第73話 盗まれた投げ縄
事故から三十一日後、エナは黒紋商会の訓練場で、自分の左手を見た。
もちろん、本物の手ではない。
新人十人が同じ角度で親指へ輪を掛け、中指でひねり、腰を回す直前に縄を浮かせる。事故前のエナが使っていた投げ結びだった。
誰も彼女から教わっていない。
「止めろ」
エナの声は大きくなかった。それでも訓練場の動きが止まる。
教官が近づいた。「港湾標準課程です。黒糸に残った熟練を――」
エナは一本の縄を奪い、地面へ叩きつけた。
「誰の熟練だ」
教官は答えられない。
結人とミオラは少し遅れて着いた。知らせを受け、カシウスも工場側から走ってくる。
訓練場の壁には、動作名が書かれている。
投げ結び・港式。
エナの名はない。
彼女は左手を持ち上げた。三本の指。まだ腫れが残り、掌を完全には閉じられない。
「これは、もう私にはできない」
新人たちが視線を落とす。
「なのに、あんたたちは私の昔の手で働く」
誰も悪くない。新人は安全に縄を投げる方法を教わっただけだ。その事実が、怒りの行き先をなくしていた。
カシウスは壁の札を外した。
「訓練を停止します」
「停止したら返る?」とエナ。
「原糸と複製糸を調べます」
「返るか聞いた」
カシウスは黙る。
一度身体へ覚えた動きは、糸を切っても消えない。十人の新人は、既に自分の筋肉で投げ結びを覚えている。
結人はそのうち一人の手を見た。
事故の夜、塔で同期した作業員だった。彼はエナと目を合わせられず、縄を握る手を背中へ隠す。
「あなたが盗んだわけではありません」と結人。
エナが振り向く。「慰めるな」
「すみません」
「便利だと思っただろ」
言い返せない。
事故前、結人も思った。一人の熟練を残せば、新人の怪我を減らせる。今も、全部消すことが正しいと即答できない。災害で同じ投げ方が誰かを救うかもしれない。
エナはその迷いを見抜いた。
「お前もか」
その一言の方が、怒鳴られるより痛かった。
訓練場の倉庫から、黒い陶器瓶が出された。三巻の芯に「十二日・試三」「十二日・試七」「十二日・試九」と刻まれている。火災後に治療院へ封じた原糸ではない。
ミオラが持ってきた試験簿を開く。受注十二日目の夜、エナが十本だけを許した時の日付だった。
教官は棚から複製票を取り、三つの芯へ並べた。
「翌朝の解体前に、私が保存を指示しました。三番、七番、九番から一巻ずつ。教材棚へ入れたのも、私です」
原糸を解けば終わるはずだった約束の横に、別の棚へ渡すための印が三つ押されていた。
「一晩だけ、十本まで」とエナ。
教官が青ざめる。「教育部が、救命技術として保存を――」
カシウスの顔から表情が消えた。
自分の命令でなくても、自分の商会で行われた。
「責任者を呼べ」
「私です」と教官が答えた。
カシウスはすぐ解雇を言い渡さなかった。まず鍵を取り、訓練場を閉じる。新人たちへ帰れとも言わない。
「全員、ここにいてください。誰から、いつ、何を教わったか、本人の言葉で残す」
エナは陶器瓶へ手を伸ばし、重さを確かめて戻した。
「運ぶ箱を出せ。蓋だけじゃ、昨日と同じだ」
技師が持ってきた枠箱へ瓶を固定し、糸が外へ出ない網蓋を締めた。エナは封の印をつけて鍵を抜く。箱は結人が持つことになった。
「私が切る」
「複製先の数を照合してからです」とカシウス。
「明日。全部出せ」
彼女は訓練場を出た。
壁から外された「港式」の札だけが、泥の上へ伏せている。
結人は拾わなかった。エナの後を追ったが、彼女は振り返らなかった。




