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蹄煮込み、経験を喰らう――六英雄が棲む酪農少年は、調理魔法で無双する  作者: 迦月 メイ
第三章:闇に灯る食卓

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第94話:爆炎のフィナンシェ

──【焔乃士視点】──


 午前の魔法演習を、屈辱のゼロ点で終えた。

 僕としたことが、なんということだ。


 だが、いつまでも引きずっていられない。

 ここからは切り替えが大事。


 何より今は――午前と午後を繋ぐ、学園生活でもっとも神聖な時間。


 すなわち、昼休みである。


 授業の終わりを告げる鐘が鳴った瞬間、生徒たちは一斉に立ち上がった。


 椅子の脚が床を擦る音。

 弁当箱を取り出す音。

 食堂へ向かう生徒たちの笑い声と足音。


 教室の喧騒が廊下へ溢れ、昼休み独特の熱気が、波みたいに広がっていく。


 午後には、待ちに待った調理実習がある。


 午前中に負った「ゼロ点」という心の傷はまだ癒えていないけれど、美味しいものを作って食べれば、たいていの悲しみはなんとかなる。


 そう信じて鞄を閉じ、席を立ったときだった。


焔乃士ほのじくん」


 教室の入り口から、よく通る凛とした声が届いた。


 そこに立っていたのは、冷夏さんだった。


 長い黒髪を背中へ流し、琥珀色の瞳をまっすぐ僕へ向けている。周囲の生徒たちが無意識に避けて通る中、彼女だけが、人の流れから切り離されたみたいに静かだった。


「どうしたの、冷夏さん?」


「……あの夜のことで、大事な話があるの」


 教室のざわめきが、一瞬だけ止まった。


 いや、完全に止まったわけじゃない。


 誰かが弁当箱を取り落とし、別の誰かが盛大に咳き込み、あちこちから椅子の軋む音がした。


「今、あの夜って……」

「西芳寺さんと、闇属性のあいつが……?」

「しかも大事な話……?」


 ひそひそと囁く声が、まったく隠しきれていない。


 ついさっきまで、僕を見る目には警戒や嫌悪が多く混じっていたはずなのに。今はそこへ、羨望と困惑、それから妙に生温かい何かまで加わっている。


(……なんで、みんな急にそんな目で見るの?)


『アハハ! ホノちゃん、それを真顔で考えられるの、逆にすごいよ!』


(え。竜息山のこと、みんなに聞かれたら困るから?)


『そこまで辿り着いて、どうして正解だけ綺麗に踏み外せるんですか……?』


 ミネルヴァの呆れた声を聞きながら、僕は逃げるように冷夏さんの隣へ並んだ。


「ここじゃ話しづらいわ。食堂へ行きましょう」


「うん。ちょうどお腹も空いてたし、最高だね」


「……あなたは本当にブレないわね。まあ、概ね同意するのだけれど」


 冷夏さんは小さく息を吐き、僕と一緒に廊下へ出た。


 ――だが。


 昼休みの廊下には、僕らを待ち構えていたように立つ男がいた。


 人の流れが、彼の周囲だけ不自然に左右へ分かれている。避けられているのは冷夏さんではない。


 赤い髪を後方へ撫でつけ、仕立てのいい制服を寸分の乱れもなく着こなした長身の男子生徒。


 歩み寄ってくるだけで、周囲の空気がじわりと熱を帯びた。本人が何もしていないのに、炎の魔力が薄く滲み出している。


「おい、鴨葱」


 男は僕の前で立ち止まり、鋭い目を細めた。


「なぜ貴様が、冷夏様と一緒にいる?」


「……えっと」


「忌み嫌われし闇属性、一週間も検査に費やした危険人物。その貴様が、冷夏様の隣を当然のように歩くな」


 見下すような声。

 燃えるような赤い髪。

 無駄に整った顔。


 どこかで見たような気はする。


 でも、記憶の棚をいくら探しても、名前が見つからない。


「……だれ、ですか?」


 廊下の空気が、はっきりと凍りついたのが僕にもわかった。


 周囲にいた生徒の息まで止まった気がする。


「……は?」


 赤髪の男が目を見開いた。


「初日に話しただろう!? この俺を忘れたというのか! 『爆炎の貴公子』ヴィンセント・ド・ラ・マルクだ!」


「ヴィンセント……」


 名前を聞いて、もう一度記憶の棚を探る。


 そこに残っていたのは、「どうでもいい情報」と書かれた箱と、ぼんやりした赤色だけだった。


「いや、その……どこかで何か言われた気はするんだけど。ごめん、思い出せなくて」


 本気だ。


 煽っているわけでも、わざとでもない。


『あら』


 ミネルヴァが、淡々と息をついた。


『もし物語であれば、描写ごとカットされている程度の印象だったということですわね。ご主人様……さすがにひどいですわ』


(だ、だってさ、僕が忘れても、みんなが覚えてくれてるじゃん……! そう考えると、ちょっと甘えちゃうのも仕方ないっていうか……)


『……怠惰じゃな。記憶の管理まで他人任せとは、しょうのない小僧じゃ』


『記憶領域を他者へ依存するのは、論理的に見ても非効率ですわ』


『アハハ! でも、最高にホノちゃんっぽいよね!』


『甘えは隙になる。戦場じゃ命取りだ、クソガキ』


『己の脳すら満足に使わぬか。さすが小市民。愚かだが……その無様さは、いっそ美しい。反吐が出るほどにな』


『忘却とは、実に甘美な毒だネエ。あアッ! ならば《毒を喰らわば皿まで(オーバードーズ)》ッ! すべてを忘れたキミは、いったい何者になってしまうのだろうネエ!』


 六方向から、一斉に刺された。


(……みんな、仲良く僕を責めるときだけ団結力すごくない?)


 最後のレクターは相変わらず気持ち悪いので、存在ごと聞かなかったことにする。


 現実へ意識を戻すと、ヴィンセントは怒りと屈辱で端正な顔を歪めていた。


 革手袋に包まれた両拳が、小刻みに震えている。彼の周囲だけ、陽炎みたいに空気が揺らめいて見えるのは、無意識に漏れ出した炎の魔力のせいだろう。


「……貴様……!」


 地の底から響くような声。


 魔力が熱へ変わり、今にも爆発しそうになった――その瞬間。


 冷夏さんが、すっと一歩前へ出た。

 細くしなやかな身体が、僕を庇うようにヴィンセントとの間へ収まる。


「ヴィンセント。どいて」


「冷夏様。しかし、俺は――」


「彼は、私の大事なパートナーよ」


 静かな、けれど有無を言わせない声だった。

 その一言で、廊下の空気がもう一段凍りついた。


「ぱ、パートナー!?」


 ヴィンセントだけじゃない。廊下を歩いていた生徒たちも、一斉に目を見開いた。


「あのちんちくりんが、冷夏様のパートナーだと!?」


「……え、僕のこと?」


 緊迫した空気の中、思わず自分の顔を指差してしまう。


 にしても、ちんちくりんって……。


(ん、これ褒めてないよね? あはは……)


 僕の間の抜けた反応を見て、冷夏さんが一瞬だけ振り返った。


 琥珀色の瞳と目が合う。


 透き通るように白い頬へ、ほんのりと朱が差した――ように見えた直後、彼女は逃げるみたいに顔を逸らした。


『一理ありますわね』


 ミネルヴァが冷静に頷く。


『現状、ご主人様は西芳寺冷夏様の目的を達成するために必要な協力者。論理的に定義すれば、「パートナー」という表現は妥当にして極めて正確ですわ』


(だよね? なのに、なんでみんな「パートナー」って言葉に、あんなに驚いてるの?)


『……それが理解できないからこそ、ご主人様なのでしょう。毒牙を持つものが鈍感なのも考え物ですわね。より一層けがらわしい』


(あれ。もしかして、今ディスられてる?)


『ホノちゃん残念だけれど、明確にディスられてるよ!』


 ジュリアの軽い声が脳内で跳ねる。

 その軽さが、僕の胸をより深く突き刺した。


 僕のメンタルは豆腐のように柔いのに、当の英雄たちは、我が物顔でそこにいるだけだ。

 

 ……うん、本日もいつも通りの小市民日和。最高だね。


「あは、あはは……あはははは! パートナーとは、とんだご冗談を! これは笑える!」


 ヴィンセントが声を荒らげる。


「この誇り高き爆炎の貴公子、ヴィンセント・ド・ラ・マルクが、かつてのフィアンセである橘ヴィオレッタ嬢との婚約を解消し、あなたとの未来を受け入れたというのに! 冷夏様は、そのちんちくりんをパートナーと仰るのですか!?」


(ちんちくりん、ちんちくりん……って。うるさいな。僕、そんなにちんちくりんに見える?)


 六英雄の誰からも、肯定の言葉はない。

 しかし、否定の言葉もなかった。

 それが悲しいとは、口が裂けても言いたくない。


「言葉尻を取らないで」


 冷夏さんは、ヴィンセントの熱を帯びた視線を、冷ややかに受け流した。


「協力関係という意味よ。彼には、私の課題を手伝ってもらっているの」


「協力関係……?」


「別におかしなことではないでしょう。学園を卒業するため。そのためにできることはすべき。何せここは、〈国立セントルファー魔法学園〉なのよ。油断すれば、待つのは死のみ。それとも、ヴィンセント。西芳寺家の次期当主である私の行動を、まさかあなたが縛るつもり?」


「め、滅相もありません! 俺があなたの意思を蔑ろにするなど……!」


 ヴィンセントの勢いが、ほんの少しだけ萎んだ。


「ただ俺は、冷夏様に相応しくない輩が近づくことを、純粋に心配しているのです」


 その姿がどこか犬っぽく見えたのは、僕の気のせいだろうか。


「わかっているわ。あなたとは、いずれ一緒になる。家同士の都合とはいえ、そういう約束でしょう。あなたが尽力するなら、それ相応の対価は支払う。二言はないわよ」


「そのとおりです! 何せ俺は、あなたのフィア――」


「ああっ!」


 そこでようやく、橙馬の言葉を思い出した。


 僕は手を叩き、ヴィンセントの言葉を明るく遮った。


「思い出した! 橙馬が言ってたよ。ヴィンセント、君は冷夏さんの――」


「そうだ。俺こそが冷夏様の――」


「フィナンシェなんだね?」


「そうそう! 外は香ばしく、中には焦がしバターとアーモンドの豊かな香り! 優雅な午後の紅茶へ添える焼き菓子として最高の――って、違う! フィアンセだ!」


「なんて? フィナーレ?」


「卒業の日、最上級魔導師となった俺は大勢の庶民に見守られ、栄光の門出(フィナーレ)を祝福されながら涙した――って、だから違う! フィアンセだ、鴨葱! 人の大事な肩書きで遊ぶな!」


(なら、無理に全部ノらなければいいのに)


「ええ。フィアンセよ」


 冷夏さんが、ヴィンセントの横で短く答えた。


「不本意極まりないし、一生消えない汚点みたいで悔しいけれど、家同士の決定である以上、今は認めるしかないわ」


「言い方すごいね?」


 あまりにも刺々しく、未練の欠片もない言い草に、僕は素で驚いてしまった。


「ハッ、なんだ鴨葱。西芳寺家とラ・マルク家の結びつきが羨ましいのか? 身分違いの恋に破れた気分はどう――って、冷夏様!? 今、明確に『悔しい』と聞こえたのですが!? しかも汚点とまでおっしゃいませんでしたか!?」


 勝ち誇った笑みを浮かべかけたヴィンセントの顔が、一瞬で引きつった。


「ええ。間違いなく言ったわ」


 冷夏さんがきっぱりと断言する。

 

 それを聞いたヴィンセントの表情がさらに固まる。しばらく、顔がピクピクしていたが、その引きつった顔をごまかすように、今度は僕の顔を睨み始めた。


「これもぜんぶ鴨葱……貴様のせいだ。調子に乗るなよ」


 ドクン、と。


 廊下の空気が、異様な質量を持って膨張した。


「貴様は俺を忘れ、俺と冷夏様の神聖な関係を菓子や門出と同列に扱い……あまつさえ、闇属性ごときが冷夏様の隣で、何も知らないくせに、吞気な顔をしている……!」


 熱が視界を歪ませる。


 焼けた空気の匂いが、廊下へ満ちていく。


 ヴィンセントの足元から、赤い魔力が陽炎となって立ち上った。

 周囲の生徒たちがヴィンセントから離れる。


 僕も思わず、ヴィンセントからバックステップをして距離を取った。


 ――何か、来る。


「俺たちの絆を――愚弄するなッ!」


「ヴィンセント、やめなさい!」


 冷夏さんの制止より早く、ヴィンセントが片腕を突き出した。


「俺の存在をその身に刻め――ッ! 《爆炎球(エクスプロージョン)》ッ!」


 掌の前へ、高密度の灼熱が膨れ上がる。


 赤。橙。

 その中心だけが、白く眩しい。


 次の瞬間、火球は放たれた。


 一直線。

 狙いは、僕の胸。


 太陽をそのまま切り取ったような炎の塊が、廊下の空気を引き裂きながら、一瞬で距離を潰してくる。


 熱だけが先に届く。


 皮膚がちりつき、前髪の先が焦げる未来が、やけに鮮明に見えた。


(うわ、危ない……!)


 考えるより先に、身体が動いた。


 コンロの火を止めるときと同じ感覚で、迫る火球の一歩手前へ掌をかざす。


「《成分分離(セパレート)》!」


 狙うのは、ヴィンセントの魔力じゃない。


 火が燃え続けるために必要な成分――酸素。

 分離する範囲を、火球の進行方向へ極限まで絞る。


 空気の中から酸素だけを選び取り、火球を避けるように左右へ引き剥がした。


 耳の奥が、きゅっと鳴る。


 ――ボッ。


 気の抜けた音がした。


 巨大な火球は、燃料を失ったランプみたいに形を崩した。

 赤い炎が一瞬で萎み、不完全燃焼の黒煙だけを残して霧散する。


 生ぬるい風が、ヴィンセントの赤い髪を撫でた。


「……は?」


 ヴィンセントが、差し出した手をそのままに固まる。


「消えた……? は? 消えた、だと……?」


 誰も声を出せない。


 廊下は水を打ったように静まり返り、サクラチップとはまるで違う、焦げた匂いの後味だけが残った。


(ふぅ……危なかった。あと少し遅れてたら、前髪が焦げてたな)


『燃焼条件そのものを分けたか。悪くない判断じゃが、職人仕事としては些か粗いのう』


『ご主人様、心拍数が急激に上昇しています。今の成功には、少なからず運も味方しましたわ』


『ていうかホノちゃん、《真空処理(スーヴィド)》の方が早くなかった?』


(あっ)


 その手があった。

 《真空処理(スーヴィド)》なら、そもそも酸素も存在できない。火はおのずと消える。


『アハハ! 今気づいた顔してるぅ!』


(しょうがないじゃん! とっさに思いついたのが《成分分離(セパレート)》だったんだから!)


 脳内から飛んでくる小言を聞き流しながら、僕はまた固まっていたヴィンセントへ一歩近づいた。


 あの火球が、怖くなかったわけじゃない。


 でも、それ以上に――もったいないと思ったんだ。


 だから僕は、ヴィンセントの肩に手をポンと置くと――


「ヴィンセントくん。さっきの魔法、すごい熱量だったね」


 思わずニコニコと話しかけてしまった。


「な……貴様、何を……」


「あれだけの高火力があれば、中華鍋を一気に熱せられるよ!」


「……は? 中華鍋……? な、何の話だ……」


「パラッパラの炒飯が、ものすごい速さで作れるじゃん! 表面は香ばしく、中はふっくら。僕の調理魔法(クック)でも再現できない高火力……まったく羨ましい限りだよ!」 


「ほ、褒めてるのか……?」


「もちろん! それで、お願いがあるんだけど……」


「お、お願いだと……?」 


「うん! 午後の調理実習でもし高火力が必要になったら、火を貸してくれないかな?」


 本気の感嘆だった。


 あれほどの炎を、ただ人を焼くためだけに使うなんてもったいない。

 料理へ使えば、絶対に役に立つ。


「き、貴様舐めているのか……」


 顔が困惑に染まったまま、呆然と僕を見つめている。


「俺の誇り高き爆炎を……調理の火として使うだと……?」


 その姿を見て、入学式の記憶の一部がフラッシュバックした。

 たしかあれは、神託の帽子の属性判定だったときのことだ。


「あ……! そうだそうだそうだ……! ヴィンセントくん!」


「な、なんだ……まだ何かあるのか……」


「思い出したよ! 君のこと!」


「何っ!? 本当か! やっと俺様のことを思い出したか!」


 ヴィンセントの声色がそこで跳ねた。

 

 思い出せない出来事、そのモヤモヤが晴れたかのような爽快感が僕を駆け巡る。


「うん! 脳みそがつるつるな人! そうでしょ!?」


 思い出して、スッキリした。

 喉に引っかかった魚の骨が取れたかのようなスッキリ感だった。


「つるつる? へ? 脳みそが、つるつる……? は?」


「そうそう。つるつるな脳みそを刻めって言ってなかった? だから、しっかり覚えておいたよ! ヴィンセントくんの脳みそはつるつる! 普通はしわしわなのに、すごいね!?」


「バカッ! あ、あれは、お前のそのつるつるな脳みそって意味で言ったんだ!」


「え、僕に……? 何言ってるの? 僕の脳みそはしわしわに決まってるじゃん……?」


「……だから、しわしわなお前の脳みそがつるつるだと言っているんだ!」


「……?」


 なんかややこしいことを言ってる気がするな。


「ふーん、よくわからないけど、思い出せてよかったよ! 調理実習も楽しみにしてるね!」


「鴨葱……貴様……!」


 また口がピクピクしてるヴィンセントの横で。


「――無様ね。せっかくやめなさいって忠告してあげたのに」


 冷夏さんの声は、氷みたいに冷たかった。


「自分から手を出して、魔法を消されて、最後には料理の火力として評価されるなんて」


「れ、冷夏様……!」


「そして脳みそがつるつる。これに関しても否定できないわね」


「……れ、冷夏様……」


 ヴィンセントの声が、干物のように、わかりやすく萎びた。


「行きましょう、焔乃士くん」


 冷夏さんが僕の手を取る。


 細い指。

 ひんやりとした掌。


 その感触に驚いて彼女の横顔を見ると、冷夏さんは僕と目を合わせないまま、足早に歩き始めていた。


 僕は引かれるまま、混乱したヴィンセントを廊下へ残して、その場を離れる。


 背後に残ったのは、怒鳴り声でも嘲笑でもない。


 空振りしたプライドの熱が、ゆっくり冷めていくような沈黙だった。


 ◇


 廊下の角をいくつか曲がったところで、冷夏さんはようやく僕の手を離した。


 離れた指先が、さっきより少しだけ温かくなっていた気がする。


「……焔乃士くん」


「なに?」


「なんかウキウキしてないかしら?」


 冷夏さんが横目で僕を見る。


 言い方は冷たいけれど、怒っているわけではなさそうだ。むしろ、心底呆れているように見える。


「そりゃあ、お腹が空いてちゃいくさもできないからね。午後は実習。そのための腹ごしらえが目前に! そりゃあウキウキするってもんでしょ!」


「……あなた、今さっき炎で焼かれかけたのよ?」


「でも、焼かれなかったでしょ?」


「そういう問題じゃないわ」


「それに、午後は調理実習だよ。さっきの炎を見たら、早く料理がしたくなっちゃってさ」


「……本当に、どこまでもブレないのね」


「えへへ~。褒めないでよ~」


「褒めてないわよ」


 冷夏さんは呆れ半分、感心半分といった顔で、小さく息を吐いた。


 僕もウキウキしているということに関しては、似たような感触を抱いていた。


「でもさ」


 だから、冷夏さんに素直に聞いた。


「冷夏さんも、ウキウキしてない?」


「……は? 私が? 何を言っているのよ……いつも通りだわ」


「ふーん。そうなんだ? 僕、冷夏さんと知り合ってまだ間もないけどさ。一緒に死闘を一緒に潜り抜けた仲だし、冷夏さんの表情の変化が前よりわかる気がするんだよね。筋肉の動きとかも、やっぱりいつもと違うように見えるんだけど――」


「筋肉って……あなた、本当に相変わらずね」


「でも冷夏さんがいつも通りって言うなら、いつも通りなんだろうな。僕のきのせいかも」


「そ、そうよ! 私があなたに乱されるわけないじゃない! いつも通りよ!」


 冷夏さんの声が少し荒れる。

 変なこと言っちゃったかな。


(うーん、でも考えても思い当たる節ないから、いっか。冷夏さんなら、何かあったら言ってくれるだろうし!)


『アハハ、ホノちゃん、ものすごい信頼感と能天気さだねえ』


(でしょ!? あんまり褒めないでよ!)


『これを褒め言葉って感じるんホノちゃん……確かに相変わらずって感じ』


 ジュリアがまるで感心したような声を漏らした。

 どう考えても、信頼とお気楽は誉め言葉なのに……。


(……だよね?)


『誰に聞いているんですか』


 そうやって脳内で英雄たちといつもの戯れをしながらも、冷夏さんと目的地に向けて歩いていた。冷夏さんの歩くスピードが、いつもより少しだけ早足だった。


 やがて辿り着いたのは、校舎の中央に位置する巨大な吹き抜けのホール——学生食堂だった。


 重厚な両開きの扉を押し開けた瞬間、喧騒と一緒に、食欲を刺激する香りが一斉に押し寄せてくる。


 焼きたてのパン。

 じっくり煮込まれたスープ。

 肉へ絡められた、香ばしいソース。


「うわぁ……。やっぱり学園の食堂、レベル高いなぁ……全部食べたい、うへへへへ」


 思わず、素直な感嘆が口から漏れた。


 昼食を抜くなんて選択肢はあり得ない。


「本当はすこしずつ、満遍まんべんなく、食べられるだけ食べたいんだけど……」


 でも午後の調理実習では、完成した料理の試食も待っている。ここで満腹になるのは、料理人として大きな機会損失だ。


 僕の舌は、精密なセンサーになる。そのセンサーの感度を鈍らせるわけにはいかない。


 悩んだ末、僕は焼きたてのパンを二つと、ベイビーリーフのサラダ、小さなスープだけをトレーへ乗せた。


 その隣で。


 冷夏さんのトレーには、大皿の肉料理、山盛りの温野菜、パン、スープ、それから食後の焼き菓子まで、綺麗に並べられていた。


「冷夏さん、けっこう食べるんだね!」


 肩が、ビクッと跳ねた。


「午前の演習で、魔力を消費したのよ。食べないと魔力が回復しないわ。だから私は食べるの。魔力回復のためにはこれだけ必要なの」


 少しだけ、冷夏さんがいつもより早口だった。


「うんうん。動いたあとは、しっかり食べないとね。たくさん食べる冷夏さん、やっぱりいいな!」


「……」


「冷夏さん? どうかした?」


「な、なんでもないわよ」


 なぜか冷夏さんは、少しだけ不満そうに顔を逸らした。


 彼女が選んだのは、賑やかなホールの中でも比較的死角になる、窓際のコーナー席だった。


 特に、さっきの「パートナー発言」を聞きつけた生徒たちから向けられる好奇の視線を避けるには、ちょうどいい場所だ。


 二人で向かい合って座る。


 冷夏さんはまず肉料理を一口だけ食べ、丁寧に咀嚼した。


 それから周囲へ視線を巡らせ、聞き耳を立てている人間がいないことを確かめる。


 カチャリ、と。

 フォークが、皿の横へ置かれた。


 その瞳から、先ほどまでの呆れた色が消える。

 代わりに、研ぎ澄まされた光が宿った。


「さて……ランチを楽しむ前に、片づけておきましょうか」


 声を潜め、冷夏さんが僕をまっすぐに見据える。


 琥珀色の瞳の奥には、昼休みの喧騒とは正反対の、静かで重い緊張があった。


 ――今から話すのは、ただの噂話じゃない。


 そう告げられている気がした。

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