第76話 千本に勝てない一着
事故から三十七日後、エナは港へ戻った。
荷役人としてではない。
新しい綱場の中央に低い台を置き、その上へ座る。右肩は以前から高く上がらず、左手は三本の指と前腕の支えを使う。彼女の前には、新人が十二人並んでいた。
「速い結びを教えてください」と一人が言う。
「教えない」
ざわめきが起きる。
「私の昔の手は、もうない。あんたたちの手も、私と同じじゃない。今日は、失敗した時に自分でほどける結びから始める」
エナは縄を杭へ掛ける。
一息で投げない。輪を届け、一度支えへ預け、手首を休めてから締める。事故前の半分以下の速さだ。
新人たちが真似る。五本指で同じ形を作ろうとした者へ、エナは縄を返した。
「私に合わせるな」
その声を聞き、結人は綱場の外で笑った。
ORIGOが作った片手用具は、エナ一人の前腕へ付いている。大港の作業員の腰には、黒紋商会の千本が並ぶ。朝の鐘が鳴ると、同じ手順で検査され、同じ棚から交換部品を受け取る。
数では、比べるまでもない。
それでも、エナの前にいる十二人は、黒糸から昔の動きを受け取るのではなく、自分の手で結び、失敗し、ほどいている。
カシウスが結人の隣へ立った。腰には、食堂の売り場で買ったORIGOの帯を着けている。黒い仕事着の上で、灰色の布だけが妙に目立つ。
「修理を頼みに来ました」
「壊れたんですか」
「左の支えが合いません」
結人はすぐしゃがみ込み、帯を触る。カシウスは歩く時、右足より左足がわずかに早い。数字を確認しながら進む癖で、左腰へ重さが偏る。
「標準に合わないですね」
「不愉快そうに嬉しそうですね」
「複雑です」
結人は一穴ずらし、支えを柔らかくした。
「代金は」
「競争相手価格で二倍」
「商売が上手になりました」
「まだ、四本しか売っていませんからね」
二人は港を見た。
主契約は黒紋商会。セラは検査場に残り、千本の修理網を整えている。ORIGOの累計百本のうち、四本は買い手の仕事場に、九十六本は潮待ち港にある。門外の店はまだ扉を買えていない。
負けたものは戻らない。
エナが十二人目の結びをほどき、台から立った。正式な復帰を示す港札を、ローデンが渡す。
札には「荷役人」ではなく、「結索教官」と刻まれていた。
彼女は長く見た後、自分の腰へ下げた。
「運ばないんですか」と新人。
「運べる日は運ぶ。教える日は教える。札に身体を決めさせるな」
昼になると、食堂で小さな祝いが開かれた。バシュが酒を持ち、リコが赤い貝殻をエナの支えへ付けようとして断られる。ミオラは欠けた黄色い木魚を持ってきた。
「直す?」とアミが尋ねる。
エナは二片を見比べ、自分で細い穴を開けた。結人は手を出さない。二片をぴったり戻さず、間へ短い青糸を渡す。欠けた幅だけ、魚の身体が長くなる。
「前と違う」とアミ。
「今の方が泳ぎやすい」
黄色い魚が、教官札の横で揺れた。
食堂の戸が開き、ノアが入ってきた。両腕に色布を山ほど抱えている。港の灰色と黒ばかりを見てきた目には、眩しいほど派手だった。
「結人。次の依頼」
「何を運びますか」
「何も」
ノアは一枚の布を広げる。光を受けるたび、青から金へ色が変わる。支えも非常糸もない。
「今度は、役に立たなくていい服を作って」
結人は灯祭りで揺れた色布を思い出した。荷重を支える形では見せられなかった色が、目の前で金へ変わる。
「今度は、見て格好いいと言わせる方で勝負ですね」
匙を置き、両手で布へ触れた。
カシウスが先に笑う。
エナは新しい左手で酒杯を持ち上げた。こぼしたが、誰も拭かなかった。床に落ちた一滴が、色布の金を映していた。
カシウスは金色に変わった布を指で弾いた。
「役に立たない物を、何着売れると思いますか」
「あなたより一着多く」
「では私は、その一着を最初に買います」
結人は喜びかけて、競争相手に先を越されたことへ気づいた。床の酒を拭かなかった者たちは、もう一度笑った。




