第61話 潰れた左手
巻上げ塔の鐘へ、結人とエナが走った。指揮を技師へ渡したカシウスも、黒糸用の切断具を持って追ってくる。
塔の上部には、燃える倉庫から引き離すための樹脂樽が三列、宙吊りのまま残っている。縄が一本切れれば、火の海へ落ちる。塔の中では六人が歯車を回し、外からエナが新しい係留縄を投げていた。
結人が着いた時、ミオラは入口の記録台で戻った人数を数えていた。腰には、娘のアミが作った黄色い木魚の飾りが揺れている。
「上に二人残ってる!」と彼女が叫ぶ。「巻上げ手と、火見!」
歯車が一度、逆へ跳ねた。
エナが左手で輪を作る。以前は、彼女一人の身体にしかなかった投げ方だ。今夜は塔の作業員二人も、黒糸を通した訓練帯を着けている。帯の端には、あの一晩で解いた試験縄と同じ白い結び目が残っていた。
「なぜそれが、まだ配られてる!」とエナが叫んだ。
「黒糸を外せ!」カシウスが叫んだ。
遅かった。
エナが縄を投げる動きに合わせ、塔の中の一人の左腕が同じ角度で動いた。もう一人も遅れて続く。三人分の引く力が、別々の場所から一つの歯車へ入る。
巻上げ機が予定より速く回った。
宙吊りの樽が激しく揺れ、一本の鎖が外れる。塔の上から火見が落ちかけ、ミオラが記録台を離れて階段へ走った。
「戻れ!」エナが怒鳴る。
崩れた梁が入口へ落ちる。
エナはミオラの背中を押し、外へ転がした。黄色い木魚が紐から切れ、歯車の前へ跳ねる。
その瞬間、巻上げ機がもう一度加速した。
エナは停止棒へ左手を伸ばした。右腕では高さが足りない。指が棒へ掛かる。身体を捻って押し下げる。
黒糸を通った作業員の腕も、同じように動いた。
二人分の力が逆側から入った。
歯車が噛み合う。
音は大きくなかった。
湿った枝を折るような、短い音だった。
エナの左手が歯の間へ引き込まれた。
結人は何を叫んだか覚えていない。
ガルドが石槌を歯車の隙間へ叩き込み、カシウスが黒糸の中継板を蹴り倒す。同期した作業員たちが床へ崩れた。歯車は止まったが、エナの手は抜けない。
「見るな」と誰かが言った。
結人は見た。
左手の薬指と小指が、歯の向こうにない。掌は押し潰され、縄を投げ続けた皮膚の線が血の中へ消えている。
エナは声を上げなかった。
顔を真っ白にして、自分の手を見ていた。
「切れ」と彼女が言う。
「何を」
「帯。腰が引かれてる」
結人はようやく、彼女の帯が巻上げ機へつながったままだと気づいた。赤い非常糸を切る。身体へ残っていた力が抜け、エナの膝が落ちた。
治療師が来るまで、ガルドは歯車を押さえ続けた。カシウスは複製先の黒糸を一つずつ外す。結人は何もできず、血の付いた左手の上へ布を当てようとした。
エナが右手で払いのけた。
「見えなくするな」
「血が」
「分かってる」
彼女は自分の傷から目を逸らさなかった。
治療師たちが歯車を外し、エナを担架へ乗せる。結人はついていこうとしたが、足元で黄色い木魚を踏みかけた。
アミの飾りだった。片側が欠け、血が付いている。
ミオラがそれを拾い、両手で握った。
「私を押したから」
エナは担架の上から、わずかに首を動かした。
「押したかったから押した」
それ以上は言わなかった。
塔の上に残っていた二人は、別の階段から救助された。樹脂樽も落ちなかった。
港は守られた。
治療院の扉が閉まる前、結人は針箱を出しかけた。何か縫えば、何か直せる気がした。
セラがその手を掴み、針箱ごと閉じた。
扉の向こうで、治療師が失った二本の指を戻せないと告げる声がした。




