第62話 止まらなかった糸
火災の翌朝、港の所在確認が終わった。黒い帯を着けた九百四十二人の所在を確認し、残る五十八本は非番者の家か火の外にあった。黒板の記録から救助隊が見つけた人は八十六人。ORIGOの帯が直接支えた救助は十一人だった。
治療院へ運ばれたエナの名も、帰還した人の欄へ入った。だが、港に残ったその人の動きは止まっていなかった。巻上げ塔の床で、黒糸だけが輪を作っていた。
人は全員外へ出た。歯車は止まり、樹脂樽も地面へ下ろされた。それなのに、床へ落ちた黒糸が、一定の間隔で輪を作る。
左へひねる。浮かせる。引く。
エナの投げ結びだった。
本人は治療院で眠っている。左手はもう、その形を作れない。
結人は塔の入口で立ち尽くした。昨日の血は砂で覆われているが、黄色い木魚の欠けた破片が歯車の下へ残っていた。
「全部切ります」
カシウスは返事をせず、中継板を外していた。黒糸は十一本。白縄から抜かれた十本と、帯から外した部品を介してエナの動きを受けた元糸だった。
ミオラが返却簿を持ってくる。一晩の試験後に縄は解かれた。だが壺に入れた黒糸は、記憶を消す工程へ回されず、「解体済み材料」として払い出されていた。資材係の印と、教育部からの受領印がある。誰が再使用を指示したか、印の持ち主を別々に呼んで聞くことになった。
「複製先を先に止めます」と彼。「元を切ると、どこへ動きが残ったか分からなくなる」
「また使うためですか」
「事故の原因を調べるためです」
「同じ言葉に聞こえます」
カシウスの手が止まる。
疲れている顔だった。昨日、港全体を数え続け、最後に自分の技術がエナの手を奪った。それでも崩れる暇がない。黒紋商会の帯を着けた者が何百人もいる。
ガルドが床の糸へ石の重りを置いた。
黒糸は重りの下でも動こうとする。細い先端だけが外へ這い、輪を作る。
「力を覚えたんじゃない」とガルド。「順番を覚えてる」
「順番だけなら、なぜ塔を速めた」と結人。
「同じ順番を、別の身体が同時にやったからだ」
黒糸一つに、歯車を動かす力はない。だが、覚えた動作を十人へ配れば、十人の筋肉が同じ時刻に力を出す。道具と組み合わさった時、初めて命令のようになる。
カシウスは複製先を一本ずつ切断した。
一本目を切ると、訓練場の帯が止まった。二本目で倉庫。三本目で北桟橋。中継板の灯りが消えるたび、塔の床の糸は少し動きを弱める。
十本すべてを切っても、元糸だけは輪を作った。
結人は鋏を取る。
「待って」とミオラ。
彼女は記録板を抱えていた。事故時刻、歯車の速さ、誰がどの帯を着けていたか。目の下が腫れている。
「切る前に、エナへ聞かなくていいの」
「眠っています」
「だから勝手に決める?」
結人は鋏を閉じた。
動力につながる線は既に外してある。封じた糸をどう残すかまで、結人が一人で決めることはできなかった。糸が覚えているのは、黒紋商会の技術だけではない。エナが十年かけて作った左手の動きだ。危険物であり、彼女の一部でもある。
治療院へ使いを出す。
返ってきたのは、エナの声ではなく、治療師が書いた短い札だった。
目が覚めた。本人の返事――切れ。一本だけ瓶へ。私が後で見る。
結人は元糸を三つに分けた。
動きの始点を持つ部分は、エナが望んだとおり陶器瓶へ封じる。残りは塩水へ浸し、ガルドが石槌で繊維を潰した。最後に、塔へつながる一本を結人が切る。
黒糸の輪が途中でほどけた。
床へ落ちた先端は、もう動かない。
カシウスは瓶を受け取ろうとした。ミオラが渡さなかった。
「エナの物です」
「商会の糸です」
「動きはエナのです」
二人は瓶を挟んだまま、しばらく動かなかった。
最後にカシウスが手を離す。「治療院へ置いてください。鍵は本人へ」
ミオラは頷いた。
塔を出る時、結人は黄色い木魚の破片を拾った。もう片方はミオラが持っている。合わせれば一匹へ戻るかもしれない。
針箱へ入れようとして、やめた。
結人は針箱を閉じた。
破片を紙へ包み、エナの瓶の横へ置く。欠けた魚の尾だけが、包みの端から少し覗いた。




