第109話 舞台を止めるノア
最終公演の開演一刻前、主催者は続行を決めた。
舞台裏には、代役の衣装まで用意されていた。テオと同じ青布、同じ右足の支え、同じ跳躍位置。事故を公表せず、予定どおりの姿だけ見せる案だ。
代役のレオは衣装を手にしたまま、着るか決められずにいた。主役へ戻れる機会だが、テオの動きまで再現すれば、昨日の装置と同じになる。
「俺は出たい」とレオは言った。「でも、あいつになって出るのは嫌だ」
主催者は衣装の違いなど客には分からないと返す。舞台を守るためという言葉の中に、売上と面子が混じっていた。
黒糸の自動拍は切る。照明だけを残し、テオには代役を置く。何万人もの客が王都へ来ており、中止すれば宿も食堂も露店も損をする。
ノアは説明を最後まで聞かず、七十枚の鏡へ暗幕を掛け始めた。
最初の暗幕は手が震えて斜めになった。鏡の借用主から弁償を求められるかもしれず、ユナの父が刻んだ一枚まで覆うことになる。
結人が手伝おうとすると、ノアは「停止欄へ先に署名して」と言った。暗幕を掛ける作業で責任から逃げさせない。
ミラは返金額だけでなく、食堂の仕込み、宿の予約、地方から来た役者の旅費まで紙へ書いた。公演を止める決定は、安全という一語で誰の損も消さない。
「鏡は事故と関係ない」と主催者。
「客が、自分の拍手を見て安心する道具になってた」
「それは使い方の問題だ」
「だから今日は使わない」
鏡を外せばスポンサー契約に触れる。ミラは損害額を計算し、結人へ紙を渡した。
数字を見た瞬間、口の中が乾いた。ORIGOの一年分の売上より大きい。
「払えません」
「知っています。だから、私が決めることではありません」
結人の名は主要提供者として契約へ載っている。続行にも停止にも、彼の印が要る。
以前なら、安全のため止めると言いながら、誰かに責任を分けたかもしれない。今回は震える手で停止欄へ名を置いた。
「止めます」
署名した瞬間、主催者が紙を取り上げようとした。結人は離さなかった。名を持たず契約できなかった頃なら、誰かの印に隠れたかもしれない。今は自分の名が損害欄へ残る。
エリアーヌが裏口から入り、王命で中止すると言いかける。結人は首を振った。
「僕が止めたことにしてください」
「私なら払える」
「払う人を決める話と、決めた人を消す話は別です」
エリアーヌは怒った顔で黙り、返金のため王宮の金庫を開く命令だけを出した。
主催者は怒鳴った。職人も露店主も詰め寄る。正直に事故を説明しても、全員が納得するわけではない。
杖をついたテオが舞台中央へ出た。
歓声が起きる。彼は手を上げ、音が収まるまで待った。
「俺が跳ぶ前に、拍手が来ました」
客席が静まる。
「今日は、予定どおりの俺を見せられない。代わりに誰かを予定どおりに動かす舞台も使わない」
入場料を返すと告げると、怒号が飛んだ。
前列の男は三日かけて来たと叫び、子どもはテオの跳躍を見たかったと泣く。露店主は煮込みを千人分仕込んだ。役者の安全へ賛成しながら、今日の損を誰が負うのか責める声もある。
テオは全部を聞いた。謝れば許されると期待せず、「俺も見せたかった」と答えた。怪我をした自分が正しい側へ立つのでなく、同じ楽しみを失った一人として話す。
帰る客の背中を、誰も引き止めなかった。残る客にも、立派な理解者であることを求めなかった。長旅をしてきた人、今日だけ休みを取った人、子どもへ約束した親。椅子を蹴って帰る客もいる。
ノアは暗幕を掛け終えた。七十枚の鏡が黒い壁になる。
「それで、何を見せる」とテオ。
「決めてない」とノア。
残った観客は、暗い舞台を見ている。
アミが客席から、使わなかった布片の箱を持ち上げた。
「じゃあ、作るところからやれば?」
誰も拍手しなかった。
それでも、舞台袖の役者が一人、箱へ手を伸ばした。




