡を灯りへ透かす。
「均一じゃない」と彼女が呟く。
誰が着けても同じに見えた黄の内側には、汗の筋も、腰の紋の揺れも違って残っていた。リュシアはその膜を捨てず、研究箱へ入れた。
「真似するんですか」と結人。
「負けたものは、まずよく見るの」
競技場で自分が言われたことを、彼女は不機嫌そうに返した。
けれど夜の大通りでは、色膜を買えなかったはずの人まで赤や青で笑っていた。結人は店の前へ立ち、嬉しいのか悔しいのか決めないまま、最後の膜が剥がれて風へ舞うのを見た。




