第93話:魔眼にも視えないもの
──【冷夏視点】──
(……また、あんなデタラメを)
西芳寺冷夏は、煙の残る演習場で、ひとり鴨葱焔乃士を見つめていた。
黒い煙は薄い膜となって視界へまとわりつき、呼吸をするたび、甘い燻香が喉の奥へ残る。
(しかも、美味しそうな匂いなのが、なおさら腹立たしいわね)
垂れそうになった唾液を、誰にも気づかれないよう飲み込む。
それから冷夏は、意識を瞳へ集中させた。
琥珀色の瞳の奥で、青白い光が点る。
西芳寺家に代々伝わる魔導体質――《魔色魔眼》。
他者の魔導回路と、そこを流れる魔力の性質を「色」として視認する眼。
煙の向こうにいる焔乃士の輪郭が薄れ、その代わりに、脳から伸びる魔力の線が鮮明に浮かび上がる。
通常、人間が持つ魔導回路は三本。
先ほどラファエル教官も、そう説明した。
けれど、焔乃士の脳から伸びている線は――十本。
本来のものと思われる三本。
それとは明らかに性質の異なる、六本の太い回路。それぞれが別々の色を持ち、まるで異なる人間の魔力を、無理やりひとつの器へ収めたように蠢いている。
そして、最後の一本。
すべての色のさらに奥。
光さえ呑み込む深淵のような、漆黒の回路。
(……やっぱり、あの黒だけは見たくない)
直視し続ければ、こちらの意識まで引きずり込まれるような錯覚を覚える。
あの一本が何なのか、冷夏にもわからない。
ただ、六本とも、元から存在する三本とも違う。
もっと深い場所に根を張り、静かに何かを待っているように見えた。
十本の回路を流れる色は、互いに絡み合い、溶け合っている。
複数の色が混ざり、最後には極太の「黒」となって、焔乃士の全身を巡っていた。
(入学式の《神託の帽子》は、この混ざり合った色を見て、彼を闇属性と判定したのね)
正確には、誤判定。
けれど――ある意味では、正解なのかもしれない。
あれは闇属性なんて単純なものではない。
もっと混沌として、もっと説明のつかない何かだ。
冷夏は視線をわずかに横へ動かした。
煙が噴き出した瞬間、ヴィオレッタの扇子を握る指へ、異様なほど強く力が入ったこと。
ほぼ同時に、橙馬がヴィオレッタの前へ半歩だけ移動したこと。
どちらも、ほんの一瞬の出来事だった。
煙に驚いた。それだけだと言われれば、そう見えなくもない。
兄が妹を咄嗟に庇う。それ自体は、なんの不思議もない光景だ。
――あの二人が、公の場で頑なに他人を演じてさえいなければ。
けれど、冷夏の直感は、それだけではないと告げている。
(怪しい人間ばかりね、この学園は)
もちろん、その筆頭は――。
「ゼロ点……ゼロ点……。目的はだいたい達成したのに、ゼロ点……」
サクラチップの残骸を拾いながら、心底納得がいかなそうに呟いている少年だ。
冷夏の眼は、彼を「異常」だと告げている。
得体が知れない。
危険かもしれない。
完全に信用するには、わからないことが多すぎる。
それでも。
竜息山で、冷夏は彼の行動を見た。
恐怖を抱えたまま前へ出たこと。
自分の欲望には素直なこと。
命を奪う覚悟を問うたこと。
倒れそうになっても、得た命を無駄にしなかったこと。
彼の内側に何がいるのかは知らない。
けれど少なくとも――あの場所で彼が選んだ行動まで、偽物だったとは思わない。
(瑠衣のためにも、彼には協力してもらう)
学園の奥に何が潜んでいるのか。
ヴィオレッタが、なぜ焔乃士のことを「牛好きの少年」と呼び、竜息山へ向かうよう仕向けたのか。
あの場にいた一人の少女と一人の女、瑠衣にどんな関係があるのか。
わからないことばかりだ。
ならば、学園の闇には――それ以上に得体の知れない深淵をぶつけてやればいい。
そう考えた、そのとき。
ぐぅ~~。
冷夏の腹が、情けない音を立てた。
燻製騒ぎで誰にも聞こえなかったはずなのに、自分の耳にはやけに鮮明だった。
(ち、違うわ)
誰にも聞かれていないのに、心の中で反射的に弁明する。
けれど、鼻をくすぐるサクラチップの燻香は、容赦なくあの夜の記憶を連れてくる。
焚き火の上で、脂を落としながら焼かれていたバイソン肉。
香ばしく焼けた表面へ歯を立てれば、中にはしっとりとした肉の旨味が残っていた。
それから、炊きたての白いご飯。
その上に乗せられたバイソン肉と、濃く艶めく卵黄。最後に振りかけられた、ピンクワサビ入りの万能魔草塩。
箸で一気にかき込んだ瞬間、肉の脂と卵黄の甘みが、熱いご飯の上で溶け合った。
さらに。
口の中でふやかし、噛みしめるほど、じゅわじゅわと旨味が溢れ出したハクゲツのジャーキー。
(……っ!)
思い出しただけで、口の中に唾液が溜まる。
(これは決して、焔乃士くんのご飯が食べたいわけじゃない。ただ、美味しいものを美味しくいただくのは、食材と料理人に対する最低限の礼儀であって……)
あの夜。
危険な禁足地で冷え切っていた身体を、焔乃士の起こした火が温めた。
空腹で鈍っていた思考を、彼の料理がもう一度動かした。
怖さに呑まれかけていた冷夏を、食べることで「生きられる状態」へ戻してくれた。
彼が何者なのかは、まだわからない。
それでも、あのとき受け取った温かさまで、偽物だったとは思いたくなかった。
(ハッ!? 何を考えているの、冷夏! 今は瑠衣のことを考えなさい!)
自分を叱責するように、片腕を強く掴む。
あの少年を利用する前提で接したのだ。
それもこれもすべては、瑠衣のため。
そのはずなのに。
(冷静になりなさい! 冷夏!)
そもそもあれは、短い時間のできごとだ。
あの少年と過ごした時間は半日もない。
なのに。
……なのに。
(なんでこんなにも私の記憶にこびりついてるのよ……!)
今日顔を見て、あらためて揺さぶられているのがわかった。
揺れているのではない。
『氷の令嬢』が揺さぶられているのだ。
(この私が揺さぶられるだなんて!)
あの少年と会って、はじめて味わう――胸の高鳴り。
戦闘経験とも緊張経験とも外交とも違う、この緊張感に似た何か。
確かに疼く、この胸の感触はなんなのだろう。
その感触を、冷夏は人生でまだ味わったことがなかった。
(わからない……わからないわ……!)
ゆえに、その感触を名付けることはできない。
冷夏には、まだその術はない。
まだ、その選択肢はない。
ただ、不愉快なことはわかる。
だが、不快ではないこともわかる。
それはむしろ――。
『どうしてほしいかだけは、聞くのが僕の信条なんだ』
『本音を聞かせて』
『冷夏さん、僕のそばから絶対に離れないで』
『氷の令嬢って、本当に冷夏さんにぴったしの二つ名だよね。強くて、そして……氷のように繊細だから』
『氷は必要なんだよ。生きるためには必要不可欠なんだ』
気にしないように気にしないように、と。
意識すれば意識するほど。
いくつもの言葉が、まるで大切なものかのように冷夏の中で巡っていく。
まるでそんな冷夏を肯定するかのように、鼻から入り込んだ燻香は、容赦なく空腹を刺激した。
空腹を感じるたびに、あの少年を思い出す自分がいる。
その事実を冷夏は、ずっと知らないフリをした。
だが、それもそろそろ限界に近かった。
ぐぅ~~~。
情けなく、お腹がまた音を立てる。
冷夏は、どうしようもなく、その少年が作るご飯を欲するようになっていた。
だが、その欲求は決してその少年そのものには結び付けないように――
「……ご飯は別。ご飯は別……ご飯は仕方ない……。ご飯に罪はないもの……」
気づけば、口が勝手に言い訳を繰り返していた。
少し離れた場所で、焔乃士が残ったサクラチップを拾い終え、立ち上がる。
その姿を見て、冷夏はどうしようもなく理不尽な苛立ちとともに、心の中で叫んだ。
(これもあれも――美味しすぎるご飯を作る、焔乃士くんのせいよっ!)
それはもう、敗北宣言とほとんど同じだった。




