初めてのお出かけと、天使の魔法、そして明かされる真実
あの恐ろしい悪夢を見て、お父様とルークに朝まで手を握っていてもらった夜から、数日が過ぎました。
毎朝、目を覚ますと、ふかふかのベッドのすぐそばの窓から、キラキラとした朝日が差し込んできます。
お屋敷の庭からは小鳥のさえずりが聞こえ、隣の部屋からはメイドのアンナさんたちが忙しそうに、でも楽しそうに働く足音が聞こえてきます。
冷たくて暗い孤児院の地下室で震えていた朝とは、まるで違う世界でした。
「リリアお嬢様、おはようございます。今日もお加減はよろしいですか?」
ドアがノックされ、ルークが爽やかな笑顔で部屋に入ってきました。
ルークの深い青色の髪は朝の光を浴びてツヤツヤと輝き、騎士見習いの制服がとてもよく似合っています。
「おはよう、ルーク。うん、もう怖い夢は見なかったよ。お父様とルークが、ずっとそばにいてくれたから」
私がベッドから起きてニコッと笑うと、ルークはほっとしたように目を細め、私の小さな手をとって、まるで本物のお姫様を扱うように優しく手の甲にキスを落としました。
「よかったです。俺の剣にかけて、夜の闇に潜むどんな悪夢からも、あなたをお守りしますからね」
十歳とは思えない大人びたルークの言葉に、私は少しだけ頬が熱くなるのを感じました。
***
その日の朝食の時間のことです。
いつものように、大きなテーブルでおいしいパンケーキと甘いハチミツをたっぷりと食べていると、正面に座っていたお父様(オブシディアン公爵)が、ふと真面目な顔をして口を開きました。
「リリア。今日は、お前を連れて王都の街へ出かけようと思う」
「えっ……? まち、ですか?」
その言葉を聞いた瞬間、私の手からポロリとフォークが落ちました。
ガシャン、という小さな音が食堂に響きます。
「どうした、リリア? どこか痛むのか?」
お父様がすぐに立ち上がって心配そうに覗き込みますが、私はガタガタと震える自分の両手をギュッと握りしめることしかできませんでした。
お屋敷の外の「街」
それは、人がたくさんいる場所です。
二度目の人生で、私を罠にはめた「偽物の聖女(悪女)」の嘘を信じ込んだたくさんの大人たちが、処刑台に向かって歩く私に向かって、泥や石を投げつけてきた光景が、フラッシュバックのように頭の中に蘇ってしまったのです。
(怖い……。外に出たら、またみんなに『バケモノ』って石を投げられるかもしれない。ギロチンに連れて行かれるかもしれない……っ!)
みるみるうちに顔が真っ青になっていく私を見て、お父様は急いで私のそばに駆け寄り、その大きくて温かい両手で、私の冷たくなった手を包み込んでくれました。
「リリア。すまない、急に外に出るなどと言って驚かせてしまったな。お前はまだ、大人を恐れているというのに……」
お父様の金色の瞳が、申し訳なさそうに、そしてとても優しく揺れています。
ルークも反対側にしゃがみこみ、私の顔をまっすぐに見つめました。
「リリアお嬢様。無理をして外に出る必要はありません。でも、もしお嬢様が少しでも『外の景色を見てみたい』と思うのなら、俺と養父上が、絶対に誰一人としてお嬢様に近づかせません。必ず、お守りします」
二人の力強くて温かい言葉が、ぐるぐると回っていた私のパニックを、少しずつ落ち着かせてくれました。
(そうだ……今は、あの時とは違うんだ。世界で一番強くて優しい、お父様とルークが一緒にいてくれる)
私は、ギュッと目をつぶって、大きく深呼吸をしました。
いつまでも、過去の怖い記憶に縛られて、この安全なお屋敷の中だけに隠れて生きるわけにはいきません。
せっかく神様がくれた『三度目の人生』なのです。
「……ううん。お父様と、ルークが一緒にいてくれるなら、私……お外に、行ってみたい」
私が勇気を出して小さな声で答えると、お父様とルークは、まるでお日様が照らしたようにパッと明るい顔になりました。
「そうか! よく言った、私の誇り高い娘だ!」
お父様は嬉しそうに私をヒョイッと抱き上げ、頬ずりをしてくれました。
顔に大きな刀の傷跡があるコワモテのお父様ですが、私に向ける笑顔は誰よりも優しくて、私は思わずくすくすと笑ってしまいました。
***
お出かけの準備をするために、メイドのアンナさんが私を素敵に変身させてくれました。
淡い水色をベースにした、フリルがたっぷりとあしらわれたお出かけ用のドレスです。
首元には小さなリボンがつき、銀色のパサパサだった髪は、今はもう月の光のようにサラサラになっていて、可愛い三つ編みに結い上げられました。
「まぁ、リリアお嬢様。まるで空から舞い降りた天使のようですわ!」
アンナさんが鏡の前で手を叩いて喜んでくれます。
前世(日本)の記憶を合わせても、こんなに綺麗におめかしをしたのは初めてで、私は少し照れくさくて、えへへと笑いました。
お屋敷の玄関を出ると、そこにはオブシディアン公爵家の立派な紋章が描かれた、真っ黒で大きな馬車が止まっていました。
ルークに手を取られて馬車に乗り込むと、中はふかふかのベルベットのシートで、まるでお部屋のように広くて快適でした。
パカラッ、パカラッという心地よい馬のひづめの音を聞きながら、馬車は王都の街の中心へと進んでいきます。
私はお父様の膝の上にちょこんと座らせてもらいながら、窓の外の景色に釘付けになっていました。
「うわぁ……! すごい、お家がたくさんある! お店もいっぱい!」
石畳の道に沿って、赤や青のカラフルな屋根の家が立ち並び、パンの焼けるいい匂いや、楽しそうに笑い合う人々の声が風に乗って聞こえてきます。
孤児院の地下室からは決して見ることができなかった、眩しいほどに生き生きとした外の世界。
私が目をキラキラさせて見ていると、お父様は私の頭を優しく撫でながら、満足そうに頷きました。
「まずは、服の仕立て屋に向かう。お前のクローゼットには、まだ服が少なすぎるからな」
馬車が止まったのは、王都で一番の高級ブティック『マダム・ローズのお店』でした。
お店に入ると、美しいドレスがたくさん並んでいて、目が回りそうです。
しかし、お店の店長であるマダムは、お父様の顔を見るなり「ひぃっ!」と悲鳴を上げて壁に張り付いてしまいました。
「お、お、オブシディアン公爵閣下……! もしや、当店に何か不手際が……っ!?」
『黒曜石の悪魔』と呼ばれるお父様がやってきたのだから、何か悪いことをして怒られると思ったのでしょう。
「落ち着け。今日は、私の可愛い娘の服を見繕いに来ただけだ」
お父様が私を前に出すと、マダムは「えっ?」という顔をして私を見つめ、それからパッと顔を輝かせました。
「まぁ……っ! なんて愛らしくて、可憐なお嬢様なんでしょう! ぜひ、当店自慢のドレスをあれもこれも着ていただきたいですわ!」
そこからは、まるで着せ替え人形のようでした。
ピンク色のリボンがたくさんのドレス、星空のようにキラキラ光る紺色のドレス、お花がいっぱいついた黄色のドレス。
次から次へと試着をするたびに、お父様とルークの反応が面白いくらい変わりました。
「ルーク、どうだ。私の娘は世界一可愛いだろう」
「はい、養父上。しかし、こちらのドレスは少し生地が薄すぎませんか? もしお嬢様が風邪を引かれたら一大事です。こちらのマントもセットで買うべきです」
「む、確かにそうだな。おい、店主。そこの端から端まで、すべて私の娘のサイズに合わせて一番上等な生地で作れ。靴と帽子、それに宝石も、全部リリアに似合うものを用意しろ」
「ええっ!? そんなにたくさん……!?」
私が目を丸くして驚いていると、お父様は「気にするな。お前に似合うものを選ぶのが、今の私の何よりの楽しみなのだから」と、自慢げに胸を張りました。
お店の人が引くほどのお買い物をした後は、近くのカフェのテラス席で、家族三人で休憩をすることになりました。
テーブルに運ばれてきたのは、グラスの中にフルーツや生クリーム、キラキラのゼリーが宝石のように詰まった「王都名物・特製フルーツパフェ」でした。
「わぁぁ……! おいしそう!」
長いスプーンで一口食べると、甘くて冷たいアイスクリームと、甘酸っぱいイチゴの味が口いっぱいに広がります。おいしすぎて、ほっぺたが落ちてしまいそうです。
お父様は甘いものが苦手なはずなのに、私が「おいしいよ!」と言ってスプーンを差し出すと、少し渋い顔をしながらも「……うむ、うまいな」と食べてくれました。
その不器用な優しさが嬉しくて、私はまた笑顔になりました。
***
しかし、その幸せな時間は、突然の大きな音で破られました。
ガシャーーーンッ!!
カフェのすぐ近くの路地裏から、荷車の倒れる音と、子どもの悲鳴が聞こえたのです。
「うわぁぁぁんっ!! 痛いよぉっ!」
私たちが驚いて振り返ると、そこには、野菜を積んだ荷車がひっくり返り、その下敷きになって泣いている小さな男の子の姿がありました。
周りの大人たちは驚いて遠巻きに見ているだけで、誰も助けようとしません。
「……っ!」
私は、パフェのグラスを置いて、無意識のうちに椅子から立ち上がっていました。
男の子の足からは血が流れていて、とても痛そうです。
(助けなきゃ。私の力なら、治せる……!)
そう思って一歩踏み出した瞬間。
私の足が、コンクリのように重く固まって動かなくなりました。
周囲には、様子を見ようと集まってきた野次馬の大人たちがたくさんいました。
『気味が悪いバケモノだ!』
『国を裏切った悪女め!』
二度目の人生で処刑台へ向かう時、私に向かって向けられた、あの群衆の冷たい目と、罵声の記憶がフラッシュバックしてしまったのです。
(だめだ……ここで力を使ったら、またみんなに石を投げられる。バケモノって言われる……っ!)
体がガタガタと震え、息ができなくなりました。目の前が真っ暗になりかけたその時です。
「リリア!!」
温かくて、大きくて、力強い手が、私の震える両肩をしっかりと包み込みました。
振り返ると、そこには真剣な顔をしたお父様がいました。
そして、ルークが私の前に立ち、群衆から私を隠すように剣の柄に手をかけて周囲を鋭く睨みつけてくれていました。
「大丈夫だ、リリア。周りの目など気にするな。お前のやりたいようにやりなさい。もし、お前をバケモノだと呼ぶ愚か者が一人でもいれば、この私が絶対に許さない」
お父様の言葉は、魔法の呪文のように私の心にスッと入り込み、恐怖で縛られていた鎖をほどいてくれました。
「……うんっ!」
私はお父様に背中を押され、倒れている男の子のそばへ駆け寄りました。
「大丈夫? 今、痛いのをなくしてあげるからね」
私は男の子の足に両手をかざし、目を閉じました。
心の中で、神様に強くお願いします。
この子の痛みを消してください、と。
すると、私の手のひらから、ポワァ……と、あのルークを助けた時と同じ、純白で温かい光があふれ出しました。
「え……?」
光が怪我を包み込むと、みるみるうちに血が止まり、傷跡ひとつ残さずに綺麗に治ってしまったのです。
男の子は泣き止み、不思議そうに自分の足を見つめました。
「いたくない……。おねえちゃんが、なおしてくれたの?」
「うん。もう大丈夫だよ。」
私が微笑んで立ち上がると、周囲を囲んでいた大人たちの間に、シーンとした沈黙が走りました。
(あ、また……バケモノって言われる……)
私が思わず首をすくめて、お父様の後ろに隠れようとした時です。
「……おおっ! なんてすごい治癒魔法だ!」
「あんなに小さな女の子が、無詠唱で怪我を治してしまったぞ!?」
「まるで、神話に出てくる『聖女様』の生まれ変わりみたいだ!」
「天使だ! 神様の使いの天使様がいらっしゃったぞ!」
群衆の中から巻き起こったのは、罵声でも石でもなく、割れるような拍手と、私を褒めたたえる歓声でした。
「え……?」
私は驚いて目を丸くしました。
誰も私をバケモノとは呼びません。
みんなが、笑顔で私を見てくれているのです。
「ほら、言った通りだろう。お前の力は、人を幸せにする素晴らしい力なんだ」
ルークが優しく微笑みかけてくれました。
私は、二度目の人生からずっと抱えていた「自分の力への恐怖」が、春の雪解けのようにスゥッと消えていくのを感じました。
お父様とルークがいてくれたから、私はもう、過去のトラウマに負けないくらい強くなれたのです。
***
その日の夜。
私が安心しきってぐっすりとベッドで眠っている頃。
お屋敷の奥にある公爵の執務室では、お父様が一人、机の上にある「ひとつの布」を見つめて、静かに震えていました。
「……間違いない。これは……」
お父様の目の前にあるのは、色あせて少し汚れのついた、上質な絹で作られた「おくるみ(赤ん坊を包む毛布)」でした。
そこには、オブシディアン公爵家の紋章と、亡き奥様がひと針ひと針、心を込めて縫い上げた、愛らしい花の刺繍が施されていました。
お父様の向かいに立つ側近の騎士・レオンが、神妙な顔つきで報告を続けます。
「閣下。隠密からの報告によりますと、このおくるみは、あの孤児院の院長の隠し金庫の奥深くに、厳重に隠されていたそうです。院長は、この高価な布を金に換えようとして、ずっと隠し持っていたのでしょう。そして……リリアお嬢様が五年前、孤児院の前に捨てられていた時、このおくるみに包まれていたという証言も裏が取れました」
お父様は、大きな手でそのおくるみをそっと撫でました。
五年前、強盗に奪われ、行方不明になった「本当の実の娘」
愛する妻の忘れ形見であり、ずっと探し続けてきた大切な宝物。
「リリアは……ただ私に拾われただけの孤児ではなかった。私の、私と愛する妻の、本当の娘だったのだ……っ」
『黒曜石の悪魔』と恐れられ、戦場でも決して涙を流すことのなかったお父様の金色の瞳から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ち、おくるみを濡らしました。
「よくぞ……よくぞ、生きていてくれた。あの冷たくて恐ろしい場所で、ひとりで……っ」
お父様は、おくるみを顔に押し当てて、声を殺して泣き崩れました。
娘を奪われたことへの怒り。
これまでリリアが受けてきた虐待に対する深い悲しみ。
そして、ついに本当の家族を取り戻せたことへの、どうしようもないほどの喜びと安堵。
ひとしきり涙を流した後、お父様はバッと顔を上げました。その瞳には、かつてないほどの鋭く、強い決意の光が宿っていました。
「レオン。五年前、屋敷を襲撃し、リリアを誘拐して孤児院に売り飛ばした黒幕を、必ず見つけ出せ。どんな手を使っても構わん。私の娘をあのような目に遭わせた者たちに、地獄の苦しみを与えてやる」
「はっ! 御意のままに!」
レオンが部屋を退出した後、お父様は静かに私の寝室へとやってきました。
月の光が差し込む部屋で、スースーと規則正しい寝息を立てている私のベッドのそばにひざまずき、私の小さな手に、そっと自分の額を押し当てました。
「リリア。お前は、私の本当の娘だ。もう二度と、誰にもお前を奪わせはしない。お父様が……これからはずっと、お前を世界一幸せにしてやるからな」
その優しい声は、夢の中にいた私にも届いていたのでしょうか。
私は眠りながら、えへへ、と嬉しそうに笑い、お父様の大きな手をギュッと握り返しました。
大人は嘘つきだと思っていた孤独な少女は、ついに「本当の居場所」と「本当の家族」を見つけたのです。
私の三度目の人生は、もう悲しいことなんて何もない、温かくて幸せな未来へと向かって歩き始めていました。




