第96話:食べることは、色づくこと
――午後の部。
待ちに待った、Ⅵ.支援学の時間だ。
本日の課題は、「持ち込み食材を使った自由創作」。
セントルファー魔法学園では、一クラス全員が、常に同じ顔ぶれで授業を受けるわけではない。
実習の内容や設備、担当教員に合わせ、その都度、午前と午後の組へ分けられる。組み合わせも固定ではなく、最終的に全員が同じ履修機会を修められるよう、学園側が細かく調整しているらしい。
つまり。
今日、冷夏さんと同じ組になれたのは――純然たる幸運である。
それも、ただ一緒に授業を受けるだけじゃない。
調理台の上には、西芳寺家から提供されたということになった、僕のバイソン肉が堂々と鎮座している。
入手経路を偽装してくれた共犯者まで隣にいる。
今日は運まで僕に味方しているらしい。
やはり僕は、ラッキーボーイだ。
本来なら同じ組にいたはずの橙馬は、なぜかラファエル教官に呼び出されているらしいが——そんなことは、今となってはどうでもいい。
ついに、この時が来た。
……やばい。
やばい、やばいやばい。
喉が渇く。心臓が高鳴る。
今にも興奮が興奮を追い越して、僕の中から何かが飛び出してしまいそうだ。
『もうすでに、相当おかしなことになっていると思いますが』
いつものミネルヴァの皮肉も、今日はやけに心地よい。
『アハハ! ホノちゃん、待ちに待った授業だねえ』
ジュリアの言う通り、今日は――この時間は――セントルファー魔法学園で、僕が最も楽しみにしていた授業なのだから。
色んな意味での幸運を僕は感じている。
というのも、支援学は、昔から存在した科目ではないらしい。
新しい校長が就任してから、新設された比較的新しい授業だという。
(新しい校長……絶対、僕と気が合う)
週に二限しかないのが寂しいけれど、存在しないより圧倒的にいい。
この学園に来た理由の九割は、卒業資格を得て、実家の牧場を継ぐため。
だが、残り一割の下心を正直に認めるなら――。
この授業を受けること。
そして、新しく就任した一人の女性教師に会うことだった。
……いや。
教師という言い方だけでは、到底足りない。
真の顔はおそらくこっち。
美食学のパイオニア。
七つ星国宝級レストラン〈ジパング〉の最高調理長。
食材の魅力を極限まで引き出し、皿の上へ新たな価値を生み出す――『美食の錬金術師』。
アウレリア・ガストリカ。
その人に、今日、やっと会えるのだ。
『ほほう、錬金術師とはネエ。ボクと気が合うかもしれないってわけかイ! 美食という肩書が、いささかボクと重なって気に喰わないが――あアッ! いずれボクの錬金術と毒で、鮮やかに上塗りしてあげようじゃないカッ!』
脳内で、レクターがわざとらしく両手を広げた。
(黙れ。レクターごときがキャラ被りしてるわけないだろ。本当に黙れ)
『ホノちゃん……料理関連の話になると、露骨に口悪くならない?』
ジュリアが、若干引いたように笑う。
(料理の評価だけは、絶対だから)
『でもレクター相手なら、悪口になってむしろ正解だからヨシ!』
(さすがジュリア~。よくわかってるぅ)
『私の記憶が正しければ、彼女が世間で呼ばれていた二つ名は「融解の魔術師」だったはずですが。戦場に立てば、それはそれは凄惨な光景を作り上げるとか』
(そっちの二つ名は忘れていい。最初に呼び始めたやつの両目へ、グリーンワサビを塗り込んでやりたいね)
『アハハ! ホノちゃん、キレまで上がってるよ!』
『小僧の料理好きにも困ったもんじゃわい。まあ、ワイらへの扱いが雑になるんは、それだけ楽しみにしとった証拠じゃろ。小僧の陰気を抜く、ええ機会じゃ』
(い、陰気って……僕って、そんなに陰気かな)
内心で首を傾げた、そのとき。
調理室の扉が、静かに開いた。
入ってきたのは、純白のロングコートを纏った銀髪の女性だった。
その手には、桃色と青色と白色の三色がグラデーションで混ざったようなおしゃれな扇子を広げていた。
背筋はまっすぐ伸び、一歩ごとの歩幅に乱れがない。調理室へ入ってきただけなのに、厨房全体が彼女の領域へ塗り替えられていくような圧がある。
その姿を認めた瞬間、教室内が一気に沸き立った。
「お、おい……本物だ!」
「『融解の魔術師』だ……!」
『ご主人様。あれが、世間一般の認識のようです』
(うるさい。僕には何も聞こえない)
あんな野蛮な二つ名で彼女を呼ぶ連中は、全員味覚が死んでいるに違いない。
教壇へ立った女性――アウレリア先生は、花が綻ぶような微笑みを浮かべた。
けれど、その瞳の奥には、研ぎ上げた包丁の刃にも似た鋭い光が宿っている。
「ごきげんよう、雛鳥の皆さん。アウレリア・ガストリカです。今日から皆さんの支援学、その調理分野を担当いたします」
柔らかく、よく通る声。
それだけで、さっきまでざわめいていた生徒たちが自然と口を閉じる。
「……あら?」
アウレリア先生の視線が、調理室の後方で止まった。
「そこの雛鳥。何かしら、その不服そうなお顔は」
視線の先にいたのは、椅子へだらしなく座り、大きな欠伸をしていた金髪の男子生徒だった。
あの態度。
あの髪。
セシル先生へ喧嘩を売り、こっぴどくやられていた人だ。
(名前、なんだっけ。カスだ、だっけ?)
『ガルダでございます、ご主人様。人物への評価が、そのまま名前へ混入していますわ』
(おっと、いけないいけない。無意識にやっちゃった)
「いや、だって先生。腹を膨らませるだけなら、魔法食糧で十分じゃないっすか?」
ガルダが、悪びれもせずに肩をすくめる。
「正直、料理なんて食えれば何でもよくね? って思うんすよ」
その瞬間。
アウレリア先生の周囲から、温度が消えた。
火も水も使っていないはずなのに、調理室の空気が凍りつく。
(……なんて愚直で、悲しい発想なんだろう。やっぱりガルダじゃなくてカスだ、がふさわしいかもしれない)
「なるほど」
アウレリア先生は、微笑みを崩さなかった。
「お腹を膨らませ、生命活動を維持する。それだけを目的とするなら、あなたの考えは生物として正しいでしょう」
一歩。
教壇を降りる。
「ですが――私たちは、ただ飢えを満たすためだけに食べるのではありません」
さらに、一歩。
「食材は、ただ消費されるために存在するのではない。その色を、その香りを、その味を、最も美しい形で引き出される可能性を持っている」
静かな声が、調理室の隅々まで染み渡る。
「食べることは色づくこと。食は、色でもあるのです」
アウレリア先生の瞳に、鋭利な光が差す。
食は色でもある……なぜかその言葉が、感覚的に僕の胸にも刺さる。
「味覚を疎かにすることは、己の魂を疎かにすること。ひいては、己の存在そのものを粗末に扱うことと同義です」
「は、はあ……」
「この教室で『何でもいい』という言葉を使うときは、それが自分の死を招く呪文であると覚悟なさい」
顔は微笑んでいたが、アウレリア先生からのプレッシャーが教室全体に広がっていた。
「わかりましたか?」
「は……はい」
ガルダの顔から、綺麗に血の気が引いていた。
セシル先生に続いて、なぜこの男は会う教師すべてへ喧嘩を売りにいくのだろう。
その生き方だけは、まったく理解できない。
それにしても。
(……いい。めちゃくちゃ、いい……!)
やっぱり最高だ、この人。
言っている内容も、その雰囲気も。
「……ふふ。ごめんなさい。少し怖がらせてしまいましたね」
アウレリア先生は一転し、少女のように可憐な笑みを浮かべた。
「私、本当は皆さんと仲良くなりたいんです。ですから――」
頬へ指を添え、小さく首を傾げる。
「どうか『リア』と、可愛く、親しみを込めて呼んでくださいな。約束ですよ?」
「「「…………は、はい!?」」」
教室中が、その落差に翻弄された。
(愛嬌もあるだなんて……なんて完璧な人なんだ……!)
そんな中、リア先生は両手を覆っていた白い手袋を、指先から一本ずつ丁寧に外していった。
露わになった手は、美しい。
けれど、傷一つないわけじゃない。
指の腹には薄いタコ。関節の近くには、小さな火傷の痕。包丁を握り、熱い鍋へ向かい、数え切れないほど食材へ触れてきた人間の手だった。
(……本物だ)
あれは、飾りとして厨房に立つ人の手じゃない。
職人の手だ。
「実習を始める前に、少しだけ喉を潤しましょうか」
アウレリア先生――もとい、リア先生が指を鳴らした。
パチン。
澄んだ音が響いた瞬間、調理室内の空気が揺れる。
気のせいじゃない。
大気中の魔力が、一斉に彼女の周囲へ引き寄せられていた。
「持ち込んだ食材から一皿を生み出すことは、己の魂を削り、そこへ色を与える作業です」
リア先生の手のひらの上へ、透明な水の球体が生まれる。
「濁った器では、食材の声を正しく聞くことはできません」
その水球へ、香味野菜の皮や茎、切り落とされた端材が次々と吸い込まれていく。
普通なら、捨てられてしまうこともある部分。
けれど、香りも、甘みも、旨味も、まだ残っている。
「――《黄金の抽出液》」
ボォッ、と。
青白い炎が、水球を包み込んだ。
火と水。
本来なら相反する二つの魔力が、互いを打ち消すことなく、恐ろしいほど緻密な均衡を保っている。
野菜の端材は少しずつ色を失い、その代わりに水が、内側から黄金色へ染まり始めた。
(……まさか、あの短時間でブイヨンを……!?)
通常なら、弱火で時間をかけて旨味を引き出す。
火が強すぎれば雑味が出る。温度が低すぎれば香りが開かない。素材ごとに異なる抽出の時間を見極め、余計なものを出さず、必要なものだけを液体へ移す。
それをリア先生は、火力と水分、それに魔力の流れを同時に制御して――数十秒で終わらせようとしている。
やがて、野菜から色が完全に抜けた。
透き通った黄金色の液体だけが、空中で静かに揺れている。
リア先生は、指先へほんの少量のスープを掬い、舌で確かめた。
それから、塩をひとつまみ。
(カイソウタートルの背に宿る岩塩……!)
海の旨味と、岩塩の輪郭を併せ持つ逸品だ。
(ほ、ほしい……!)
塩が溶けた瞬間、香りの輪郭が立った。
甘み。
青い香り。
土の匂い。
それまで一つの液体へ溶けていた要素が、喧嘩することなく、それぞれの存在を主張し始める。
黄金色の液体は細い流れへ分かれ、調理台へ用意されていた小さな耐熱グラスを、次々と満たしていった。
「さあ、召し上がれ」
リア先生が、満足げに目を細める。
「これから茨の道へ踏み出す雛鳥たちへの、私からの餞別です」
僕の前にも、小さなグラスが一つ置かれた。
具材は何も浮いていない。
見た目だけなら、透き通った野菜のスープ。
でも、この色は本物だ。
僕はグラスを持ち上げ、まず香りを確かめた。
尖った匂いが一つもない。
それなのに、使われた野菜の一つ一つが、どこかに埋もれて消えているわけでもない。
ゆっくりと、黄金色の液体を口へ含む。
「……っ!」
舌へ触れた瞬間、衝撃が走った。
美味しい――だけでは足りない。
野菜の甘み。
根に残る土の香り。
葉や茎が持つ、かすかな苦味。
最後に舌を引き締める、岩塩の鮮やかな塩気。
それらが身体の中にあった小さな隙間へ、ぴたり、ぴたりとはまり込んでいく。
何かを無理やり足された感覚ではない。
絡まっていたものが解かれ、滞っていたものが、ようやく本来の場所へ流れ始める。
透き通った黄金が、身体の隅々まで染み渡っていく。
『ご主人様。これは……』
ミネルヴァの声が、わずかに震えていた。
『魔力の乱れが、強制的に平定されています。おそらく、彼女の生粋魔法によるものですわ。抽出した食材の魔力と、塩ひとつまみだけで、これほど精密な調律を……』
職人の仕事に厳しいガンテツも、
いつもなら何かしら悪態を吐くオーガも。
味には厳しい食通のヴァンデルも、
ついついはしゃぐジュリアも。
自分の気持ち悪さを見せつけたがるレクターも。
今だけは、毒気を抜かれたみたいに黙り込んでいる。
つまりこれは、最上級の誉め言葉に近い。
「……まあ」
少し離れた調理台で、ヴィオレッタが胸元へ手を当て、うっとりと吐息を漏らした。
「これが“リア”……。わたくし、今日という日を国の祝日に制定したいですわ」
その隣で、椿くんがグラスを軽く揺らしながら肩をすくめる。
「祝日て。姫さん、さすがに盛りすぎやわ」
「何をおっしゃいますの。この一杯は、歴史へ刻まれるべき偉業ですわよ!」
「はいはい。究極完全体令嬢は言うことも違うやんか」
軽口を叩きながら、椿くんは黄金色の液体を一口だけ含んだ。
その直後。
へらへらしていた目が、ふっと細くなる。
「……あかん。これ、ただ飲ませるためのスープやないわ」
「え?」
ヴィオレッタが、きょとんと目を瞬く。
「見た目と味だけ麗しゅう整えたんやない。飲んだ相手まで、ちゃっかり整える気ぃ満々や」
椿くんはグラスを見下ろし、小さく笑った。
「リア先生、えげつな。華やかな顔して、やっとることが容赦ないわぁ。これがあれば、戦果すら変えることができるかもしれへん……!」
「あら。あなたのほうが、わたくしより盛っているのではなくて?」
ヴィオレッタが扇子を広げる。
「でも、華やかなのはよいことですわ! オーホッホッホッホ!」
珍しく、むせていない。
「……っ、クソ。別に、うまいって言ったわけじゃねえからな……!」
ガルダが顔をしかめたまま、震える手で空のグラスを置いた。
悪態は変わらない。
けれど、一滴も残っていない時点で、味にだけは嘘をつけなかったらしい。
「……何だ、これは」
今度は、隣の調理台から震える声が聞こえた。
ヴィンセントが、空になったグラスを呆然と見つめている。
「俺の魔力が……整っていく。まるで、最上級のポーションを飲んだみたいに……」
グラスを握る手に、力が籠もる。
その目には驚愕と――それ以上に、燃え上がるような火が灯っていた。
「すごい……。これが、本物の調理魔法なのか」
ヴィンセントは自分の掌を見つめ、何かを確かめるように開閉する。
「俺の爆炎も、扱い方次第では……ただ焼き尽くすだけじゃなく、この域まで……!」
どうやら彼の心にも、別の意味で火がついたらしい。
単純な男なのかもしれない。
でも、だからこそ、こういうときの情熱には嘘がない気がする。
「……ふふ。少しは整いましたかしら?」
リア先生が、満足そうに微笑んだ。
その微笑みの陰で――。
「……っ……ああ、もう……!」
隣から、切羽詰まった声が聞こえた。
冷夏さんが、調理台の下で膝を小さく震わせている。
「冷夏さん?」
「整う、なんて……嘘よ」
どこか不満げな声色だった。
「え?」
「余計に、お腹が…………空いちゃったじゃない……!」
昼休みにあれだけ食べていたのに。
潤んだ琥珀色の瞳が、僕の調理台に置かれたバイソン肉を、飢えた肉食獣みたいに射抜いている。
リア先生のスープという最高の前菜を口にしてしまった冷夏さんにとって、僕の料理はもはや授業の課題ではない。
生存に必要な救いなのだろう。
「安心して。約束どおり、一番美味しい焼き加減にするから」
「……絶対よ」
声が、真剣すぎる。
「では、課題を始めましょう」
リア先生が、微笑みをそっと畳んだ。
グラスを囲んでいた柔らかな空気が消え、教壇の前に立つ彼女の輪郭だけが、はっきりと浮かび上がる。
鋭い視線が、調理台を一つずつなぞっていく。
並べられた食材。
握られた包丁。
雛鳥たちの指先に残る、わずかな震え。
そのすべてを見定めるように。
そして——静かに息を吸った。
「私に、あなたの『命の彩り』を見せてごらんなさい」




