第88話 ノアが決めすぎる
昼の採寸室で、ノアは客が椅子へ座る前に答えを出した。
「灰青。右肩は隠さない。布は左へ流す」
客のルルは口を開きかけ、周囲の鏡を見た。ノアが仮布を当てると、背筋が長く見え、金色の腰の紋も落ち着く。
「どうですか」と結人。
ルルは小さく頷いた。
似合っていた。
同じことが六人続いた。ノアは歩幅、指の置き方、入口で最初に見た鏡から、客が褒められたい場所を当てる。迷う時間が減り、注文台は早く回った。ミラの帳簿には久しぶりに黒い数字が並ぶ。
客たちは驚き、喜んだ。最初の青年は「自分で選ぶより早い」と二着目まで頼み、老女は孫へ同じ診断を受けさせる予約を取った。ノアの前には、色布より先に人が並ぶ。
結人も助かった。本人へ何度も歩いてもらわなくても、ノアが「右から見られたい」「腰の紋は隠したくない」と短くまとめる。注文は増え、待ち時間は減り、返品も最初の六人まではなかった。
ノアは水を飲む暇もなく、次の客へ視線を移した。速さが売上になり、売上が彼女の判断を正解にしていく。結人はそれを止めず、むしろ鏡をもう一枚運び込んだ。
七人目は、右肩を前へ丸めた中年の女だった。
女の名はマリエ。入店してから一度も鏡を見ず、右腕で左肘を抱えていた。注文は「娘の命日に市場へ行くための一着」。それだけだった。
ノアは「人前へ戻りたいのね」と受け取り、肩を開く桃色を選んだ。マリエは否定しなかった。否定の言葉を探す間に、結人が仮留めを終え、店員がきれいだと褒め、鏡が正面へ置かれた。
周囲の速さに遅れた人が、頷くしかなくなることを、その場の誰も見ていなかった。
ノアは柔らかな桃色を選び、肩を開いて見せる短布を置いた。結人が支えを調整すると、身体は確かに楽そうに見える。店員も客も「きれい」と言った。
女は何も言わなかった。
受取の日、彼女は代金を机へ置き、服を残して帰った。
寸法は合っている。肌へ触れる場所もない。色も腰の紋へよく映える。
「気に入らなかったなら、言えばいいのに」
ノアは鏡の角度を変え続けた。
結人が女を追い、橋の手前で呼び止める。戻ってきた彼女は入口から中へ入らなかった。右肩を以前より深く丸めている。
「この形は、娘を抱いていた形なの」
娘は昨年、熱病で亡くなった。治療師は肩を開く運動を勧め、家族も楽な姿勢へ戻れと言った。けれど女は、もう少しだけ腕の中の重さを忘れたくなかった。
市場へ行くのも、人前へ戻るためではない。娘が好きだった砂糖漬けを一袋買い、帰り道の橋で食べるつもりだった。右肩を丸めると、幼い頭がそこにあった形を思い出せる。
「楽になりたくない日もある」とマリエは言った。「それを、うまく言えなかった」
ノアは「聞かなかった」と答えた。似合う色を外したことより、答えを急いだ自分の速さが、今は耐え難そうだった。
ノアの顔から自信が落ちた。
「私は、あなたがその肩を嫌っていると思いました」
「あなたがそう言ったから、私も嫌わなきゃいけない気がした」
女は服を持ち帰らなかった。代金も受け取ろうとしない。
ノアは鏡を一枚外し、返品された桃色の服をその前へ掛けた。右肩を開く形のまま、誰も着ていない。
閉店後も、彼女は服を直さなかった。
鏡の中で、空の肩だけがまっすぐ立っていた。




