第63話 手袋のない世界
事故から四日後、エナは左手を布で包ませなかった。
治療院の寝台で、肘から先を白い台へ載せている。薬指と小指は根元からなく、残った三本も腫れていた。治療師は傷を清潔に保つ薄い膜を貼ったが、形を隠す布は使っていない。
結人は椅子へ座ったまま、何度も目を逸らしそうになった。
「見るんだろ」とエナ。
「はい」
「なら見ろ」
彼は左手を見た。
失った指だけでなく、残っている親指、人差し指、中指。縄の擦れ跡。掌の中央に残った硬い皮膚。以前の手と違う。だが、なくなった物だけでできている手でもない。
結人は鞄から紙を出した。
「前腕で道具を支えて、掌の三点で――」
「元の手に戻す?」
「違います」
答えが速すぎた。
エナの目が細くなる。
結人は紙を畳んだ。「戻せません」
言葉にすると、治療院の空気が重くなった。
「便利にする前に、それを言え」とエナ。「皆、まだ何か付ければ前と同じになる顔をしてる」
窓の外で、港の鐘が鳴った。仕事の開始を告げる音だ。エナの身体が一瞬、そちらへ向こうとする。右肩は古傷で上がらず、左手はまだ動かせない。
「仕事をしたいですか」と結人。
「したい」
「前と同じ仕事を?」
エナはすぐ答えなかった。
縄を投げ、船を止め、班の先頭へ立つ。左手の二本を失った以上、同じ速さと同じ握り方は戻らない。
「分からない」と彼女は言った。「だから先に決めるな」
結人は紙を開き直した。
今度は手の形を描かない。エナが寝台の上でできる動作を一つずつ試す。親指と人差し指で布端を挟む。中指を添えて押す。手首を返す。前腕で棒を押さえる。
細い木片を渡すと、三本の指では握り込めない。だが、掌へ輪を置けば、指を閉じずに引ける。
「覆わない形にします」
「なぜ」
「見たいから?」
「誰が」
「エナさんが、自分の手を」
彼女は少し考えた。「それならいい」
布を袋のように被せるのではなく、前腕へ二本の支えを置き、掌の外側に小さな輪を浮かせる。指へ力を集中させず、肘を引くと輪も動く仕組みだ。
最初の試作は、治療院の匙を持ち上げただけで外れた。
結人が直そうとすると、エナが止める。
「今日の私には重い」
「匙が?」
「重い日もある」
結人は支えを強くしなかった。匙を軽い木製へ替える。次は持ち上がった。
エナは自分で粥を一口食べた。
誰も拍手しない。彼女も笑わない。ただ、二口目を自分で運ぶ。
「条件がある」とエナ。
「何ですか」
エナは匙を落としかけ、右手で椀を寄せた。
「その道具は直していい。私を直すって言うな」
結人は落ちた輪だけを拾い、机へ置いた。
結人は頷いた。
帰り際、治療師が左手を隠すための布をもう一度勧めた。エナは断り、薄い治療膜だけの手を窓の光へ出した。
欠けた黄色い木魚は、寝台脇の棚に置かれている。
結人が「直しますか」と聞くと、エナは匙を持ち上げたまま答えた。
「まだ、そのまま」




