第94話:爆炎のフィナンシェ
──【焔乃士視点】──
午前の魔法演習を、屈辱のゼロ点で終えた。
僕としたことが、なんということだ。
だが、いつまでも引きずっていられない。
ここからは切り替えが大事。
何より今は――午前と午後を繋ぐ、学園生活でもっとも神聖な時間。
すなわち、昼休みである。
授業の終わりを告げる鐘が鳴った瞬間、生徒たちは一斉に立ち上がった。
椅子の脚が床を擦る音。
弁当箱を取り出す音。
食堂へ向かう生徒たちの笑い声と足音。
教室の喧騒が廊下へ溢れ、昼休み独特の熱気が、波みたいに広がっていく。
午後には、待ちに待った調理実習がある。
午前中に負った「ゼロ点」という心の傷はまだ癒えていないけれど、美味しいものを作って食べれば、たいていの悲しみはなんとかなる。
そう信じて鞄を閉じ、席を立ったときだった。
「焔乃士くん」
教室の入り口から、よく通る凛とした声が届いた。
そこに立っていたのは、冷夏さんだった。
長い黒髪を背中へ流し、琥珀色の瞳をまっすぐ僕へ向けている。周囲の生徒たちが無意識に避けて通る中、彼女だけが、人の流れから切り離されたみたいに静かだった。
「どうしたの、冷夏さん?」
「……あの夜のことで、大事な話があるの」
教室のざわめきが、一瞬だけ止まった。
いや、完全に止まったわけじゃない。
誰かが弁当箱を取り落とし、別の誰かが盛大に咳き込み、あちこちから椅子の軋む音がした。
「今、あの夜って……」
「西芳寺さんと、闇属性のあいつが……?」
「しかも大事な話……?」
ひそひそと囁く声が、まったく隠しきれていない。
ついさっきまで、僕を見る目には警戒や嫌悪が多く混じっていたはずなのに。今はそこへ、羨望と困惑、それから妙に生温かい何かまで加わっている。
(……なんで、みんな急にそんな目で見るの?)
『アハハ! ホノちゃん、それを真顔で考えられるの、逆にすごいよ!』
(え。竜息山のこと、みんなに聞かれたら困るから?)
『そこまで辿り着いて、どうして正解だけ綺麗に踏み外せるんですか……?』
ミネルヴァの呆れた声を聞きながら、僕は逃げるように冷夏さんの隣へ並んだ。
「ここじゃ話しづらいわ。食堂へ行きましょう」
「うん。ちょうどお腹も空いてたし、最高だね」
「……あなたは本当にブレないわね。まあ、概ね同意するのだけれど」
冷夏さんは小さく息を吐き、僕と一緒に廊下へ出た。
――だが。
昼休みの廊下には、僕らを待ち構えていたように立つ男がいた。
人の流れが、彼の周囲だけ不自然に左右へ分かれている。避けられているのは冷夏さんではない。
赤い髪を後方へ撫でつけ、仕立てのいい制服を寸分の乱れもなく着こなした長身の男子生徒。
歩み寄ってくるだけで、周囲の空気がじわりと熱を帯びた。本人が何もしていないのに、炎の魔力が薄く滲み出している。
「おい、鴨葱」
男は僕の前で立ち止まり、鋭い目を細めた。
「なぜ貴様が、冷夏様と一緒にいる?」
「……えっと」
「忌み嫌われし闇属性、一週間も検査に費やした危険人物。その貴様が、冷夏様の隣を当然のように歩くな」
見下すような声。
燃えるような赤い髪。
無駄に整った顔。
どこかで見たような気はする。
でも、記憶の棚をいくら探しても、名前が見つからない。
「……だれ、ですか?」
廊下の空気が、はっきりと凍りついたのが僕にもわかった。
周囲にいた生徒の息まで止まった気がする。
「……は?」
赤髪の男が目を見開いた。
「初日に話しただろう!? この俺を忘れたというのか! 『爆炎の貴公子』ヴィンセント・ド・ラ・マルクだ!」
「ヴィンセント……」
名前を聞いて、もう一度記憶の棚を探る。
そこに残っていたのは、「どうでもいい情報」と書かれた箱と、ぼんやりした赤色だけだった。
「いや、その……どこかで何か言われた気はするんだけど。ごめん、思い出せなくて」
本気だ。
煽っているわけでも、わざとでもない。
『あら』
ミネルヴァが、淡々と息をついた。
『もし物語であれば、描写ごとカットされている程度の印象だったということですわね。ご主人様……さすがにひどいですわ』
(だ、だってさ、僕が忘れても、みんなが覚えてくれてるじゃん……! そう考えると、ちょっと甘えちゃうのも仕方ないっていうか……)
『……怠惰じゃな。記憶の管理まで他人任せとは、しょうのない小僧じゃ』
『記憶領域を他者へ依存するのは、論理的に見ても非効率ですわ』
『アハハ! でも、最高にホノちゃんっぽいよね!』
『甘えは隙になる。戦場じゃ命取りだ、クソガキ』
『己の脳すら満足に使わぬか。さすが小市民。愚かだが……その無様さは、いっそ美しい。反吐が出るほどにな』
『忘却とは、実に甘美な毒だネエ。あアッ! ならば《毒を喰らわば皿まで》ッ! すべてを忘れたキミは、いったい何者になってしまうのだろうネエ!』
六方向から、一斉に刺された。
(……みんな、仲良く僕を責めるときだけ団結力すごくない?)
最後のレクターは相変わらず気持ち悪いので、存在ごと聞かなかったことにする。
現実へ意識を戻すと、ヴィンセントは怒りと屈辱で端正な顔を歪めていた。
革手袋に包まれた両拳が、小刻みに震えている。彼の周囲だけ、陽炎みたいに空気が揺らめいて見えるのは、無意識に漏れ出した炎の魔力のせいだろう。
「……貴様……!」
地の底から響くような声。
魔力が熱へ変わり、今にも爆発しそうになった――その瞬間。
冷夏さんが、すっと一歩前へ出た。
細くしなやかな身体が、僕を庇うようにヴィンセントとの間へ収まる。
「ヴィンセント。どいて」
「冷夏様。しかし、俺は――」
「彼は、私の大事なパートナーよ」
静かな、けれど有無を言わせない声だった。
その一言で、廊下の空気がもう一段凍りついた。
「ぱ、パートナー!?」
ヴィンセントだけじゃない。廊下を歩いていた生徒たちも、一斉に目を見開いた。
「あのちんちくりんが、冷夏様のパートナーだと!?」
「……え、僕のこと?」
緊迫した空気の中、思わず自分の顔を指差してしまう。
にしても、ちんちくりんって……。
(ん、これ褒めてないよね? あはは……)
僕の間の抜けた反応を見て、冷夏さんが一瞬だけ振り返った。
琥珀色の瞳と目が合う。
透き通るように白い頬へ、ほんのりと朱が差した――ように見えた直後、彼女は逃げるみたいに顔を逸らした。
『一理ありますわね』
ミネルヴァが冷静に頷く。
『現状、ご主人様は西芳寺冷夏様の目的を達成するために必要な協力者。論理的に定義すれば、「パートナー」という表現は妥当にして極めて正確ですわ』
(だよね? なのに、なんでみんな「パートナー」って言葉に、あんなに驚いてるの?)
『……それが理解できないからこそ、ご主人様なのでしょう。毒牙を持つものが鈍感なのも考え物ですわね。より一層けがらわしい』
(あれ。もしかして、今ディスられてる?)
『ホノちゃん残念だけれど、明確にディスられてるよ!』
ジュリアの軽い声が脳内で跳ねる。
その軽さが、僕の胸をより深く突き刺した。
僕のメンタルは豆腐のように柔いのに、当の英雄たちは、我が物顔でそこにいるだけだ。
……うん、本日もいつも通りの小市民日和。最高だね。
「あは、あはは……あはははは! パートナーとは、とんだご冗談を! これは笑える!」
ヴィンセントが声を荒らげる。
「この誇り高き爆炎の貴公子、ヴィンセント・ド・ラ・マルクが、かつてのフィアンセである橘ヴィオレッタ嬢との婚約を解消し、あなたとの未来を受け入れたというのに! 冷夏様は、そのちんちくりんをパートナーと仰るのですか!?」
(ちんちくりん、ちんちくりん……って。うるさいな。僕、そんなにちんちくりんに見える?)
六英雄の誰からも、肯定の言葉はない。
しかし、否定の言葉もなかった。
それが悲しいとは、口が裂けても言いたくない。
「言葉尻を取らないで」
冷夏さんは、ヴィンセントの熱を帯びた視線を、冷ややかに受け流した。
「協力関係という意味よ。彼には、私の課題を手伝ってもらっているの」
「協力関係……?」
「別におかしなことではないでしょう。学園を卒業するため。そのためにできることはすべき。何せここは、〈国立セントルファー魔法学園〉なのよ。油断すれば、待つのは死のみ。それとも、ヴィンセント。西芳寺家の次期当主である私の行動を、まさかあなたが縛るつもり?」
「め、滅相もありません! 俺があなたの意思を蔑ろにするなど……!」
ヴィンセントの勢いが、ほんの少しだけ萎んだ。
「ただ俺は、冷夏様に相応しくない輩が近づくことを、純粋に心配しているのです」
その姿がどこか犬っぽく見えたのは、僕の気のせいだろうか。
「わかっているわ。あなたとは、いずれ一緒になる。家同士の都合とはいえ、そういう約束でしょう。あなたが尽力するなら、それ相応の対価は支払う。二言はないわよ」
「そのとおりです! 何せ俺は、あなたのフィア――」
「ああっ!」
そこでようやく、橙馬の言葉を思い出した。
僕は手を叩き、ヴィンセントの言葉を明るく遮った。
「思い出した! 橙馬が言ってたよ。ヴィンセント、君は冷夏さんの――」
「そうだ。俺こそが冷夏様の――」
「フィナンシェなんだね?」
「そうそう! 外は香ばしく、中には焦がしバターとアーモンドの豊かな香り! 優雅な午後の紅茶へ添える焼き菓子として最高の――って、違う! フィアンセだ!」
「なんて? フィナーレ?」
「卒業の日、最上級魔導師となった俺は大勢の庶民に見守られ、栄光の門出を祝福されながら涙した――って、だから違う! フィアンセだ、鴨葱! 人の大事な肩書きで遊ぶな!」
(なら、無理に全部ノらなければいいのに)
「ええ。フィアンセよ」
冷夏さんが、ヴィンセントの横で短く答えた。
「不本意極まりないし、一生消えない汚点みたいで悔しいけれど、家同士の決定である以上、今は認めるしかないわ」
「言い方すごいね?」
あまりにも刺々しく、未練の欠片もない言い草に、僕は素で驚いてしまった。
「ハッ、なんだ鴨葱。西芳寺家とラ・マルク家の結びつきが羨ましいのか? 身分違いの恋に破れた気分はどう――って、冷夏様!? 今、明確に『悔しい』と聞こえたのですが!? しかも汚点とまでおっしゃいませんでしたか!?」
勝ち誇った笑みを浮かべかけたヴィンセントの顔が、一瞬で引きつった。
「ええ。間違いなく言ったわ」
冷夏さんがきっぱりと断言する。
それを聞いたヴィンセントの表情がさらに固まる。しばらく、顔がピクピクしていたが、その引きつった顔をごまかすように、今度は僕の顔を睨み始めた。
「これもぜんぶ鴨葱……貴様のせいだ。調子に乗るなよ」
ドクン、と。
廊下の空気が、異様な質量を持って膨張した。
「貴様は俺を忘れ、俺と冷夏様の神聖な関係を菓子や門出と同列に扱い……あまつさえ、闇属性ごときが冷夏様の隣で、何も知らないくせに、吞気な顔をしている……!」
熱が視界を歪ませる。
焼けた空気の匂いが、廊下へ満ちていく。
ヴィンセントの足元から、赤い魔力が陽炎となって立ち上った。
周囲の生徒たちがヴィンセントから離れる。
僕も思わず、ヴィンセントからバックステップをして距離を取った。
――何か、来る。
「俺たちの絆を――愚弄するなッ!」
「ヴィンセント、やめなさい!」
冷夏さんの制止より早く、ヴィンセントが片腕を突き出した。
「俺の存在をその身に刻め――ッ! 《爆炎球》ッ!」
掌の前へ、高密度の灼熱が膨れ上がる。
赤。橙。
その中心だけが、白く眩しい。
次の瞬間、火球は放たれた。
一直線。
狙いは、僕の胸。
太陽をそのまま切り取ったような炎の塊が、廊下の空気を引き裂きながら、一瞬で距離を潰してくる。
熱だけが先に届く。
皮膚がちりつき、前髪の先が焦げる未来が、やけに鮮明に見えた。
(うわ、危ない……!)
考えるより先に、身体が動いた。
コンロの火を止めるときと同じ感覚で、迫る火球の一歩手前へ掌をかざす。
「《成分分離》!」
狙うのは、ヴィンセントの魔力じゃない。
火が燃え続けるために必要な成分――酸素。
分離する範囲を、火球の進行方向へ極限まで絞る。
空気の中から酸素だけを選び取り、火球を避けるように左右へ引き剥がした。
耳の奥が、きゅっと鳴る。
――ボッ。
気の抜けた音がした。
巨大な火球は、燃料を失ったランプみたいに形を崩した。
赤い炎が一瞬で萎み、不完全燃焼の黒煙だけを残して霧散する。
生ぬるい風が、ヴィンセントの赤い髪を撫でた。
「……は?」
ヴィンセントが、差し出した手をそのままに固まる。
「消えた……? は? 消えた、だと……?」
誰も声を出せない。
廊下は水を打ったように静まり返り、サクラチップとはまるで違う、焦げた匂いの後味だけが残った。
(ふぅ……危なかった。あと少し遅れてたら、前髪が焦げてたな)
『燃焼条件そのものを分けたか。悪くない判断じゃが、職人仕事としては些か粗いのう』
『ご主人様、心拍数が急激に上昇しています。今の成功には、少なからず運も味方しましたわ』
『ていうかホノちゃん、《真空処理》の方が早くなかった?』
(あっ)
その手があった。
《真空処理》なら、そもそも酸素も存在できない。火はおのずと消える。
『アハハ! 今気づいた顔してるぅ!』
(しょうがないじゃん! とっさに思いついたのが《成分分離》だったんだから!)
脳内から飛んでくる小言を聞き流しながら、僕はまた固まっていたヴィンセントへ一歩近づいた。
あの火球が、怖くなかったわけじゃない。
でも、それ以上に――もったいないと思ったんだ。
だから僕は、ヴィンセントの肩に手をポンと置くと――
「ヴィンセントくん。さっきの魔法、すごい熱量だったね」
思わずニコニコと話しかけてしまった。
「な……貴様、何を……」
「あれだけの高火力があれば、中華鍋を一気に熱せられるよ!」
「……は? 中華鍋……? な、何の話だ……」
「パラッパラの炒飯が、ものすごい速さで作れるじゃん! 表面は香ばしく、中はふっくら。僕の調理魔法でも再現できない高火力……まったく羨ましい限りだよ!」
「ほ、褒めてるのか……?」
「もちろん! それで、お願いがあるんだけど……」
「お、お願いだと……?」
「うん! 午後の調理実習でもし高火力が必要になったら、火を貸してくれないかな?」
本気の感嘆だった。
あれほどの炎を、ただ人を焼くためだけに使うなんてもったいない。
料理へ使えば、絶対に役に立つ。
「き、貴様舐めているのか……」
顔が困惑に染まったまま、呆然と僕を見つめている。
「俺の誇り高き爆炎を……調理の火として使うだと……?」
その姿を見て、入学式の記憶の一部がフラッシュバックした。
たしかあれは、神託の帽子の属性判定だったときのことだ。
「あ……! そうだそうだそうだ……! ヴィンセントくん!」
「な、なんだ……まだ何かあるのか……」
「思い出したよ! 君のこと!」
「何っ!? 本当か! やっと俺様のことを思い出したか!」
ヴィンセントの声色がそこで跳ねた。
思い出せない出来事、そのモヤモヤが晴れたかのような爽快感が僕を駆け巡る。
「うん! 脳みそがつるつるな人! そうでしょ!?」
思い出して、スッキリした。
喉に引っかかった魚の骨が取れたかのようなスッキリ感だった。
「つるつる? へ? 脳みそが、つるつる……? は?」
「そうそう。つるつるな脳みそを刻めって言ってなかった? だから、しっかり覚えておいたよ! ヴィンセントくんの脳みそはつるつる! 普通はしわしわなのに、すごいね!?」
「バカッ! あ、あれは、お前のそのつるつるな脳みそって意味で言ったんだ!」
「え、僕に……? 何言ってるの? 僕の脳みそはしわしわに決まってるじゃん……?」
「……だから、しわしわなお前の脳みそがつるつるだと言っているんだ!」
「……?」
なんかややこしいことを言ってる気がするな。
「ふーん、よくわからないけど、思い出せてよかったよ! 調理実習も楽しみにしてるね!」
「鴨葱……貴様……!」
また口がピクピクしてるヴィンセントの横で。
「――無様ね。せっかくやめなさいって忠告してあげたのに」
冷夏さんの声は、氷みたいに冷たかった。
「自分から手を出して、魔法を消されて、最後には料理の火力として評価されるなんて」
「れ、冷夏様……!」
「そして脳みそがつるつる。これに関しても否定できないわね」
「……れ、冷夏様……」
ヴィンセントの声が、干物のように、わかりやすく萎びた。
「行きましょう、焔乃士くん」
冷夏さんが僕の手を取る。
細い指。
ひんやりとした掌。
その感触に驚いて彼女の横顔を見ると、冷夏さんは僕と目を合わせないまま、足早に歩き始めていた。
僕は引かれるまま、混乱したヴィンセントを廊下へ残して、その場を離れる。
背後に残ったのは、怒鳴り声でも嘲笑でもない。
空振りしたプライドの熱が、ゆっくり冷めていくような沈黙だった。
◇
廊下の角をいくつか曲がったところで、冷夏さんはようやく僕の手を離した。
離れた指先が、さっきより少しだけ温かくなっていた気がする。
「……焔乃士くん」
「なに?」
「なんかウキウキしてないかしら?」
冷夏さんが横目で僕を見る。
言い方は冷たいけれど、怒っているわけではなさそうだ。むしろ、心底呆れているように見える。
「そりゃあ、お腹が空いてちゃ戦もできないからね。午後は実習。そのための腹ごしらえが目前に! そりゃあウキウキするってもんでしょ!」
「……あなた、今さっき炎で焼かれかけたのよ?」
「でも、焼かれなかったでしょ?」
「そういう問題じゃないわ」
「それに、午後は調理実習だよ。さっきの炎を見たら、早く料理がしたくなっちゃってさ」
「……本当に、どこまでもブレないのね」
「えへへ~。褒めないでよ~」
「褒めてないわよ」
冷夏さんは呆れ半分、感心半分といった顔で、小さく息を吐いた。
僕もウキウキしているということに関しては、似たような感触を抱いていた。
「でもさ」
だから、冷夏さんに素直に聞いた。
「冷夏さんも、ウキウキしてない?」
「……は? 私が? 何を言っているのよ……いつも通りだわ」
「ふーん。そうなんだ? 僕、冷夏さんと知り合ってまだ間もないけどさ。一緒に死闘を一緒に潜り抜けた仲だし、冷夏さんの表情の変化が前よりわかる気がするんだよね。筋肉の動きとかも、やっぱりいつもと違うように見えるんだけど――」
「筋肉って……あなた、本当に相変わらずね」
「でも冷夏さんがいつも通りって言うなら、いつも通りなんだろうな。僕のきのせいかも」
「そ、そうよ! 私があなたに乱されるわけないじゃない! いつも通りよ!」
冷夏さんの声が少し荒れる。
変なこと言っちゃったかな。
(うーん、でも考えても思い当たる節ないから、いっか。冷夏さんなら、何かあったら言ってくれるだろうし!)
『アハハ、ホノちゃん、ものすごい信頼感と能天気さだねえ』
(でしょ!? あんまり褒めないでよ!)
『これを褒め言葉って感じるんホノちゃん……確かに相変わらずって感じ』
ジュリアがまるで感心したような声を漏らした。
どう考えても、信頼とお気楽は誉め言葉なのに……。
(……だよね?)
『誰に聞いているんですか』
そうやって脳内で英雄たちといつもの戯れをしながらも、冷夏さんと目的地に向けて歩いていた。冷夏さんの歩くスピードが、いつもより少しだけ早足だった。
やがて辿り着いたのは、校舎の中央に位置する巨大な吹き抜けのホール——学生食堂だった。
重厚な両開きの扉を押し開けた瞬間、喧騒と一緒に、食欲を刺激する香りが一斉に押し寄せてくる。
焼きたてのパン。
じっくり煮込まれたスープ。
肉へ絡められた、香ばしいソース。
「うわぁ……。やっぱり学園の食堂、レベル高いなぁ……全部食べたい、うへへへへ」
思わず、素直な感嘆が口から漏れた。
昼食を抜くなんて選択肢はあり得ない。
「本当はすこしずつ、満遍なく、食べられるだけ食べたいんだけど……」
でも午後の調理実習では、完成した料理の試食も待っている。ここで満腹になるのは、料理人として大きな機会損失だ。
僕の舌は、精密なセンサーになる。そのセンサーの感度を鈍らせるわけにはいかない。
悩んだ末、僕は焼きたてのパンを二つと、ベイビーリーフのサラダ、小さなスープだけをトレーへ乗せた。
その隣で。
冷夏さんのトレーには、大皿の肉料理、山盛りの温野菜、パン、スープ、それから食後の焼き菓子まで、綺麗に並べられていた。
「冷夏さん、けっこう食べるんだね!」
肩が、ビクッと跳ねた。
「午前の演習で、魔力を消費したのよ。食べないと魔力が回復しないわ。だから私は食べるの。魔力回復のためにはこれだけ必要なの」
少しだけ、冷夏さんがいつもより早口だった。
「うんうん。動いたあとは、しっかり食べないとね。たくさん食べる冷夏さん、やっぱりいいな!」
「……」
「冷夏さん? どうかした?」
「な、なんでもないわよ」
なぜか冷夏さんは、少しだけ不満そうに顔を逸らした。
彼女が選んだのは、賑やかなホールの中でも比較的死角になる、窓際のコーナー席だった。
特に、さっきの「パートナー発言」を聞きつけた生徒たちから向けられる好奇の視線を避けるには、ちょうどいい場所だ。
二人で向かい合って座る。
冷夏さんはまず肉料理を一口だけ食べ、丁寧に咀嚼した。
それから周囲へ視線を巡らせ、聞き耳を立てている人間がいないことを確かめる。
カチャリ、と。
フォークが、皿の横へ置かれた。
その瞳から、先ほどまでの呆れた色が消える。
代わりに、研ぎ澄まされた光が宿った。
「さて……ランチを楽しむ前に、片づけておきましょうか」
声を潜め、冷夏さんが僕をまっすぐに見据える。
琥珀色の瞳の奥には、昼休みの喧騒とは正反対の、静かで重い緊張があった。
――今から話すのは、ただの噂話じゃない。
そう告げられている気がした。




