第108話 歓声が先に来る
大競技場の夜、テオが跳ぶ前に歓声が上がった。
事故の演目は、復帰後初めての大舞台だった。テオは右足へ支えを着け、跳躍を一段低く変えている。結人は踏み切り台を三度測り、ノアは客席の鏡を半分だけ残した。
黒糸装置は使用禁止。そう書いた赤札を、カシウス自身が制御箱へ封じた。だが演出会社は、過去の動作を写した別の箱を「照明補助」として持ち込んでいた。黒い糸は外から見えず、赤札の対象名にも入っていない。
開演前、結人は箱の音を聞いた。規則正しい木歯車の奥に、港の巻上げ塔で聞いた細い擦れが混じる。確認しようとした時、開演鐘が鳴った。
昨日の舞台装置は停止されたはずだった。だが、同じ動作記録が別の演出箱へ写されていた。照明が空中の着地点を先に照らし、客席の床が震える。
観客は次に何が起きるか知っているように立ち上がった。
テオは一歩遅れた。
本来なら、深く息を吸い、青布が背中へ落ちるのを待ってから踏み切る。だが着地点の光が先に点き、客席が立つ。自分の見せ場を奪われる焦りが、右足を半歩早く出させた。
支え布は低い跳躍に合わせてある。早い踏み切りには追いつかず、裾の重さが足首へ残った。
結人は舞台袖から、布が巻く瞬間を見た。声を出すより先に、テオの身体が横へ傾く。
歓声へ追いつこうとして踏み切りを早め、青布の端が右足首へ絡む。身体は上がったが、回転が足りない。舞台袖の低い柵へ肩から落ちた。
成功の拍手だけが続いた。
結人は白線を越えて走る。テオの足は折れていないが、右足首がすぐ腫れた。本人は息を吸うたび、怒りより先に痛みで顔を歪める。
「止めろ!」
カシウスが制御箱を蹴り倒した。木板が割れ、黒糸の束が抜ける。歓声は途中で切れ、競技場に人のざわめきだけが戻った。
提供技師は記録札を示した。
「装置の時刻は正確です。役者の踏み切りが半拍遅れた」
カシウスは札を受け取り、床へ置く。
「人が装置へ合わせる契約ではない」
「しかし成功率は」
「今、怪我人が一人いる」
数字が一つしかない場面で、彼の声は平静ではなかった。
治療室で、結人は足首を支える布を出した。
治療師は、骨にひびはないと告げた。だが腫れが引くまで、跳ぶことはできない。テオはその説明の途中で「最終公演は」と尋ね、治療師に睨まれた。
ミナが濡れた布を絞り、足首へ当てる。彼女は慰めず、「痛い場所を言って」とだけ聞く。テオは最初、全部だと答え、次に外側、踵、膝の順で具体的に言い直した。
結人はその言葉を聞きながら、支え布の線を引き直す。舞台へ戻すためではなく、今夜、自分で便所まで歩けるようにする。目的を小さくする方が、針を急がせない。
「今は作るな」とテオ。
「歩けるようにするだけです」
「舞台へ戻るためって顔をしてる」
「違います」
「じゃあ、痛いって言わせろ」
テオはようやく声を上げた。壁を一度殴り、悔しいと繰り返す。主役へ戻った直後で、最終公演がある。皆に迷惑を掛ける。歓声に負けて跳んだ自分が腹立たしい。
結人は布を置いたまま、聞いた。
主催者から最終公演の中止勧告が届く。装置の調査、観客の安全、テオの怪我。祭典最大の日が消える。
カシウスは治療室の外で、壊した制御箱の代金へ自分の署名をした。
署名の後、彼は提供会社との全契約停止欄へ手を置いた。年間で何千人の新人役者を支える装置でもある。止めれば仕事を失う技師も出る。
「一件の事故で全体を止めるんですか」と部下。
カシウスの手が止まる。普段なら人数と確率を求める。今日は、競技場の奥から聞こえるテオの呻きだけで決めようとしている。
「今夜は止める。明日、全部数える」
怒りのまま永久停止を選ばないため、彼は期限を一日へ切った。数字がない時に感情的になる自分を、数字で誤魔化さず保留した。提供技師を庇わず、同時に自社が記録の転用を止められなかった責任も書く。
帰る前、テオは支え布を自分で膝へ引き寄せた。
「明日、歩くためだけに作って」
結人は初めて針を取った。




