第65話 セラが工房を出る
事故から十三日目の夕方、セラは自分の鋏を研いだ。
ORIGOでは、仕事の終わりに必ずすることだった。刃を拭き、油を一滴落とし、光へかざす。違ったのは、その後、革の鞘へ入れたことだ。
結人は見ないふりをして、売れ残った帯の糸を数えた。
「いつからですか」
「明日」
答えは決まっていた。
黒紋商会の検査責任者になる。千本すべてを止められる席へ座る。事故後、カシウスは条件をさらに変えた。検査場だけでなく、訓練用の黒糸を複製する前にもセラの承認を必要とする。
「事故があったから?」
「事故があったのに、あたしがここへ残る理由があるか」
「ORIGOの帯も事故に関わりました」
「だから、あんたのそばにも止める人が要る」
「では残ってください」
口から出た瞬間、自分勝手だと分かった。
セラは怒鳴らなかった。壁に吊った失敗縫いを一つ外し、指で裂け目をなぞる。
「ここにいれば、二十九本を止められる。向こうなら千本を止められる」
「数で決めるんですか」
「エナの手を見て、まだ数を馬鹿にできるのか」
結人は黙った。
分かっている。セラは高い賃金だけで移るのではない。黒紋工場の工程が好きだった。誰が縫い、誰が検査し、どこで止めたか一目で分かる。彼女が一度赤札を置けば、百人が理由を聞く前に手を止めた。
それでも、理解すれば痛くなくなるわけではない。
「カシウスに取られた感じがします」
セラの手が止まる。
結人は目を伏せた。「格好悪いので、言わないつもりでした」
「十分格好悪い」
「はい」
「でも、そっちの方がましだ」
彼女は作業台の引き出しを開けた。針は半分残す。糸巻きも、失敗縫いの壁もそのまま。持っていくのは長年使った鋏と、黒紋商会の条件書だけだった。
「戻りますか」
「分からない」
「戻ると言ってください」
「言わない」
また、正しい答えだった。
工房の外では雨が降り始めていた。セラは余りの天幕を短い骨枠へ張り、頭の上へ持ち上げた。布は肩にも髪にも触れない。片手で鋏の鞘を押さえ、もう片方の手で小さな屋根を支えて歩く。
入口で、彼女が振り返る。
「百本目を作ったら、検査へ持ってこい」
「落としますか」
「落とす」
「少しは甘く」
「しない」
結人は笑えなかった。セラも笑わない。
彼女が路地の角を曲がるまで、鋏の鞘が腰へ当たる音が聞こえた。
作業場へ戻ると、セラの台だけが広く空いている。壁には彼女が捨てずに残した失敗縫いが三十七枚。その下に、祭りの夜に色糸を巻いた非常糸が一本、置き忘れたように残っていた。
結人は手を伸ばし、触れなかった。




