黒い呪いの少年と、初めての「癒やし」
オブシディアン公爵家のお屋敷に引き取られてから、あっという間に一週間が過ぎました。
ふかふかのベッド、温かくておいしいごはん、そして、私を「お嬢様」と呼んで優しくお世話をしてくれるメイドのアンナさんたち。
二度目の人生では、冷たい地下室に閉じ込められてばかりだった私にとって、ここはまるで天国のような場所でした。
でも、私の心の中には、まだ暗くて怖い記憶がこびりついていました。
ある日の朝食のときのことです。
私は、出されたふかふかの丸いパンを、こっそりと自分のドレスのポケットに隠そうとしました。
孤児院では、いつご飯が食べられなくなるかわからなかったので、食べ物を隠すクセがついてしまっていたのです。
「……リリア?」
正面に座っていた公爵様(お父様)に声をかけられ、私はビクッ! と肩を揺らしました。
(あ、怒られる……! 汚い手でパンを隠したから、叩かれるんだわ……!)
ギロチンで処刑された時の冷たい刃の感覚や、孤児院の院長先生の怒鳴り声が頭をよぎり、私はガタガタと震えながら両手で頭をかばいました。
「ごめんなさい、ごめんなさい……! もうしません、だからぶたないで……っ」
しかし、降ってきたのは暴力ではありませんでした。
お父様は静かに立ち上がると、私のそばに来て、その大きな手で私の頭を優しく撫でてくれました。
「リリア。誰も、お前をぶったりしない。食べ物を隠さなくても、この家ではお前が望む時に、望むだけ、お腹いっぱい食べさせてやる。……今まで、ひもじい思いをさせてすまなかったな」
世界一怖い『黒曜石の悪魔』と呼ばれるお父様の金色の瞳は、少しだけ悲しそうに揺れていました。
その日の午後、お屋敷のキッチンには、街で一番有名なケーキ屋さんの甘いお菓子が、山のように運び込まれました。
「リリアがいつでも甘いものを食べられるように」
という、お父様の不器用で大げさな優しさでした。
大人は嘘つきだと思っていたけれど、お父様は本当に私を大切にしてくれています。
その温かい愛情に触れるたび、私の心の傷は少しずつ塞がっていくようでした。
***
その日の夕方、私はアンナさんと一緒にお屋敷の広いお庭をお散歩していました。
「うわぁ……! すごく綺麗……!」
お庭というよりも、まるでひとつの森のようです。
赤やピンクのバラが咲き乱れ、噴水からはキラキラと水が吹き出しています。
前世の日本の記憶を思い出しても、こんなに美しい庭園は見たことがありませんでした。
「ふふっ、リリアお嬢様はお花がお好きなんですね」
アンナさんが微笑む中、私は一羽の小さな青い小鳥を見つけました。
小鳥は羽を怪我しているのか、地面でピィピィと痛そうに鳴いていました。
(かわいそうに……)
私はしゃがみこみ、そっと小鳥に両手をかざしました。
私の中に眠る不思議な力。一度目の人生では「気味が悪い」と言われ、二度目の人生では「偽物の聖女(悪女)」に利用され、最後には私を破滅させた力。
使うのは怖かったけれど、目の前で苦しんでいる小さな命を見捨てることはできませんでした。
(少しだけ……少しだけなら、バレないよね)
心の中で強く願うと、私の手のひらから、ポワァ……と温かくて優しい、淡い金色の光があふれ出しました。
光が小鳥を包み込むと、折れていた羽がみるみるうちに治っていきます。
元気になった小鳥は、「ありがとう!」と言うように私の周りをくるくると飛び回り、お庭の奥へと飛んでいきました。
「あ、待って……!」
私は小鳥を追いかけて、お庭の奥へ奥へと進んでいきました。
夢中で追いかけているうちに、気がつくとアンナさんの姿が見えなくなっていました。
「アンナさん……?」
周りを見渡すと、綺麗だったお花畑はいつの間にかなくなり、高く生い茂った木々に囲まれた、薄暗くて静かな場所に迷い込んでいました。
そして、木立の向こうに、お屋敷とは違って少し古びた「離れ」の建物が見えました。
(なんだろう、ここ……)
その建物に近づいた瞬間、私の背筋にゾクッ! と冷たいものが走りました。
「……っ!?」
空気が、とても重くて冷たいのです。チクチクと肌を刺すような、黒くて嫌な気配。
私の力は、癒やすだけではなく、こういう「悪い力」を感じ取ることもできました。
(怖い……。早くアンナさんのところへ戻らなきゃ)
本能が「逃げなさい」と警告しています。
一歩後ろへ下がろうとした時でした。
「……うぅ……ああっ……!」
離れの建物の中から、苦しそうな、絞り出すようなうめき声が聞こえたのです。
ビクッと足が止まりました。
大人の声ではありません。私より少し年上くらいの、子どもの声です。
(誰か、泣いてる……? 苦しんでるの……?)
怖い気持ちよりも、「助けなきゃ」という気持ちが勝ちました。
私はギュッと両手を握りしめると、ギィ……と重たいドアを押し開けて、離れの中へと足を踏み入れました。
部屋の中はカーテンが閉め切られていて、真っ暗でした。
目が慣れてくると、部屋の真ん中にあるベッドの上に、一人の男の子が身をよじって苦しんでいるのが見えました。
年は、十歳くらいでしょうか。
夜空のような深い青色の髪をした、とても整った顔立ちの男の子でした。
でも、その肌は雪のように青白く、首のあたりから、まるで黒い蛇のような不気味な「アザ」が、生き物のようにうねうねと這い上がっていたのです。
「……だれ、だ……」
男の子が、ハッと目を開けました。
氷のように冷たい、透き通った水色の瞳。でも、その瞳はひどい痛みのせいで、涙で潤んでいました。
「あ、あの……大丈夫ですか……?」
私が恐る恐る近づくと、男の子はひどく怯えたように身をすくめ、そして、わざと怖い顔を作って私をにらみつけました。
「く、来るな……っ! 俺に近づくな! この『呪い』がうつるぞ……っ! 俺はバケモノなんだ、出て行け!!」
バケモノ。
その言葉を聞いて、私の胸の奥がチクリと痛みました。
孤児院の院長先生が、私に向かって吐き捨てた言葉と同じだったからです。
(この人も……私と同じだ。自分をバケモノだと思い込んで、一人ぼっちで苦しんでるんだ……)
私の中で、何かが弾けました。
二度目の人生で、誰にも助けてもらえず、冷たい牢屋の中で一人で泣いていた自分自身の姿が、この男の子と重なったのです。
「出て行かないよ」
「なっ……! お前、死にたいのか……っ! この黒い呪いに触れたら……」
「大丈夫。私は、バケモノなんかじゃないって知ってるから」
私は、男の子のベッドのそばにひざまずき、黒いアザが広がりかけているその手を、両手でギュッと握りしめました。
「やめろ……っ!」
男の子が振り払おうとしましたが、私は絶対に手を離しませんでした。
「神様……お願い。この人の痛みを、全部なくして!」
私が心の底から強く祈った瞬間でした。
――カァァァッ……!
私の体から、先ほど小鳥を治した時とは比べ物にならないくらい、強くてまばゆい、純白の光があふれ出したのです。
部屋の中の暗闇が、まるで朝日が昇ったように一瞬でかき消されました。
「……なんだ、この光は……温か、い……?」
男の子が驚いて目を見開きました。
私の手から流れ込む白い光が、男の子の体に巻きついていた黒い「呪い」のアザを、まるで春の雪を溶かすように、シュワシュワと消し去っていくのです。
「うそだ……。国で一番偉い司教様でも、解けなかった呪いが……」
男の子の呼吸が、だんだんと穏やかになっていきました。氷のように冷たかった男の子の手に、温かい体温が戻ってきます。
「……もう、痛くない?」
私が優しく微笑みかけると、男の子は信じられないものを見るような目で私を見つめ、ポロポロと大粒の涙をこぼしました。
「あ、ああ……痛くない。息が、できる……。君は、天使……?」
「ふふっ、違うよ。私はリリア。お父様の……オブシディアン公爵の、娘だよ」
私がそう答えた時でした。
「リリアーーーッ!!!」
バンッ!! と、離れのドアが壊れるほどのものすごい勢いで蹴り開けられました。
そこに立っていたのは、顔を真っ青にして、肩で息をしているお父様でした。私が迷子になったと聞いて、飛んで探しに来てくれたのです。
「お父様……!」
「リリア! 無事か! 怪我は……っ!?」
お父様は私のもとへ駆け寄り、私を壊れ物のようにギュッと抱きしめました。
それから、ベッドの上に起き上がっている男の子を見て、雷に打たれたように固まりました。
「ル、ルーク……? お前、その顔色……黒い呪いの痕が、消えている……!?」
お父様が『ルーク』と呼んだその男の子は、ベッドからふらりと降りると、私とお父様に向かって、スッと綺麗な姿勢でひざまずきました。
「……養父上。ご心配をおかけしました。ですが……そちらの、リリアお嬢様の不思議な光が、俺の命を蝕んでいた呪いを、すべて消し去ってくれたのです」
ルークと呼ばれた男の子は、水色の瞳で私をまっすぐに見つめました。
「リリアお嬢様。俺は、オブシディアン公爵の養子であり、騎士のたまごである、ルークと申します。俺の命を救ってくださったご恩は、一生忘れません。俺の剣は、これからの生涯、すべてあなたをお守りするために捧げます」
それは、のちに「最強の天才騎士」として国中の悪党から恐れられることになるルークと、私の、運命の出会いでした。
(私……人を、助けることができたんだ……!)
自分の力が、誰かのために役立ったこと。
そして、ルークという新しい家族ができたこと。
私の胸の中は、今まで感じたことがないくらい、ポカポカと温かい気持ちでいっぱいになっていました。




