第78話 踊る色
翌日の夕方、南座の稽古場は茶色になった。
最初からそうだったわけではない。
テオが青い舞台布を着け、中央で腕を上げる。身体より遅れて布が弧を描く。その一拍の後ろを、さらに色が追えば面白い――そう言い出したのはリュシアだった。
彼女は床へ七枚の染料皿を並べ、布の裏に細い色糸を通した。糸がテオの呼気で温まり、息を吐いた少し後に色が浮く仕掛けだ。
「動きより先に光らせないでください」と結人。
「分かってる。私は色を置く人よ」
最初の試験で、テオがまだ息を吸っているうちに青が肩まで走った。
色は鮮やかだったが、テオの表情と合っていなかった。台詞を忘れて青ざめている本人より先に、布だけが勝利したように輝いている。
リュシアは皿の並びを変え、テオの胸へ指先を置いた。触れたところから本人の金の紋が逃げるので、すぐ離す。
「息を数える。四つ吸って、六つ吐いて」
「舞台で数字を思い出したくない」
「なら歌って」
ミナが短い節を歌い、テオが同じ長さで呼吸する。結人は舞台の板へ耳を当てた。踵が着く音と、色糸が熱を拾う瞬間に、ほんの少しずれがある。そのずれが揃うと、布は本人の動きに従うのでなく、後ろから追いかけてくるように見えた。
「先に格好よくならないでくれ」
「あなたが舞台へ出る前から緊張してるのが悪い」
「緊張する役者を材料にするんだろ」
舞台端で見ていたミナが笑う。テオと同じ劇団の歌い手で、今日は稽古の合間に見物へ来ていた。
結人は布の裏へ潜り、色糸を一本ずつ弾いた。リュシアの力が強すぎる。テオの呼吸を待つはずの色が、作り手の「ここで咲いてほしい」という期待に押され、先走っている。
「少し薄めませんか」
「私の色を?」
「テオさんが追いつけるくらいに」
リュシアは返事の代わりに黄色の皿へ水を足した。
二度目。テオが回る。今度は遅れすぎた。彼が舞台端で止まってから、背中だけがのんびり金色になる。
「幽霊が置いていかれたみたい」とミナ。
「褒めてる?」
「全然」
テオが笑って息を乱した瞬間、別の糸まで温まった。青、黄、赤紫が同時に滲み、混ざり、舞台の上へ大きな泥色の雲が広がった。
リュシアは絶句した。
結人は濡れ布を取りに走り、染料桶へ片膝を突っ込んだ。テオの顔も、ミナの腕も、鏡も柱も同じ薄茶へ染まる。
「完璧」とミナが言った。「誰が主役か分からない」
リュシアの肩が震えた。怒るのかと思った次の瞬間、彼女は泥色のテオを指差して吹き出した。
笑いが稽古場へ広がった。
皆で床を洗った。テオは衣を外さず、水を浴びながら同じ回転を何度も試す。失敗した色は落ちていくのに、笑って呼吸が短くなった時だけ、背中へ小さな橙が遅れて咲いた。
掃除係の老婆が「役者は床を汚すだけで金を取る」と箒を投げ、テオが受け損ねた。柄が染料皿へ落ち、今度は老婆の足元へ紫が跳ねる。彼女は怒鳴りながらも、自分の足跡が一歩遅れて床へ浮くのを見ると、わざと二歩余計に歩いた。
ミナは歌を止め、洗い桶を太鼓代わりに叩いた。テオがその音へ合わせて回る。色が出るたび「早い」「遅い」「今のは好き」と、見る者の言葉がばらばらに飛ぶ。リュシアは最初、全部を書き取ろうとしたが、紙が濡れたので諦めた。
「客の好みを一つにするのは無理ね」
「最初からそうです」
「知ってた顔をしないで。あなた、用途を一つにしたがるでしょう」
結人は反論せず、茶色くなった袖で額を拭いた。
「今の」とリュシア。
「狙った?」と結人。
「狙ってない。だから腹が立つ」
彼女は色糸を一本だけ残し、他を抜いた。息を整えた時ではなく、息が崩れた時にだけ出る色。完璧な演技ではなく、本人が本当に笑った跡を追う。
日が落ちる頃、テオの青布は元の色へ戻った。床にはまだ落ち切らない茶色の跡がある。
ミナが指先でその跡を取り、テオの頬へ一本引いた。
「祭りの日も失敗したら?」
「もっと派手に洗う」
テオが答えると、背中に橙色が半拍遅れて灯った。
今度は誰も先に笑わなかった。色が咲いてから、皆で笑った。




