第97話:黒い太陽は、命を照らす
「オラオラオラァ! 火力こそパワー! 焼き尽くせ――《爆炎点火》ッ!」
隣の調理台では、ヴィンセントが中華鍋を振るたび、轟音と熱波が押し寄せていた。
米粒が宙を舞う。
刻まれた具材が躍る。
爆炎に煽られ、油と香りが一気に馴染んでいく。
ものすごい迫力だ。
こんな気概の漢が隣で爆発を起こしていたら、普通は調理へ集中するどころじゃないだろう。
でも――今の僕には、それすらまるで遠い世界の音にしか聞こえなかった。
「……調理、開始だ」
息を整え、自分の世界へ潜る。
深く深く、さらに深く。
五感を研ぎ澄ます。
調理台の端に置いた、重厚な革張りの包みへ手を伸ばした。
持ち上げた瞬間、掌へずしりと重みが伝わる。
中に収められているのは、ガンテツが僕のために新調してくれた、専用の肉切り包丁だ。
僕の「闇」と、魔獣が遺した荒々しい「命」。
その両方を、真正面から受け止められる刃として。
留め具を外し、革の包みを開いていく。
現れた刀身は、艶を抑えた漆黒。
形状は長方形に近い台形で、厚みのある峰から鋭い刃先へ、無駄なく力が流れるよう設計されている。黒光りする柄には、ガンテツの印である小さな木槌の刻印が彫られていた。
(加工難度の高い素材を、ここまで綺麗に仕立てるなんて……)
さすが、英雄と呼ばれた職人だ。
その洗練された仕上がりに、僕はおもわず生唾を呑んだ。
「……ふぅ」
ゆっくりと、包みから引き抜く。
――キィィィィンッ!
澄み切った高音が、調理室を走った。
ヴィンセントの爆炎すら一瞬だけ断ち切り、周囲の喧騒がわずかに静まる。
刃紋は、嵐が過ぎ去ったあとの波間みたいに、黒い刀身の上でゆらゆらと揺れていた。
触れなくてもわかるほどの――異常なまでの鋭利さ。
『へっ。ええ顔した刃じゃろ』
ガンテツの声にも、隠しきれない誇らしさと無邪気さが滲んでいた。
『そいつは小僧が受け取った命へ、覚悟を乗せるための刃じゃ。ワイの分身じゃと思うて、好きに使え。小僧なら、そいつの潜在能力を引き出せるじゃろう』
(うん。本当にありがとう、ガンテツ)
黒い刀身を、改めて見つめる。
光を呑み込むような色。
けれど、この刃がすることは、その逆だ。
肉を切る。
筋をほどく。
食材の内側に眠っている味を、光の下へ引き出す。
命を暗闇へ沈めるためではなく、一皿の上へ照らし出すための刃。
(……黒陽)
『なんじゃ、小僧』
(この包丁の名前。まだなかったでしょ?)
『ほう?』
(黒い刀身。でも、素材の持ち味を照らして、受け取った命を美味しさへ変える。太陽みたいな包丁だから——)
刀身を傾ける。
漆黒の表面に、調理室の炎が細く映り込んだ。
「――黒陽」
口に出した瞬間、名前が刃へ馴染んだ気がした。
『……カカッ! 黒い太陽たぁ、また大仰な名をつけおったな』
(嫌だった?)
『阿呆。職人が作った道具へ、使い手が魂を入れたんじゃ。文句があるわけなかろうが。むしろ名前を与えられ、初めて完成と呼べるんじゃ』
ガンテツの声が、いつもより少しだけ弾んでいる。
『ゆけ、小僧。《黒陽》で、受け取った命を照らしてこい』
(うん)
僕は、熟成を終えたジェネラル・バイソンの肉へ《黒陽》を添えた。
――トン。
力は入れていない。
包丁の自重を、ほんの少し前へ預けただけ。
それだけで、強靱な筋繊維が、水面へ線を引くみたいに音もなく割れた。
(刀身はしっかりしてるのに……なんて軽いんだ)
切られたことに、肉自身が気づいていない。
そんな錯覚を覚えるほど、断面は滑らかで澄んでいた。
「……っ! なんて綺麗な断面なの……!」
隣で見守っていた冷夏さんが、息を呑む。
この包丁は、ただ切断するための道具じゃない。
食材を、本来あるべき形へ解放する刃だ。
宝石みたいに深く、濃い紅色の断面へ左手をかざす。
「生粋魔法・調理――《下拵え》」
指先が淡い光に包まれた。
数センチほどの微細な光刃が生まれ、脂と筋の境界へ吸い込まれていく。
――フォォォン……。
極小の世界へ意識を沈める。
アイアン・バイソンの濃厚な脂を、味を損なわない大きさまで細かく刻む。
それを、ジェネラル・バイソンの赤身にある繊維の隙間へ、一本ずつ丁寧に埋め込んでいく。
本来なら、混ざり合うはずのなかった二つの命。
それを魔法の針で縫い合わせ、一つの味へと整えていく。
(……次)
肉の表面へ、手のひらを密着させた。
「《下拵え》――応用技術。《肉質軟化》!」
出力を、一瞬だけ引き上げる。
無数の針にも似た微細な衝撃が、肉の奥深くまで走った。
強靱な繊維を細かくほどく。
壊しすぎない。
柔らかくしすぎない。
噛んだときに、肉らしい抵抗がわずかに残る位置で止める。
そこへ振りかけるのは、黒海のシーソルトと、乾燥させて香りを凝縮した竜息茸のブレンドソルト。
粒子が、開いた繊維の奥へ吸い込まれていく。
(塩で余分な水分を抜いて、旨味を凝縮させる。風味は、中心まで届かせる)
仕上げに、オリーブオイル。
力を入れすぎないよう、肉の表面へ丹念に馴染ませる。
油が繊維をゆるめ、薄い膜となって、肉汁の逃げ道を塞いでいく。
最後に――。
「《真空処理》」
肉の周囲から、余分な空気だけが抜けた。
透明な膜がぴたりと密着し、香りも、調味料も、肉汁も、その内側へ閉じ込められる。
これで、下拵えは終了。
あとは少し、肉に時間を渡す。
「……信じられません」
気づけば、リア先生が教卓へ手をつき、身を乗り出していた。
「荒々しい筋繊維を無理に従わせるのではなく、残すべき食感と、ほどくべき箇所を選別している……。脂を移し、風味を通し、真空処理まで——それを、この速度で?」
瞳に宿っているのは、教師が生徒を値踏みする光じゃない。
一人の職人が、未知の技術を見つめる眼差しだった。
その熱は嬉しい。
でも、まだ料理は完成していない。
僕は視線をソースへ移した。
すりおろしたニンニク。
バイソンの乳から作ったヨーグルト。
オリーブオイル。
細かく刻んだ竜息茸。
粉チーズ。
柑橘の柔らかな酸味を持つ、リモンの果汁。
そこへクミンを少々と、自家製のブレンドソルト。
手早く混ぜ合わせ、小指の先へほんの少しだけ取る。
そのまま舌へ乗せた。
(……っ!)
ヨーグルトの酸味が、野性味のある肉の脂を軽くする。
そのあとから、チーズのコクとドラゴンマッシュの旨味が追いかけてくる。最後に残るクミンの香りも、強すぎない。
(うん。美味しい。これなら、肉を邪魔しない)
それから十分。
付け合わせのブロッコリー、じゃがいも、ニンジンには、《圧力調理》で適度に火を通した。
柔らかい。
でも、噛んだときに野菜自身の食感が残る。
(いよいよだ)
鉄板へ落とすのは、特製のバター。
ジェネラル・バイソンのつがいから分けてもらった乳で作ったバターへ、バイソンの牛脂を少量だけ練り込んである。
熱に強く、焦げにくい。
強い火へ晒されても香りを失いにくい、バイソンの性質をそのまま宿したバターだ。
――パチパチパチッ。
黄金色に泡立ち始めた、その瞬間。
寝かせておいた肉を、鉄板の上へ滑り込ませる。
ジゥゥゥゥゥゥゥッ!!
暴力的な音が、調理室を蹂躙した。
溶けたバター。
焼ける脂。
熱によって開かれたドラゴンマッシュの香り。
それらが一斉に立ち上がり、周囲の生徒たちの意識をこちらへ引き寄せる。
でも、油断はしない。
火入れは、一瞬ごとに状態が変わる。
肉の表面から上がる泡。
鉄板へ落ちる脂の色。
香りの変化。
すべてを見る。
頃合いを見極め、ブランデーチェリーを注ぎ入れた。
――ドォォォォンッ!
蒼い炎が、高く立ち上がった。
果実の甘い香りが野性味の強い肉を包み、余計な臭みだけを連れ去っていく。
焼き加減は、ミディアムレア。
表面には香ばしい焼き目。
中心には、肉汁を抱えた紅色を残す。
焼き上がった肉を、あらかじめ熱しておいた二枚の皿へ移した。
付け合わせの野菜。
切り分けた《要塞チーズ》。
最後に、ヨーグルト・リモンソースを添える。
「……これは、ただの鉄板皿ではありませんね?」
リア先生の目が鋭く光った。
「熱の伝わり方が、あまりにも均一です。それに、温度がほとんど落ちていない」
肉の下にあるのは、ジェネラル・バイソンの首筋にあった鋼鉄の皮。
ガンテツの指示を受けながら限界まで圧縮し、魔法によって熱伝導率を固定した――《無限保温皿》だ。
食べ終わるまで、料理を最も美味しい温度に保ち続ける。
「お待たせしました。リア先生。それから――冷夏さん」
二枚の《無限保温皿》を、二人の前へ滑らせた。
鉄板の上では、脂がまだ細く歌っている。
湯気は濃く、立ち上がる香りは攻撃的なほど強い。
これは、ただ課題をこなすための料理じゃない。
僕なりの、命の弔い。
そして――受け取ったものへ与える、彩りだ。
ジェネラル・バイソンの熟成ステーキ、ヨーグルト・リモンソース。
アイアン・バイソン乳の超圧縮熟成《要塞チーズ》と、温野菜の付け合わせ。
鋼鉄の皮を加工した、《無限保温皿》。
あの山で得たものを、何一つ無駄にせず、一皿へ。
「た、食べても……いいのかしら?」
「もちろん。熱々のうちに召し上がれ」
「……いただきます」
冷夏さんが、震える手でナイフを入れた。




