第92話:おいしいゼロ点
この学園のカリキュラムは、「午前の部」と「午後の部」——巨大な二つの歯車で回っている。
今日の午前は魔法学。しかも、さっそく課題の成果を見せる実技演習らしい。
少しややこしいのは、授業の質と安全性を確保するため、ひとつのクラスを午前と午後で半分ずつに分ける場合があることだ。同じ教官でも面倒を見られる人数が減り、演習設備も混雑しない。
理屈はわかる。わかるんだけど、一週間も検査で出遅れた僕にとって、ただでさえわからない予定が、さらに読みにくくなるだけだった。
ただ——好物を最後まで取っておく僕にとって、午後に「調理実習」が待っている時間割は悪くない。
ここを乗り越えれば、本日のメインディッシュである調理実習へ辿り着ける。フルコースで言うなら、午前の魔法演習は空腹を煽るための前菜。
……そう考えれば、多少の苦味だって楽しめるはずだ。
演習場へ足を踏み入れた瞬間、その前向きな見通しは、乾いた砂と一緒に踏み潰された。
広い石造りの演習場には、朝の冷気がまだ残っている。足元の砂は救いようがないほど乾ききっていて、一歩踏み出すたび、靴底へまとわりつくような不快な重みが返ってきた。
僕らと同じ午前組に振り分けられた生徒たちは、見えない号令に従うように、すでに決められた位置へ並び始めている。
橙馬。ヴィオレッタさんとアメリアさん。冷夏さん。椿くん。ヴォルグ。それから、さっき教室で何人もの動きを糸で止めていた、ミラという少女。
ほかにも数人。
教科書や荷物を鞄へ収める動作にすら無駄がない。僕だけが初めて来た場所で、周囲はすでに何度も同じ訓練を繰り返してきたように見えた。
——その、あまりにも統率された流れの中で。
何人かの生徒が、小さな紙包みから白い錠剤を取り出した。
口へ放り込み、水筒の水で流し込む。
呼吸を整えるみたいに。
解けた靴紐を結び直すみたいに。
そこに疑問を挟む余地なんて、最初から存在しないみたいに。
(……薬?)
喉の奥を、冷たい指でなぞられたような悪寒が走った。
牛舎の濃厚な匂いの中で、エレナさんが飲み下した白い錠剤。
結局、あれが何のための薬なのか、聞けずじまいだった。なのに、あの時とよく似た無機質な白さだけが、やけに鮮明に網膜へ焼き付く。
細長い形状がまったく一緒なのだ。
僕の視線に気づいたのか、隣にいた橙馬が首を傾げた。
「どうした、ホノジ。あれが珍しいか?」
「……あれ、何の薬か知ってる?」
「んあ? 詳しくは知らねえけど、ああいう白いの飲んでるやつなら、チョイチョイいるぜ。魔力の調子を整える薬みたいなもんじゃねえの?」
「魔力の調子……」
「俺っちは飲んでねえから、よく知らねえけどな」
「魔導回路の発達を補助する薬やったと思うで」
反対側から、椿くんが会話へ入ってきた。
太陽と月のピアスを揺らしながら、白い錠剤を飲み終えた生徒たちへ目を向けている。
「椿くんは知ってるの?」
「仲間にも飲んどる人がおるから、用途だけはな。生まれつき回路が弱い人や、発達が不安定な人を補助するための薬——ぐらいの認識や。ボクも詳しい仕組みまでは知らへんよ」
「そうなんだ……」
魔導回路の発達を補助する薬。
それなら、どうしてエレナさんが同じような錠剤を飲んでいたのだろう。
もう成長期でもない彼女が、どうして——。
そのとき。
演習場へ、硬い靴音が入ってきた。
カツ、カツ、と。
一定の歩幅。
一切の迷いがない音。
まだ姿が見えていないうちから、生徒たちの姿勢が次々と正されていく。
「整列」
低い声が、演習場の空気を一息で支配した。
周囲を射貫く冷徹な三白眼。背筋だけでなく、制服の襟や手袋の端に至るまで、一分の隙もない。
厳格という概念へ人間の肉体を与えたなら、きっとこんな姿になる。
——セシル先生が言っていた、ラファエル教官だ。
教官の視線が、並んだ生徒たちを端から順に値踏みしていく。
「いいか。魔法の基礎とは——すなわち、魔導回路の精密制御に集約される!」
鼓膜を震わせる怒声が石壁へぶつかり、幾重にも反響した。
「人間には原則として、心臓から伸びる三本の魔導回路が存在する。それらが大気中を漂う魔力を取り込み、各々の性質に応じて染色されることで、個人の属性が決定される」
三本。
教官が口にした数字が、なぜか少しだけ耳に残った。
「魔法を発動する工程は、大きく三段階だ。第一に《術式刻印》。扱う魔法の術式を回路へ正確に焼き付ける。第二に《詠唱圧縮》。刻印された術式を呼び起こし、処理速度を引き上げる。そして第三に、出力と精度の調整だ」
ラファエル教官は、手袋に包まれた指先をわずかに上げた。
「どれほど魔力容量が大きくとも、回路の制御が甘ければ無駄に垂れ流すだけだ。貯水槽が巨大でも、蛇口が壊れていれば水は失われる。出力だけの魔法に価値はない。精度だけで戦況を動かせない魔法にも価値はない」
教官の三白眼が、僕らを順に刺し貫く。
「本日の課題は、各自の属性に沿って指定した基礎魔法の行使だ。事前に申請した者はその術式を、申請のなかった者には、こちらで選定した最も基礎的な術式を割り振っている」
そこで一度、言葉が切れた。
「貴様らが魔法を使えることなど、評価の前提にすらならん。術式、速度、出力、精度、魔力効率。そのすべてを採点する。理解したな?」
「「「はい!」」」
揃った返事が演習場を震わせる。
(……ラファエル教官の話、たしかミネルヴァの講義でも聞いたな)
最初に聞いたときは、ほとんど呪文だった。
けれど、魔力を「厳選した食材」、《術式刻印》を「レシピと緻密な火入れ」、《詠唱圧縮》を「注文から提供までの手際」として考えるようになってから、驚くほど腑に落ちた。
最後の精度調整は、塩分や香りを整える仕上げ。
——なんだ。結局のところ、魔法なんて料理と大差ない。理屈だって、よくできたレシピみたいなものだ。
『……レシピ、ですか』
ミネルヴァの声が、異様に冷たい。
(うん。ミネルヴァの説明、すごくわかりやすかったよ!)
『私が知恵を絞り、順序立てて、基礎理論から必死に組み上げた講義は、ご主人様にとって料理へ振りかける隠し味にすぎなかったと』
(えっ。いやいや、そういう意味じゃ——)
『うわ〜。あのルヴァ姉をここまで凹ませるなんて。ホノちゃんって、やっぱり天然の劇物だよねぇ』
ジュリアが、脳内の片隅で楽しそうに笑っている。
『カカカッ! ミネルヴァよ、諦めろ! この小僧の情熱は学者のそれではなく、純然たる職人の魂じゃ。すべてを己の仕事へ置き換えるのも、ワイと同じということよ!』
『ガンテツ。慰めているつもりなら、あなたも大概ですわよ』
『……あの教官、尊大な口を叩くほどの実力を有しているのだろうな。無詠唱程度、赤子の手をひねるより容易くこなしてもらわねば、聞く価値もない』
ヴァンデルは、教官の説明より、教官自身の値踏みに忙しいらしい。
『チッ。世界一退屈な授業が始まりやがった。身体に通して、殴って覚えりゃ済む話だろ。オレは寝るぞ』
『オーガ殿ッ! その身体強化における狂気的な出力も、すべては魔導回路が生んだ奇跡ッ! ならばその回路を一度、このボクに——あアッ! 《毒を喰らわば皿まで》ッ!』
『寄るな気持ち悪ィッ!』
『あアッ! もっと強く拒絶してくれたまエッ!』
うん。
今日も僕の脳内は、絶賛定員オーバー。
安定の平常運転だ。
「では始める。橘。前へ」
「おう! トップバッターは俺っちか!」
橙馬は軽く両肩を回しながら、指定された位置へ進み出た。
その立ち姿は普段の騒がしさに反して、妙に自然だった。
重心を落としすぎない。
肩に余計な力を入れない。
風が吹く前から、その流れへ身体を合わせているように見える。
「課題は《風刃》。始めろ」
「りょーかいっ!」
橙馬が片腕を振り抜いた。
「《風刃》!」
鋭い風切り音が走る。
目にはほとんど見えない風の刃が砂を巻き上げ、標的のスライム人形を斜めに両断した。切断された上半分が、わずかに遅れて地面へ落ちる。
「よっしゃ! 決まったぁ!」
「キレが甘い。七十二点」
「そんなぁ〜、師匠!? 今のは絶対もっと手応えあったって!」
「貴様の師になった覚えはない。呼称は『先生』、もしくは『教官』だ。不遜につき、六十九点」
「ちょっ、それはさすがに職権乱用じゃないっすか!?」
「無駄口。六十六点」
数字だけが、恐ろしい速度で削り取られていく。
橙馬は即座に背筋を伸ばし、地面と直角になるほど深く頭を下げた。
「教官! 身に余る光栄な評価、誠にありがとうございますッ!」
「遅い。戻れ」
「はいッ!」
橙馬は模範兵みたいな足取りで戻ってきた。
「……危なかったぜ。あと少し遅かったら、六十点を切ってた」
「最初から余計なこと言わなければ、七十二点だったんじゃない?」
「ホノジ。終わったあとなら、誰だって正解を言えるんだぜ」
「始まる前からわかる正解だったと思うけど」
「次。橘ヴィオレッタ」
「オーホッホ! ようやく、このわたくしが高潔なる魔法で場を支配する番が来ましたのね!」
えんじ色の扇子が、鮮やかに開かれる。
「さすがヴィオレッタ様! 立っているだけで、すでに百点満点ですわ!」
後ろでアメリアさんが両手を組み、誰よりも目を輝かせている。
「採点するのは貴様ではない。私語を慎め」
「ひゃいっ!」
アメリアさんが一瞬で小さくなった。
ヴィオレッタさんは扇子で口元を隠したまま、標的すら置かれていない演習場の空白へ進み出る。
「課題は《白帳》。指定範囲の全域へ霧を展開しろ。始めろ」
「オーホッホッホッホ……オーホッ、げほッ! げほげほッ! うぅ~~っ!」
「むせるな。早くやれ」
(いや、「むせるな」は厳しすぎない? 生理現象だよ?)
「い、いいんですの? わたくしがひとたび扇を振るえば、この場のすべてが、わたくしの色へ染まってしまいますわよ?」
「無駄口。マイナス三点」
「……ラ、ラファエル教官? よろしいんですの、あなた。我が橘家を敵に回すということは——」
「脅迫。マイナス五点」
「鬼教官っ!?」
「減らず口。マイナス四点」
教官の表情は、岩みたいに動かない。
対照的に、ヴィオレッタさんの肩だけが小刻みに跳ねている。扇子の向こうで何度か口を開閉させてから、とうとう観念したように深く息を吸った。
「や、やりますわよっ! すべてわたくしが間違っておりましたわ!」
黒いレースの手袋に包まれた指先が、えんじ色の扇子を優雅に構える。
そして——ただ一度。
ひらり、と。
ヴィオレッタさんが、空気を撫でるように扇をひと扇ぎした。
「——《白帳》」
扇の軌跡から、乳白色の霧が溢れ出した。
最初は細く、柔らかな一筋。
けれど、それは瞬く間に幾重もの白い波となって足元を滑り、演習場の隅々へ広がっていく。
冷えた霧が靴を包み、膝を越え、やがて胸元まで満ちていった。
視界が、白く染まる。
数歩先に立つ生徒の輪郭が淡く滲み、さらに向こう側の姿は、乳白色の帳の中へ完全に呑み込まれていた。
それと同時に、清潔で甘やかなミルク石鹸の香りが、ふわりと鼻をくすぐる。
広い演習場を覆い尽くすほどの霧。
それなのに濃度には一切のムラがなく、指定範囲の境界線を一歩越えた場所には、わずかな霧さえ漏れ出していない。
物を壊す魔法ではない。
ただ、扇をひと扇ぎするだけで、広範囲の視界と空間を乳白色の霧で覆い隠す。
ヴィオレッタさんの言葉どおり、演習場そのものが、彼女の色へ塗り替えられていた。
「——よろしい。展開速度、濃度、範囲制御。いずれも見事だ」
その一言で、ヴィオレッタさんの肩から力が抜けた。
「技術点のみなら九十二点。累積のマイナス十二点を適用し、八十点とする」
「そ、そんな……わたくしの究極完全体な魔法が……!」
「まだ減点されたいか?」
「八十点、恐悦至極にございますわ!」
扇子を閉じ、ヴィオレッタさんがものすごい勢いで頭を下げた。
(……他人のはずなのに、どうしてここまで橙馬と同じ匂いがするんだろう)
『アハハ! 他人って言い張るには、あの二人、ノリが似すぎじゃない!? 血が繋がってるって言われた方が、よっぽど納得できるよ!』
(やっぱり? でも橙馬は、関係ないって言ってたしなぁ……)
戻ってきたヴィオレッタさんと橙馬の顔を、交互に見比べる。
見た目はそこまで似ていない。
でも、教官へ余計な口をきいて自分から点数を失う姿には、同じ畑で育った作物みたいな共通点を感じた。
『フン。くだらん』
ヴァンデルがいきなりそう言い始めた。
くだらないのはわかるけど、なんで今のタイミング?
まあ、あまりのくだらなさに言いたくなっただけなのかな。
「次。椿」
「はいはい。お手柔らかに頼んますわ」
椿くんが前へ出る。
長い髪をまとめた白銀の簪と、左右で異なる太陽と月のピアス。緊張とは無縁に見える薄い笑みは、ラファエル教官に睨まれても変わらない。
「課題は水属性の標準攻撃術、《水弾》。始めろ」
「ほな、いこか」
椿くんが片手を上げる。
掌の前へ水が集まり、宙に浮かぶ球体となった。
大きさは、小ぶりな果実ほど。
けれど、ただ水を丸めただけじゃない。
表面が細かく震えながら、内側へ、内側へと圧縮されていく。水塊はわずかに小さくなるほど、存在感だけを重くしていった。
《水弾》。
火属性の《火球》と対になる、水属性の標準攻撃術。圧縮した水塊を射出し、出力を高めるほど貫通性が増す。
椿くんが指先を軽く弾いた。
圧縮された水塊が、一直線に空気を貫く。
スライム人形の胸へ吸い込まれ、向こう側まで綺麗な穴を穿った。貫通した水弾は背後の防護壁へ触れる直前に形を崩し、ただの水となって砂へ落ちる。
速すぎない。
遅すぎない。
強すぎず、弱すぎず。
術式の起動から終了まで、何ひとつ引っかかるところがない。
なのに、なぜだろう。
上手いというより、「上手すぎないよう整えた」魔法に見えたのは。
気のせいかもしれない。
「八十四点」
「おおきに。優等生には、まだ遠いみたいやねぇ」
「圧縮の終端を三度、意図的に揺らしたな」
椿くんの太陽と月が、同時に小さく揺れた。
「……なんのことやろか」
「採点者を試すな。八十一点」
「あらら。見逃してもらえへんかったか」
椿くんは悪びれもせず、へらりと笑って戻ってきた。
「椿くん、わざと出力を落としたの?」
「人聞き悪いなぁ。ボクかて、緊張ぐらいするんやで?」
「そうは見えなかったけど」
「人は見かけによらんもんや。鴨葱くんも、よう知っとるやろ?」
細められた目が、一瞬だけ僕の胸の奥まで覗き込んだ気がした。
たしかに緊張することはあるけど……椿くんが緊張したようには思えなかった。
「次。ヴォルグ」
「ハッ! イエッサー!」
黒髪の少年が前へ出る。
背筋は伸びているのに、力んでいるようには見えない。歩幅も呼吸も一定で、演習場の砂粒ひとつまで、最初から配置を把握しているみたいだった。
「課題は《尖岩弾》。始めろ」
ヴォルグが腕を上げる。
地面から拳ほどの岩塊が持ち上がった。岩の先端が鋭く尖り、回転しながら射出される。
標的のスライム人形は、魔法が放たれる直前に左右へ不規則に動き始めた。
それでもヴォルグは、目で追わない。
岩弾は、標的がまだ存在しない空間へ飛んでいく。
外した。
そう思った直後。
移動したスライム人形の額が、自分から岩弾の軌道へ入り込んだ。
硬い衝突音。
岩弾は眉間の中心だけを正確に貫き、その背後にある壁の手前で、魔力を失って崩れ落ちた。
「九十六点。着弾後の処理も適切だ」
「ありがとうございます」
ヴォルグは喜びも悔しさも見せず、短く答えた。
「相変わらず、気持ち悪いぐらい正確だよなぁ……」
橙馬が、小声で呟いた。
その口ぶりに、少しだけ引っかかる。
「橙馬、ヴォルグくんとは昔からの友達なの?」
「——まあ、腐れ縁っちゅーやつよ!」
「ふーん」
「なんだなんだ!? 嫉妬か!? 安心しろって! スペシャリティーな相棒はホノジだけだからな!」
「ちょっと、知り合いから勝手に親友にするのやめてくれる?」
「知り合い!? 友達ですらなかったのかよ!?」
「橘。減点されくなかったら私語を慎め」
「はいッ!」
ラファエル教官の一喝で、橙馬が瞬時に直立する。
戻ってきたヴォルグは、そんな橙馬へ一瞥もくれず、元の位置へ立った。
けれど、その口元が本当に一瞬だけ、呆れたように動いた気もした。
「次。ミラ」
「はぁ〜い、きょーかん」
教室で聞いたのと同じ、甘く気だるげな声だった。
ミラはゆったりとした足取りで前へ出る。
「標的は五体。すべて拘束しろ」
「はぁ〜い」
五体のスライム人形が、別々の方向へ走り出す。
ミラの指先が、ほんのわずかに動いた。
それだけだった。
次の瞬間、天井から降りた極細の魔力糸が、五体の手足と首へ絡みついた。
一本は足首。
一本は手首。
一本は首の付け根。
人形の勢いを正面から止めるのではなく、その動きを利用して、自分から崩れる角度へ引いている。
五体のスライム人形が、ほとんど同時に砂の上へ倒れた。
一体も壊れていない。
ただ、動くために必要な箇所だけが、完璧に封じられている。
「拘束完了まで二・三秒。前回より〇・二秒遅い」
「次は詰めるぅ」
「九十一点。戻れ」
「はぁ〜い」
命令。
実行。
報告。
それだけで、二人のやり取りは終わった。
「相変わらず、綺麗な糸やなぁ。ミラちゃ~ん、今度ボクのこともあんな感じで縛ってくれへん?」
「興味な〜〜し」
「そないつれんこと言わんといてぇな」
「やだぁ。もっと興味なくなったぁ」
「そこまで綺麗に断られると、むしろ気持ちええわ」
ミラは椿くんの言葉を聞き流すと、気だるそうに小さな欠伸をした。
「次。西芳寺」
冷夏さんが静かに前へ出た。
長い黒髪が、歩みに合わせて背中で揺れる。冷えた朝の空気が、彼女の周囲だけ目に見えない膜を張ったみたいに引き締まった。
「課題は《雷槍》。始めろ」
冷夏さんが、標的へ人差し指を向けた。
高い音がした。
それは耳で聞くというより、頭蓋骨の内側へ直接突き刺さるような音だった。
「《雷槍》」
青白い雷光が、一瞬で空間を貫いた。
遅れて、轟音。
光の槍はスライム人形の胴体だけを正確に撃ち抜き、その背後にある壁の防護術式を激しく明滅させる。
竜息山で、ジェネラル・バイソンの命を奪った雷。
あの威力は、偶然でも、土壇場だけの奇跡でもなかった。
「素晴らしい。出力、精度ともに高水準だ。九十四点」
「ありがとうございます」
冷夏さんは淡々と頭を下げた。
戻る途中、ほんの一瞬だけ僕と目が合う。
琥珀色の瞳が、何かを確かめるように細くなった。
そして——。
「次。鴨葱。前へ」
ついに来た。
「うわ、来たぞホノジ……」
橙馬が葬儀の参列者みたいな顔で手を合わせる。
「……南無。せめて赤点だけは避けてくれよな」
「始まる前から人を弔わないでくれる?」
乾いた喉を無理やり鳴らし、指定された位置へ進み出た。
正面にいるラファエル教官の三白眼が、これまでより少しだけ鋭くなった気がする。
「闇属性の鴨葱。今回の課題は、自身の影を全身へ纏わせ、光学的・魔力的な気配を遮断する潜伏魔法——《影実感》だ」
「……はい?」
「準備はいいな?」
(影を全身に纏う!? なにそれっ!? 教科書に、そんなの載ってたっけ!?)
たしかに今朝、教科書は受け取った。
でも、まだ最初の方しか読めていない。今日の調理実習で使う食材と献立を確認する方へ、だいぶ多めに時間を割いてしまったからだ。
「どうした。始めろ」
「は、はいっ!」
まずい。
でも、課題の目的は「姿と気配を隠すこと」だ。
なら、手段はどうあれ、それらしい結果を出せば、少しくらい点をもらえるかもしれない。
僕はポケットを探り、秘蔵のサクラフレーバー・ウッドチップを取り出した。
今度作ろうと思ってるソーセージのための、大切な香りづけ用のチップだ。
少し惜しい。
でも、ここでゼロ点を取れば、調理実習へ行く僕の心まで曇ってしまう。
掌に意識を集中させる。
ウッドチップへ、一気に魔力を流し込む。
「生粋魔法・《調理》——」
両手を叩き合わせた。
——パンッ!
「《瞬間燻製》!」
次の瞬間。
演習場の中央で、漆黒の煙が爆発した。
「うわっ!?」
「な、なんですの!?」
「前が見えねえ!」
煙は物理的な質量と熱を伴い、演習場全体へ膨れ上がった。
光を遮る。
視界も遮る。
自分の姿どころか、周囲にいる全員の姿まで、まとめて見えなくなった。
しかも。
「げほっ、ごほっ……! 待て、これ……」
サクラチップの甘く芳醇な燻香が、演習場いっぱいに広がっている。
鼻から吸い込むだけで、脂の乗った肉や、燻製チーズの味が舌の上へ蘇ってくるような香り。
パニックと空腹が混ざり合い、あちこちから咳と腹の音が聞こえてくる。
「ど、どうですか教官!」
僕は黒煙の中心で、必死に声を張り上げた。
「姿も見えない! 気配もわかりにくい! これが僕なりの、こだわりの《影実感》です!」
(頼む! 僕の嘘偽りのない真剣さだけでも、せめて届いてくれ……!)
やがて、換気の術式が起動した。
演習場の上部へ向けて風が流れ、黒い煙が少しずつ薄れていく。
現れたラファエル教官は、煙を頭から浴びたはずなのに、姿勢ひとつ崩していなかった。
三白眼だけが、岩みたいに僕を見つめている。
(……沈黙)
もしかして。
これは、言葉を失うほどの完成度だったということでは?
カリ、カリ、カリ。
静寂の中、採点表へペンを走らせる音だけが響いた。
「指定された術式の発動なし。魔力的な気配の遮断なし。熱、煙、臭気によって、術者の位置を周囲へ明確に告知。加えて演習場の視界を無差別に妨害した」
ラファエル教官は、迷いなく採点表へ最後の数字を書き込んだ。
「——ゼロ点だ」
「そ、そんなぁっ!?」
「いやそれ、どう見てもただの燻製だろ! 腹減るわ!」
橙馬の、魂を削るようなツッコミが演習場へ木霊した。
僕はただ一人、サクラチップの芳醇な残り香に包まれながら、春の陽だまりみたいに温かな虚無感とともに立ち尽くしていた。




