第107話 拍手を覚える糸
競合舞台の公開試験では、床板の下へ黒い糸が張られていた。
黒紋系列の舞台工房が、前回祭典の赤字を補う新装置として持ち込んだものだった。演者が人気の位置へ立てば照明が追い、観客が拍手した場所へ床が弱く振動する。経験の浅い役者でも、客席の反応を取りやすいという。
カシウスは装置そのものを誇らなかった。試験票へ、導入費、必要技師、事故時の停止時間を細かく書き込んでいる。だが「平均拍手開始まで七呼吸短縮」と読んだ時だけ、目がわずかに明るくなった。
「祭典の損失を三回で回収できます」
「拍手を早くして、良い舞台になりますか」と結人。
「客が満足した時間は、短い方が悪いとは限らない」
数字で測れる成功を前に、二人とも少し勝ちたがっていた。
役者が中央へ進むと、過去の祭典で拍手が起きた位置に合わせ、照明係の腕が持ち上がる。色膜の係も同じ拍で指を動かし、客席の足元へ小さな振動が届く。
「舞台が、人気の動きを助けます」
技師は誇らしげに説明した。
黒い糸が単独で拍手を生むわけではない。床へ残った足の運び、照明係の手順、観客席が揺れた拍。それらを別々の糸へ写し、同じ順番で動かす仕組みだった。
最初の役者は緊張していた。けれど足裏へ弱い押し戻しが来ると、第一回祭典でテオが立った位置へ収まる。照明が明るくなり、観客は期待どおり手を叩いた。
役者は終演後、助かったと笑った。いつも中央を外し、暗い場所で台詞を始めてしまう。今日は床が足を押し戻し、初めて大きな拍手を得た。
二人目の踊り手も、光の中へ入ると身体が軽くなったと言う。装置は実際に人を助けている。ノアだけが、二人とも同じ角度で顎を上げたことを気にした。
三人目の歌い手は、亡き母へ捧げる静かな曲を選んでいた。床はそれでも、テオの跳躍が最も受けた場所へ彼女を押す。歌の途中で肩が開き、予定になかった笑顔が出た。客席は拍手したが、本人は終演後に泣いた。
「悲しい歌だったのに、身体が喜んだ形へ戻された」
技師は、観客には好評だったと答えた。
二人目も同じ位置で顎を上げた。
三人目は静かな歌の演目なのに、同じ場所で腕を広げ、同じ拍手を受けた。
結人は床へしゃがみ込み、板の隙間を覗いた。
「きれいです」
「怖いではなく?」とカシウス。
「両方です」
ノアは客席で一度も手を叩かなかった。照明が彼女の列を明るくしても、腕を組んでいる。
舞台床が小さく震えた。隣の客がつられ、手を上げる。三列目、四列目へ音が広がる。
「拍手を覚えたんじゃない」とノアが立った。「拍手した身体の順番を覚えたの」
技師は強制ではないと言う。役者も観客も、動きたくなければ逆らえる。
テオが試験へ出た。
右足の痛みはまだ残っている。彼は姿勢支えを外し、舞台床の誘導だけを受ける条件で立った。
最初の一歩で、足裏へ左方向の圧が来る。祭典の記録に残った自分の人気位置だ。テオは逆へ進もうとし、床の小さな押し返しと綱引きになる。
観客には、その迷いも演技に見えた。拍手が起きる。装置は成功と判断し、次の照明がさらに強くなる。
「止めなくていい」とテオは結人へ言った。「どこまで俺を知ってるか、見たい」
右足を二度擦る癖、顎を下げる間、振り向く前の呼吸。床は次々に先回りした。本人より正確に、祭典の日のテオを再現していく。
彼は中央を避け、舞台の端へ歩く。足裏に弱い抵抗が返り、照明は追わない。客席も暗いままだ。
テオはさらに端へ行き、背を向けて台詞を始めた。声は届くのに、装置は成功と判定しない。
「人気のない動きを、見えない場所へ押してる」
結人が床板を一枚外すと、黒糸には港で見たものと同じ結びが混じっていた。誰かの右手を胸へ、左足を半歩後ろへ揃える古い癖。
カシウスは公開試験を止めた。
技師が宣伝契約を理由に抗議する。彼は言葉を遮らず最後まで聞き、装置の制御札を自分で外した。
「明日までに、誰がどの動きを渡したか一覧を出してください」
「記録が多すぎます」
「だから売れると言ったのは、あなたです」
黒糸を切った後も、客席の一人だけが同じ拍で手を叩き続けていた。
その人は、自分がなぜ叩いているのか分からない顔をしていた。




