第117話 母の染料庫
シエナ染房の扉には、百年分の赤が染みついていた。
木目のくぼみに濃い色が残り、雨に洗われた場所だけ桃色へ薄くなっている。リュシアは三度、取っ手へ手を伸ばしてやめた。四度目に結人が扉の下の縫い布へ目を落とすと、肘で脇腹を小突かれる。
「今、縫い目を褒めたら帰す」
「まだ何も」
「顔で言った」
中から足音がし、扉が開いた。
シエナは娘と同じ灰銀の髪を短く束ね、腕の半分まで赤い染みをつけていた。目が合っても抱き寄せない。驚いた様子もなく、一本の分厚い帳面をリュシアの胸へ押しつける。
「遅い。王家の下見は明後日」
「ただいま、くらい言わせて」
「帰った者が言う言葉だ」
リュシアの口元が歪む。
結人が名乗ると、シエナは彼の腰の空白を一度だけ見た。王都で浴びる恐れや好奇心とは違い、染められない素材を見る職人の目だった。
「布を着る男か」
「はい」
「娘が手紙で自慢した」
「手紙?」
リュシアが母を見る。
シエナは聞かなかったことにして、帳面を開いた。王家の婚礼布は長さ二十八歩、幅七人分。赤は三層で、花嫁の生来色を消さず、外側へ家の色を重ねる。期限まであと二十五日。遅れれば染房の使用権は取り上げられる。
「なぜ今になって」
「去年の洪水で上流の赤土が変わった。古い配合では暗すぎる」
「なら最初から書いて」
「書けば帰ったか」
リュシアは答えなかった。
母は帳面をさらに遡った。毎年の春、職人名簿の末尾に同じ一行がある。
リュシア・シエナ娘。遠征中。帰投未定。
戦争が終わった年も、その次も、名は消されていない。工房を継ぐ者としてではなく、戻る場所を失わせないために書いたらしい。
「私は死んだことになってると思ってた」
「死亡証を見ていない」
「会いに来なかった」
「軍都へ行けば、お前は戻ったか」
言葉は正しくても、抱きしめなかった年月は消えない。リュシアは帳面を閉じた。
作業場の奥では、妹メイが大釜へ薪を足していた。振り返っても駆け寄らず、燃え方を確かめてから火箸を置く。
「姉さん」
「背、伸びた」
「七年あればね」
二人は笑うタイミングを逃した。
結人は家族の間へ仕事を置くことにした。婚礼布の端を持ち、光へ透かす。縦糸は揃っているが、赤の粒が一部だけ沈む。染料の問題だけではない。川水に細かな金属粉が混じり、糸の表面を塞いでいる。
「上流の水を別にできますか」
シエナが初めて彼へ正面を向いた。
「井戸水なら、色が浅くなる」
「浅いまま三層にする方法を試します」
リュシアが「勝手に決めるな」と言いかけた。結人は手を止める。
彼女は婚礼布へ触れた。赤い家で生まれ、赤を嫌って出ていった指が、古い染みの上をなぞる。
「試す。共同作業として」
母娘の和解ではない。
シエナは結人へ北側の台を、リュシアへ昔使っていた南窓の台を割り当てた。二つの台の間には、誰も動かさなかった空の椅子がある。幼いメイが座っていた椅子だった。
昼から三人は別々の試験を始めた。
シエナは土を変える。リュシアは光を変える。結人は糸の重ね方を変える。メイは結果を記録し、母と姉が同じ配合を別の言葉で呼ぶたび、両方を書いた。
夕方、最初の試験片が上がった。
王家の赤には届かない。けれど光へ傾けると、下から黄色が一瞬だけ覗く。リュシアが持ってきた小瓶と同じ色だった。
シエナは褒めず、「明日は黄色を抜け」と言った。
リュシアは「嫌」と返した。
七年ぶりの母娘の会話は、それで終わった。
店を閉める前、シエナは注文帳へ今日の日付を書き、職人欄へ四人の名を並べた。自分、メイ、結人。そして長く空欄だった場所へ、リュシア。
娘はその字を見たが、帳面には触れなかった。
二人は同じ屋根の下で、別々の部屋へ入った。




