第114話 僕だけ浮かなくて済む
祭りの翌朝、王宮の屋根には三人だけいた。
結人、ノア、エリアーヌ。
街の色布はまだ片づけ切られず、屋根と屋根の間で夜の名残を揺らしている。ノアはユナの名が刻まれた欠け鏡を持ち、エリアーヌは淡緑の飾りを腕へ掛けていた。
結人は二人へ背を向けた。
昨夜、何度も言う場面を考えた。ノアへ謝り、エリアーヌへ決意を述べ、最後には立派な約束で締める。その全部が、自分を少し良く見せる形になった。
屋根へ上がる階段で、用意した言葉を一つずつ捨てた。残ったのは、最初に口から出たくなかった一文だけだった。
「僕だけ、浮かなくて済むと思っていました」
返事はない。
「皆が服を着れば、布で身体を隠す僕を見ても、変だと思われなくなる。店が売れたら嬉しいのも、役に立つからだけじゃなかった」
言葉にした途端、王都の広場で旗を身体へ巻いた日の感覚が戻った。裸身の人々が自分を見て逃げ、槍を向けた。服を広めれば、あの視線を世界から消せると思った。
誰かの仕事を助けたい。きれいな布を作りたい。金を稼ぎたい。カシウスへ勝ちたい。そのどれも嘘ではない。嘘でない願いを重ねれば、一番幼い願いを隠せることを覚えてしまった。
「服を着ない人がいると、僕の失敗を見せられている気がしたこともあります」
ノアはすぐ許さず、鏡の欠けた角を親指でなぞった。
「いつから?」
「最初から、少しは。いいことをしている言葉で隠しました」
「裸身の出演時間を削った時は」
「服の演目を増やしたかった。ORIGOの印も見える場所へ置きたかった」
エリアーヌは慰めなかった。
「それで、服を作るのをやめるか」
「やめません」
「皆へ着せたい気持ちは消えたか」
結人は首を振る。
「消えていません。カシウスより売れたい。陛下には僕の一着を選んでほしい。ノアさんにも戻ってほしいです」
「役に立つ服も、きれいなだけの服も作りたい。僕の店が一番だと言われたい。全部、まだあります」
言い切ると、風の音が大きくなった。正直さは気持ちを軽くすると思っていたが、むしろ欲の形がはっきりし、逃げ場が減った。
エリアーヌは淡緑の布を腕から外し、結人の膝へ置く。
「なら、次に私が別の作り手を選んだ時、立派に笑うな」
「たぶん顔に出ます」
「それでよい」
ノアも「戻ってほしいと言われて、少し嬉しい」とだけ認めた。戻るかどうかは別だった。
「欲張り」とノア。
「はい」
言えたから正しくなったわけではない。広告を止めても、客が服を選ばなければ傷つく。今後も同じ欲は出る。
ノアはORIGOへ戻るとは言わなかった。
エリアーヌも「私が止める」と約束しなかった。
代わりに、昨夜の残りのパンを一包み出した。三人で屋根の縁へ座り、冷えた肉と一緒に食べる。
下の広場では、舞台床を解体する槌の音がしていた。結人が立ち上がると、ノアが袖をつかむ。
「今、話の途中」
「でも、糸が」
「あなた一人で最初に触る必要はない」
結人は階段へ向けた足を戻した。三人で冷えたパンを食べ切る。ノアがORIGOへ戻る約束はない。エリアーヌが結人を止め続ける約束もない。それでも、欠けた鏡の中で三人の肩は同じ朝の光に入っていた。
地上で回収されていた黒糸が一本、風と逆に持ち上がった。
右手を胸へ。左足を半歩後ろへ。
結人は北嶺の墓壁に並んだ兵士を思い出した。
朝食の紙包みの上で、糸は同じ姿勢をもう一度だけ繰り返した。




