第71話 百本目の夜
事故から二十六日後、百本目が完成した。
繰り上げられた審査は終わり、港の主契約を失った。当初の試験日には、まだ十一日ある。作業台には結人とガルド、ミオラ、時々来るエナしかいない。セラがいなくなってから、最後の検査だけがいつも遅れた。
百本目は、誰の身体へ合わせた物でもなかった。
共通の安全骨、本人が引く輪、交換できる支え。外側は空白にしてある。使う人が決まった時に、初めて完成する余地を残した。
「未完成では」とミオラ。
「百本目としては完成です」
「便利な言葉」
結人は内側の名札を開いた。
セラ、マルタ、ソウ、ガルド、ミオラ、エナ、アミ。ほかにも途中で一度だけ縫った人、試した人、壊した人の印が並ぶ。結人の名は最後に小さく入れた。
夜の鐘が鳴っても、誰も祝おうとしなかった。
累計では百本。四本はもう客の腰にあり、ここにあるのは九十六本だった。それでも並べる場所がない。工房の床から路地まで、腰帯が長い列を作る。雨が来れば全部濡れる。
そこへ、黒い荷車が止まった。
降りてきたのはセラ一人だった。
黒紋商会の仕事帰りらしく、腰の鋏には赤い検査糸が巻かれている。挨拶もせず、百本目を手に取る。
輪を引く。安全骨を折る。支えを濡らす。右手だけ、左手だけ、目を閉じて外す。検査は容赦がない。
結人は口を出さずに待った。
最後にセラは、内側の名札を見る。自分の名が残っているところで、指が止まった。
「私が抜けた後の縫い目は?」
「ここからです」
結人が示すと、セラは一本ずつ逆へ辿った。三か所、糸が甘い。二か所、余分に固い。彼女は直さず、炭で印だけ付けた。
「落としますか」
「直すところは付けた。合格の糸は、その後」
結人が甘い縫い目をほどき、ガルドが固い支えを削った。セラは椀の湯が冷めるまで待ち、もう一度、濡らした帯から片手で輪を抜く。今度は炭の印を爪で払った。
セラは腰から緑の糸を外した。黒紋商会で合格品へ通す色だ。
百本目の内側へ、短く縫う。
誰も声を上げなかった。
結人の喉が詰まり、代わりにガルドが咳払いをする。ミオラは帳面へ「百」と書き、その横へ日付を入れた。
「契約はない」とセラ。
「分かっています」
「買い手もいない」
「探します」
「千本には勝てない」
結人は九十六本の列を見る。
「知っています」
「なら、何で作った」
答えは一つではなかった。負けたまま終わりたくなかった。作り手の名を消したくなかった。エナの新しい手順を残したかった。自分が作れると証明したかった。カシウスへ見せたかった。
「作りたかったからです」
セラは呆れた顔をした。
「一番、服屋らしい答えだな」
彼女は工房へ戻らず、荷車へ乗った。だが百本目に通した緑糸は持ち帰らない。
夜更け、手元にある九十六本を路地へ吊るした。
風が通ると、貝殻、匙、名札、空白の布が、それぞれ違う音を返す。エナは酒場から揚げ魚を持ち込み、ガルドは一番大きい皿を自分の前へ置いた。結人が九十六本を数え直そうとすると、ミオラが魚の骨を数えろと言う。
結人は九本で諦めた。
路地の上では、貝殻と木の匙が、揃わない音を返していた。




