第75話 海へ沈めなかった型
事故から三十三日後、エナは切った黒糸を小舟へ積んだ。
行き先は沖ではなく、港外れの塩焼き場だった。強い塩と熱で繊維を崩し、陶器の中へ封じる。海へ流せば見えなくなるが、どこへ届くか分からない。
それでも小舟が深い場所へ出た時、エナは足元の枠箱を船縁へ寄せた。封器ごと沈められる、と気づいてから目を離せなくなった。
「捨てるのか」と結人。
「一番早い」
「海は戻してきます」
「糸を?」
「僕の国では、捨てた物を大体戻してきました」
エナは笑わなかった。船が揺れるたび、枠箱の中で陶器が小さく鳴った。
カシウスも同船していた。彼は止めようとせず、海面を見た。
「沈めれば、商会は追跡できません」
「だから来た?」とエナ。
「見届けるためです」
「自分の失敗が見えなくなるのを?」
言葉が刺さる。
エナは枠箱の持ち手を握った。右肩が途中で痛み、箱は船縁の内側へ傾いたまま止まる。
下には暗い水。あと少し押せば見えなくなる。
その時、漁船が一艘すれ違った。網に黒い布片が絡んでいる。火災の時に海へ流れた古い膜だ。漁師が棒で外し、舌打ちする。
「また港のごみか!」
エナは持ち手を離した。結人が箱を足元へ戻すと、彼女は木の楔を自分で差し込み、もう動かないようにした。
「海を、私たちの捨て場所にするな」
誰へ言ったのか分からない。結人にも、カシウスにも、自分にも聞こえた。
塩焼き場では、エナが鍵を開けた。黒糸を細かく切り、濃い塩水へ浸す。熱した陶器へ入れ、ガルドが蓋を鉄輪で締める。糸は燃えず、黒い筋のまま固まっていく。
エナは自分の名を書こうとして、止まった。
「名前を残す?」
「残す」と彼女。「盗まれたことも」
陶器には、エナの名、事故の日、許可なく複製されたこと、切断を本人が選んだことが刻まれた。黒紋商会の印とORIGOの印は、責任者として下へ並ぶ。
封じ終わった時、夕日が塩田を赤く染めていた。
帰りの船へ乗る前、古い作業小屋から風に煽られた旗が落ちた。誰も使っていない、白嵐以前の信号旗だ。
端に、一本だけ黒い糸が混じっている。
糸先が持ち上がった。
親指へ輪を掛ける動きではない。腕を胸へ寄せ、三度、外へ振る。王都の建国旗で見た古い手振りと同じだった。
エナは封じた陶器を見る。
「私の糸じゃない」
カシウスが旗へ近づく。「これほど古い布に、なぜ黒糸が」
結人は旗の動きを目で追った。
三度、外へ。
風が止んでも、三度目だけ布端が強く張った。誰へ向けた合図なのか、ここには答える人がいなかった。
エナは旗を切らなかった。
「これは私の手じゃない。勝手に決めるな」
三人で旗を枠へ留め、別の陶器箱へ入れた。蓋を閉める直前、端の黒糸がもう一度持ち上がった。
エナの投げ結びより、ずっと古い間の取り方だった。




