第60話 千人を数える男
西倉庫で梁の救助が続いている間、カシウスは港を走らなかった。
指揮台から動かず、三枚の黒板を見続けた。
千本の港湾帯には、黒糸が一本ずつ通っている。糸が覚えるのは、着けた人の名でも居場所でもない。最後にどの検査門を通り、そこでどんな歩き方をしていたか。それだけだ。
鐘が鳴った時刻と重ねれば、火の向こうへ入った可能性のある者を絞れる。
西倉庫、最後の通過三十二。戻った印、二十九。
巻上げ塔、最後の通過十四。戻った印、十三。
冷蔵区、最後の通過五十一。戻った印、五十一。
カシウスは残った数字へ救助隊を送る。名前は後で紙名簿と照らす。まず動きのない場所を潰す。
結人が三人を連れて戻った時、指揮台の前には既に数百人が集まっていた。黒い帯を外し、本人が戻った印として箱へ投げ入れていく。
「西倉庫、残りゼロ」と技師。
カシウスは頷かない。「巻上げ塔の一人は」
「最後の動きが、同じ歩幅を三度」
「疲労ではない。階段を上がっている。上へ送れ」
救助隊が走る。
結人は黒板を見た。自分が一棟の梁を見ていた間に、カシウスは港全体の呼吸を数えている。
ただし、黒い帯を使っていない者は板に出ない。
紙名簿を持ったミオラが叫ぶ。「西の魚売り、ルゥがいない! 帯なし!」
九歳の少年だ。働いてはいない。夕食を父へ届けに来て、火で戻れなくなったらしい。
カシウスの目が黒板を離れる。
「最後に見たのは」
「灯祭りの青旗の下」
「黒板には出ません」と技師。
「分かっている!」
声が荒れた。
数字がない場面で、カシウスは一瞬だけ動けなくなる。どこへ隊を出せばよいか、確率も区画もない。
結人は祭りの夜を思い出した。ルゥは赤い貝殻を欲しがり、リコの後を追っていた。火災前、リコは西の樽場にいた。
「魚籠の通路です」
「根拠は」
「知ってるから」
「それでは隊を――」
「僕が行きます」
結人が走り出すと、エナがついてきた。カシウスは二人を止めず、別の救助隊へ青旗を持たせる。
魚籠の通路は煙で塞がれていた。黒い帯の印は一つもない。代わりに、天井近くで小さな灯石が揺れている。祭りの飾りをルゥが腰へ残していた。
少年は空の籠へ入り、濡れた網を頭から被っていた。
「来るの遅い」
泣きながら怒っている。
エナが抱き上げようとすると、右肩が上がらない。結人が代わりに背負い、自分の帯を少年へ回した。煙の中を三人で戻る。
指揮台へ着くと、カシウスが自分でルゥの顔を確認した。紙名簿へ丸を付ける手が、少し震えている。
「数えられました」と結人。
「あなたが知っていたからです」
「数字じゃなくても、人は残ります」
カシウスは反論せず、黒板の横へ白い札を一枚貼った。
帯なし。ルゥ。帰還。
結人の肩から、ルゥの重さが降りた。少年は迎えに来た父親の胸へしがみつき、ようやく声を上げて泣いた。
巻上げ塔の鐘が鳴った。
カシウスが黒板の残る一点を指す。結人はエナと一緒に立った。白い帰還札を留める仕事は、指揮台へ残るミオラの同僚が引き継いだ。




