第69話 空いた作業台
雨の夜、ORIGOには針の音が一つしかなかった。
セラの台は空。マルタとソウの椅子もない。結人は売れ残った帯を一本ずつほどき、別の用途へ変えようとしていた。
八十三本。
腰型を肩型へ。港で売れないなら農場へ。農場で不要なら運送屋へ。使う人を想像する前に、行き先を増やそうとしている自分に気づいても、手を止められなかった。
「それ、誰の?」
入口でエナの声がした。
事故から二十二日。左手の腫れは引き、前腕には治療院で作った支えを着けている。三本の指で傘の柄を持ち、右肩へ負担を掛けないよう身体を傾けていた。
「まだ決まってません」
「決まってない人の帯を直してる?」
「必要になる形へ」
「誰に」
答えられない。
エナは濡れた傘を畳み、空いたセラの台へ座った。そこだけは誰も使わなかった場所だ。
「ほどく道具、貸して」
結人は、治療院でエナが選んだ輪付きの道具と、細い目打ちを並べた。
「この縫い目なら、どちらがいいですか」
「今日は輪。昨日より、掌が引く」
彼女は木の柄ではなく、輪の付いた平たい道具を選んだ。前腕の支えへ引っ掛け、肘を引いて糸を浮かせる。速度は遅い。一目ほどくのに、以前の何倍もかかる。
二人で一本をほどいた。
会話はほとんどなかった。雨が天幕を叩き、糸が切れる小さな音だけが続く。
「捨てる気だった?」とエナ。
「売れないなら、布へ戻そうかと」
「あと十三本、切ったまま置いてあるだろ」
「注文はなくなりました」
「私の新しい結びで、替えられる支えを確かめたい。百本目までを、その試験に使えないか」
結人は棚の裁断布を見た。次の百本を仕込む金はない。切りかけの十三本なら、骨を買い足さず作れる。ミオラに工賃を確かめてから答えようと思った。
結人は針を置いた。
勝つためだった。カシウスの千本へ追いつきたかった。港の人に、自分の方法を選ばせたかった。そこへ、実際に働く帯を作りたい気持ちもあった。
どれが一番かは、もう分からない。
「百本目までを、作り直せるか確かめる一区切りにします。材料も工賃も先に数えます」
「その後は」
「次の人の仕事を見るまで、新しい本数は増やしません」
「説得して押しつける?」
「しません」
「今、少し考えただろ」
図星だった。
夜半、一目をほどいたエナの左手が震え始めた。結人が道具を取ろうとすると、彼女は自分で外した。
「今日は終わり」
「あと少しで」
「お前も」
結人は従った。
ほどいた一本の帯は、布片と骨と糸へ分かれている。元へ戻ったように見えるが、汗染みと針穴は消えない。誰かが使った形が残っている。
エナは帰る前、黄色い木魚の欠けた二片を台へ置いた。
「アミが、直したいなら自分で決めろって」
「決めたんですか」
「まだ」
二片は合わせれば魚になる。それでもエナは結人へ渡さず、自分の袋へ戻した。
翌朝、結人は売れ残りの箱へ新しい札を付けた。
売る相手未定。ほどくな。
セラの空いた台には、エナが一目だけほどいた帯が残っていた。糸の穴が、雨上がりの光を小さく通していた。




