第74話 覚えた手を返せ
翌朝、黒紋商会の訓練場へ二十三人が集められた。
事故前の投げ結びを糸から教わった新人。教官。黒糸を複製した技師。カシウス。結人。最後にエナ。
床の中央には、原糸と三巻の写しが置かれている。
エナは一人ずつへ尋ねた。
「この手を、誰から習った」
最初の新人は教官を指した。教官は黒糸を。技師は教育部の命令板を。命令板には、港の救命動作を標準化する、と書かれている。エナの名はどこにもない。
「消せ」と彼女。
技師が答える。「糸の記録は消せます」
「身体は」
誰も答えない。
新人の一人が、泣きそうな顔で左手を開いた。「もう投げ方を知ってます。忘れろと言われても」
エナは彼を責めなかった。
「使うなとも言えない。船が流れたら、投げるだろ」
「はい」
「それが一番腹立つ」
奪われた技術が、人を救うかもしれない。役立つほど、返してもらえない。
カシウスは書面を出した。
今後の使用停止。原糸と写しの破棄。訓練を受けた者は、エナの名を技術の由来として残す。災害時の使用については、本人の許可を改めて得る。
「災害時だけ残したい」と彼は言った。「この結びで、外海の船を救える」
エナが笑った。短く、冷たい。
「私の手を取った夜にも、人を救ったと言うのか」
カシウスの顔が硬くなる。
結人は原糸を見た。切れば、二度と同じ動きを完全には取り出せない。古代の糸が勝手に手振りをする謎を追う手掛かりも減る。
「一本だけ、封じて調べる方法は――」
言った瞬間、エナの視線が来た。
結人は続けられなかった。
「お前も、私より先の人を見てる」
「エナさんの事故を繰り返さないために」
「私が残したいかは?」
結人は、事故の朝に受け取った「切れ」という返事を覚えていた。今も同じ返事を聞きたくなくて、別の頼み方を探していた。
「残してほしいのは僕です。調べたい。でも、もう一度お願いすることで、断りにくくしていますね」
瓶から手を離した。エナは返事をせず、鋏を自分の方へ寄せた。
エナは低い台へ座った。供給糸を外した陶器瓶から、技師が一本ずつ白い切断皿へ移す。端を二つの骨留めで固定してから、エナが右手と前腕の支えで鋏を持った。
セラが赤い柄の鋏を差し出した。
「切れるか」
「遅いけど」
「待つ」
一巻目。エナが切る。
二巻目。刃が滑る。セラは手を添えず、鋏の角度だけ指で示す。
三巻目。
最後に原糸。
エナはすぐ切らなかった。事故前の自分の左手が、その中に残っている。もうできない投げ方。嫌悪だけでなく、惜しさも顔へ浮かんだ。
「これを残したら、私の手は戻る?」と彼女。
誰も嘘をつかなかった。
鋏が閉じる。
黒糸は二つに分かれ、白い皿の上へ落ちた。
新人たちの身体から、覚えた動きは消えない。エナは彼らへ向き直る。
「使うなら、私の名前を唱えるな」
皆が驚く。
「名前を付けたら、私の形を守ろうとする。自分の身体に合わせて変えろ。右肩が上がるなら、上げろ。指が五本あるなら、五本で投げろ」
最初の新人が縄を持った。
エナと同じ動きから始め、最後に右腕を高く伸ばす。輪は遠くへ飛んだ。
エナは苦い顔をした。それでも止めなかった。
白い皿の上には、切られた黒糸が残っている。カシウスが回収袋を広げると、エナは首を振った。
「商会の材料棚には戻すな」
「切っても、動きが残るかもしれません」
「だから箱を出してもらった」
エナは昨日の枠箱を引き寄せた。技師が皿を入れて蓋を締め、セラが隙間へ糸を通して外へ引けないことを確かめる。鍵はエナが自分の袋へ入れた。
「明日、塩焼き場へ。開ける時は私を呼べ。運ぶのは頼む」
結人が箱の持ち手を握った。商会へ返す材料札を、ミオラが目の前で外す。代わりに、エナが選んだ行き先を書いた札を付けた。
カシウスは空の回収袋を畳み、箱を積む荷車の方へ歩き出した。




