第105話 見られない部屋
ノアの私室では、鏡がすべて伏せられていた。
壁の大鏡には布、机の手鏡は裏返し。水差しの銀面にまで灰が塗られている。
結人が訪ねると、ノアは一人で黄色い布を肩へ掛けていた。
部屋へ来るまでに、結人は謝罪の文を五つ考えた。売上のために診断表を使おうとしたこと。ノアを必要な役割としてしか見なかったこと。彼女が戻らない可能性を受け入れられないこと。
扉の前で全部忘れ、手土産の焼き菓子だけを差し出した。ノアは「謝る人が甘い物を持つと、許す側が食べづらい」と言いながら一つ取った。
床には、黄色、黒、桃、灰、透明に近い薄布が輪になっていた。どれも鏡へ映すためでなく、触った時に自分が落ち着くかを試した跡だった。鏡を使わず、目を閉じて位置を変える。
「似合っています」
「見た瞬間に言わないで」
結人は謝り、入口へ座った。
ノアは黄色を外し、黒、桃、何もなし、と順に試した。他人が見ていないと、自分が何を選びたいのか分からないという。
黒は安心するが、仕事の時の自分に戻る。桃はマリエの返品衣を思い出す。何もなしは普段どおりなのに、「何も選ばなかった」ようで落ち着かない。
「私は、人の目がないと選べないのかもしれない」
「それも一つの選び方では」
「すぐ楽にしないで」
結人はまた口を閉じた。ノアが困っている姿を見ると、解決案を出すことで自分の居場所を作りたくなる。今日は、その役を持ち込まないために来た。
「戻ってほしいです」
口に出しかけ、結人は飲み込んだ。
ノアは背を向けたまま言う。「今、何をやめたの」
「謝りに来たのに、自分の困り事を先に渡すところでした」
「半分は正解」
「残りは」
「正解を探してる」
結人は説明をやめた。返品された桃色の服。無断で売られた診断表。店の売上を守るため、彼女の方法を直して使おうとしたこと。一つずつ話す。
「分かりました、とは言わないの?」
「分かった顔をするのが早いと言われたので」
ノアは少し笑った。
「謝れば、私があなたを許す役になる」
「許してもらうために来た部分もあります」
「正直ね」
長い沈黙の後、ノアは黄色い布を結人へ渡した。
布は温かかった。ノアが何度も肩へ掛けていたため、薄い繊維に体温が残っている。
「これは好きだから選んだ?」
「まだ分からない。でも、黒より長く触っていられた」
結人は色の意味を尋ねず、折り畳んだ。以前なら、黄色は好奇心、回復、外へ出たい気持ちだと理由を付けていたかもしれない。今日はただ、次の公演で使えるよう皺を伸ばした。
「最終公演だけ手伝う。戻るとは言わない」
「条件は」
「私が答えを決めない。あなたも決めない。着る人が途中で変えても、失敗扱いにしない」
結人は頷き、すぐ注文札を出そうとして手を止めた。
ノアはその動きを見ていた。
「少し遅くなった」
褒められたのかは分からない。
帰り際、伏せられた鏡の一枚へ結人の足が当たった。布がずれ、二人の顔が半分ずつ映る。
ノアは鏡を戻さず、そのままにした。




