第54話 セラの値段
二十三日目、黒紋商会から招待状が届いた。
宛名はセラ一人だった。
「検査場を見てほしい」とだけ書かれ、金額も用件もない。結人は気になったが、付いていく理由がない。理由がないことが、さらに気になった。
午後、セラは戻ってこなかった。
夕方になり、結人は布の仕入れを口実に黒紋商会の前まで来た。広い窓の向こうで、千本の帯が同じ間隔で吊られている。作業員は大声を出さず、色の違う札を移すだけで工程を進めていた。
美しい。
悔しいほど。
入口でしゃがみ込み、床に埋めた搬送溝を見ていると、頭上からカシウスの声がした。
「招待していない人が、最も熱心に見ていますね」
結人は立ち上がる。「布屋へ行く途中です」
「逆方向です」
言い逃れを諦める。
検査室にはセラがいた。黒紋の帯を一本、表裏から引き裂こうとしている。脇に積まれた三十本には、すべて赤い停止札が付いていた。
「不良ですか」
「本人が引く輪が硬い」とセラ。「力の弱い人が外せない」
カシウスは反論せず、三十本を出荷棚から下ろさせた。工場全体が数分止まる。千本の納期へ響くはずなのに、誰もセラを急かさない。
結人は、その光景に胸を刺された。
ORIGOでは、止める権利があっても、止めた後の賃金を心配しなければならない。ここではセラが一本へ指を置くだけで、百人が手を止める。
カシウスが机へ条件書を置いた。
ORIGOの三倍の賃金。材料費は商会負担。検査責任者として、全製品を理由の説明前でも止められる。縫い手の名を製品へ残す。事故調査へ直接入れる。
結人は文字を最後まで読む前に言った。
「断ります」
セラがゆっくり顔を上げた。
「誰が?」
「セラさんはORIGOの共同創業者です」
「だから誰が断る」
声は低かった。
結人は自分の間違いに気づいた。だが、引き返すより先に恐れが口を動かす。
「今抜けたら、百本は間に合いません」
「それはあんたの都合だ」
「港の人も困ります」
「ここへ来れば、千本を止められる」
「でも、カシウスのやり方に――」
鋏が机へ置かれた。
セラが本気で見限る時だけ、鋏から手を離す。
「私の値段を、あんたが勝手に決めるな」
部屋が静まり返った。
結人は、彼女なら残ると思っていた。最初に服を嫌い、最初に自分へ試着させ、門外の工房へ一緒に来た人だから。理解してくれることと、選択まで同じであることを混ぜていた。
カシウスは口を挟まない。勝ち誇る様子もない。その沈黙が、結人には余計に腹立たしかった。
「あなたは、セラさんが欲しいんですか」
「はい」
即答だった。
「技術が?」
「止める人が」
カシウスは赤札の付いた三十本を見た。
「私は速く作れます。速く作る人間は、止めてくれる人を失うと、速く間違えます」
セラは条件書を折り、作業袋へ入れた。受けるとも断るとも言わない。
帰り道、三人は同じ通りを歩いた。カシウスは商会の門で別れ、結人とセラだけが門外へ向かう。
結人は何度も謝ろうとした。言葉にすると、残ってほしいという願いを謝罪へ隠す気がして、言えなかった。
ORIGOへ着くと、セラは自分の作業台を片づけなかった。いつも通り鋏を置き、明日の布を数えた。
ただし、黒紋商会の条件書を、針箱の下へしまわなかった。
机の真ん中へ置いたまま、灯りを消した。




