第115話 帰りたくない色
三月ぶりに静かになったORIGOの染色室で、リュシアは封書を壺へ沈めた。
祭典で使った赤を洗い落としていた桶だった。薄い紅の水に白い封筒が浮き、蜜蝋の印だけが朝日をはじく。結人は向かいの台で淡緑の飾りをほどいていたが、三度目に針を落としたところで諦めた。
「読まないんですか」
「水に読ませてる」
「水は返事を書けません」
「あなたより口が堅い」
棒の先で封筒を沈める。中に残った空気がぶくりと逃げ、王家の婚礼印が赤い水へ崩れた。
その時、内側から小さな紙片が離れた。油を混ぜた墨だけが水を弾き、短い文字を残している。
――姉さん。母さんの工房がなくなる。帰りたくなくても、これだけは読んで。メイ。
リュシアの手が止まった。
結人は網で紙片をすくった。赤い水が袖へ丸い染みを作る。いつもなら先に布の傷みを確かめるところだが、彼は濡れた紙を作業台の乾いた場所へ置いた。
「婚礼の仕事ですか」
「質問した」
「一つだけです」
「一つ目が早い」
封筒を開くと、二十六日後までに王家の婚礼布を染めよ、とあった。期限に間に合わなければ、シエナ染房の炉、染料庫、川辺の作業権を没収する。署名は母シエナ。筆圧は昔と変わらず、助けを求める言葉は一つもない。
リュシアは便箋を折り、また水へ戻そうとした。
結人は止めなかった。
その代わり、昼までの注文札を別の色師へ回し、旅用の針を箱へ入れた。予備の言語札、色を使わない救助布、雨除けの天幕、薬草。三箱目を閉じたところで、染料壺の蓋が飛んできた。
結人はしゃがんだ。蓋は背後の壁へ当たり、乾きかけの白布に赤い輪をつけた。
「何してるの」
「出発の準備です」
「誰が帰るって言った?」
「工房がなくなるんでしょう」
「私の工房じゃない」
声は低かった。怒るほど、リュシアは静かになる。腰の光の外側に、濁った橙が細く揺れた。
結人は箱を見下ろした。必要な物を揃えれば、本人が迷っている間にも役に立つ。女王の夜明け衣でも、港の帯でも、そうやって先に手を動かしてきた。ノアが扉を閉めた時、ようやくその癖に名前がついたばかりだった。
「戻します」
「今さら、聞き分けのいい顔をしないで」
「では、どうすれば」
「分からないなら待って」
結人は返事をせず、壁へ飛んだ蓋を拾った。赤い輪のついた白布を外し、染みが広がらないよう水だけで押さえる。リュシアが濡れた招待状を読み終えるまで、針箱にも触れなかった。
日が傾いた頃、ミラが帳場から来た。
「旅費はどう分けます」
「まだ行くとは言ってない」とリュシア。
「行かない人は、朝から三度も南行きの荷車時刻を見ません」
ミラは濡れた便箋の端に計算を書いた。工房の技術調査分はORIGO、家族への私用分はリュシア。結人が全部店で持つと言いかけると、二人の視線が同時に向いたので口を閉じた。
閉店の鐘が鳴る直前、リュシアは三箱を一度すべて開けた。
薬草を半分戻し、雨除けを一枚に減らし、結人の針箱を残した。自分の荷物は色見本帳と替えの櫛、黄色い小瓶だけ。故郷では嫌われる色だった。
「同行を許す」
「荷物持ちとして?」
「余計な物を詰める荷物持ちとして」
結人は箱の蓋に手を置いた。
「条件は」
リュシアは水でふやけた招待状を折り、彼へ渡さず自分の懐へ入れた。
「故郷で、私の昔を勝手に聞かない。母にも、メイにも、退役兵にも。あなたが聞きたい顔をしても、私が話すまで待つ」
尋ねたいことは、既に十を超えていた。
結人は一つも数えず、頷いた。
赤い洗い桶の底には、溶けきらなかった婚礼印が沈んでいる。リュシアはそれを捨てず、蓋をして棚の一番下へ押し込んだ。




