第77話 役に立たない服
港の火災から半年が過ぎ、ORIGOにはようやく扉がついていた。
ただし、閉めると下が石床へ引っ掛かる。朝一番に来た結人が腰を入れて押していると、外から軽く二度叩かれた。
「開店前です」
「開いてないだけでしょう」
ノアの声だった。
結人がもう一度押すと、扉は急に外れ、彼は尻もちをついた。倒れかけた板の向こうに、見覚えのない若い男が立っている。背が高く、腰の金色の紋には細い筋が幾重にも走っていた。男は扉を受け止めるでもなく、見事な姿勢で一歩だけ退いた。
「今の入り方、舞台で使えるな」
「使わないでください。店が壊れます」
ノアは男をテオと紹介した。王都南座の役者で、来月の祭典に向けて新しい姿を探しているという。
テオが注文札を作業台へ置いた。名前と予算は書いてある。用途の欄だけが空白だった。
「ここが抜けています」
「抜いた」
「何をする服ですか」
「何もしない」
結人は札を裏返した。白紙だった。
「寒さを防ぐとか」
「肌の守りで足りる」
「声を遠くへ」
テオは胸を張り、短く「あ」と発した。棚の糸巻きが震え、路地の鳩が飛び立った。
「……必要なさそうですね」
「荷物も運ばない。怪我も治さない。敵も倒さない。ただ、格好よく立ちたい」
テオはそう言うと、持参した布を窓辺へ放った。海の向こうから来た薄布らしく、床へ落ちるまでに一度ふくらみ、紙より軽い音を立てる。青は一色ではなかった。明るい方へ透かすと緑が混じり、影では夜の水のように沈んだ。
「これを買うため、三か月、酒を減らした」
「完全にはやめてないんですね」
「役者が酒をやめたら、失恋した夜に何を飲む」
ノアが、まだ起きてもいない失恋へ頷いた。結人だけは布端の解れを見つけ、会話の途中で床へ膝をついた。撚りの違う二本が一本のように渡されている。指先へ吸いつく柔らかさなのに、引けば思ったより強い。
「本番用に一枚しかない」とテオが言った。「切り損ねたら終わりだ」
結人は鋏を開いたまま止まった。港では、失敗すれば同じ布をもう一度用意できた。これは替えがない。役に立たないものへ、三か月分の我慢が載っている。
結人は次の言葉を待った。来ない。
ノアが作業台の隅へ鏡を立てた。
「この人、港で仕事帯ばかり作って、布に用事がないと切れなくなったの」
「そんなことは」
否定しながら、結人の手はテオの肩幅と歩幅を測っていた。右足を出す時に胸が開き、振り返る寸前だけ顎が下がる。役に立たなくても、動きには理由がある。
テオが持ってきた青い薄布を腰へ当てると、金色の紋が沈んだ。ノアはすぐ赤へ替えた。
「赤なら客席の奥まで顔が立つ」
「俺は青が好きだ」
「好きと似合うは違う」
「今日は好きな方を着たい」
ノアの指が止まった。彼女はテオの姿を見る時、答えへ着くのが早い。結人はその速さを便利だと思っていたが、男は便利にされる気がなさそうだった。
青布を身体へ密着させれば、肌を流れる力を塞ぐ。肩と左腰へ小さな支えを置き、布の大半を浮かせた。歩けば身体より少し遅れて追い、止まっても裾だけが前へ進む。
最初の仮留めでは、布が右腿へ吸いついた。テオの金色の紋がその形に欠け、彼は息を呑む。結人はすぐ留めを外し、肩の支えを指一本分だけ外へずらした。
二度目は、歩くたび布が顔へ戻ってきた。三度目は美しく広がったが、振り向いたテオの耳を打った。舞台役者は「痛くない」と言い張り、ノアは赤くなった耳を無言で鏡へ映した。
「きれいに殴られてますね」と結人。
「客席からは見えない」
「本人には見えます」
結人は裾へ小さな重りを足すのでなく、布の内側の糸を斜めに取り直した。重さを増やせば遅れは作れるが、テオが持ってきた軽さが死ぬ。何度も歩かせ、扉から鏡までの七歩だけで、青が最も長く空中に残る位置を探した。
仮縫いの途中、結人は内側へ袋を付けようとした。
「何を入れる」とテオ。
「舞台小物を」
「今度の役は手ぶらだ」
「いつか使えます」
ノアが針を抜いた。「いつかの便利を、今日の形へ勝手に入れない」
結人は袋を諦めた。次に転倒防止の切れ目を増やそうとして、テオに止められる。
「安全は要る。でも、揺れが死ぬなら一つ減らしてくれ」
「転びますよ」
「転ばない範囲で、一番危ないくらいがきれいだ」
役者の注文は厄介だった。仕事帯なら、成功は荷を運べたかで測れる。これは鏡の前で本人が黙るかどうかしかない。
夕方、青布は片側だけ膝下まで流れ、反対側は腰で短く終わった。テオが一歩出す。青が遅れて持ち上がる。二歩目で金の紋と重なり、暗い水面へ灯りを落としたように見えた。
三歩目、彼が振り向く。身体は正面へ戻ったのに、布だけが一瞬、元の方向を惜しんだ。
テオは鏡を見たまま動かなかった。
結人は縫い目を確かめたくなり、一歩近づく。ノアが胸を手の甲で押し戻した。
「今は、本人の時間」
テオは肩を上げ、下げ、格好をつけて失敗し、もう一度笑った。誰かの役でも、港の労働者でもない自分の姿を、鏡の中で探している。
「何の役にも立ってないな」
「はい」
「最高だ」
結人は注文札を取り、空白の用途欄へ何か書こうとした。結局、そこは空白のままにした。
代わりに、値段だけを書いた。




