第84話 敗北した夜明け色
染色競技場で、無名の若者が布を水へ一度だけ沈めた。
引き上げても色は見えない。観客が退屈そうにざわめく中、若者は布を西日の方へ広げた。
白い繊維の奥から、銀と橙が細く浮いた。
夜明け衣の朝色に似ている。けれど、光は生まれる方ではなく、沈んでいく日の名残を掬っていた。
結人は審査柵を越え、布の端へしゃがみ込んだ。
「二方向に撚ってる。染めじゃなく、光の入り口を――」
後ろからリュシアが襟を引いた。
「戻りなさい」
「でも、見たことが」
「今、私が負けている最中」
審査結果は一位、灰区の洗い場で働くシュウ。二位、リュシアの夜明け色だった。
発表の瞬間、競技場の上段から歓声が落ちた。灰区の仲間たちが洗濯棒を打ち鳴らしている。シュウは表彰台へ上がる途中、濡れた足を滑らせ、布より先に転んだ。
リュシアは笑わなかった。拍手もしなかった。自分の夜明け色を肩へ掛けたまま、審査台の端を爪で叩く。
「染料の深さなら私が上。耐光も。洗浄回数も」
「でも、あの布をもう一度見たいです」と結人。
「それを今、私に言う?」
「負けた理由を見ないと」
「負けた気分を味わう時間くらい寄越しなさい」
結人はようやく口を閉じた。リュシアが悔しさを技術の言葉へ逃がしていることに気づいても、直し方は分からなかった。
シュウは高価な染料を買えないため、捨てられた白糸の撚りを変えたという。色名を聞かれ、「まだない」と答えた。
「ORIGOへ来ませんか」
結人がその場で誘うと、リュシアが彼の足を踏んだ。
「相談しなさい」
「良いものを見つけました」
「私の隣へ置けば、喜んで競争すると思った?」
「しませんか」
「するけど、今は言わせないで」
シュウは二人を見て笑った。既に黒紋系列の舞台工房から、糸撚りの研究費を提示されている。金額を聞いた結人は、正直に「うちでは出せません」と答えた。
黒紋側の契約には、洗い場の仕事を辞めなくてよい条件もあった。週に三日だけ研究室を使い、残りは灰区へ戻れる。シュウは金だけで選んだのではない。
「ORIGOなら、毎日そこの色師と喧嘩できる」と結人。
「それは魅力なの?」とシュウ。
リュシアが横から言う。「かなり」
三人とも笑い、すぐ止まった。誘いが本気だと分かっているからだ。シュウは研究費の札を胸へしまい、黒紋工房へ行くと決めた。
結人は悔しかった。けれど、競争相手の条件が良いことまで悪く言えなかった。
リュシアはさらに機嫌を悪くした。
「値段で負け、色で負け、誘い方でも負け。あなた今日すごいわね」
「でも、きれいです」
「それが一番腹立つ」
表彰後、シュウは新しい布をリュシアへ一尺だけ渡した。
「夜明け色を見て作りました。負けたと思ってないなら、受け取らなくていい」
リュシアは奪うように受け取った。
帰り道、彼女は一言も話さなかった。ORIGOへ着くと、夜明け衣の見本を出し、シュウの布を隣へ掛ける。橙と銀は日が傾くほど強くなり、夜明け色は暗くなる。
「名前を付けるなら」と結人が言う。
「本人がまだって言った」
リュシアは針箱を開き、二枚の布の間に新しい空白を作った。
負けた色を隠さず、明日の作業台の一番明るい場所へ残した。




