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蹄煮込み、経験を喰らう――六英雄が棲む酪農少年は、調理魔法で無双する  作者: 迦月 メイ
第三章:闇に灯る食卓

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第90話:隣人を百パーセント信じるなんて、危険だから

「うわああぁっ!! やめろぉおおっ!」


 ――斬られる。


 教室にいた誰もが、そう思った。

 僕も、そう思った。


 血のように赤い刀身が、宙吊りになったガルダの身体へ迫る。


 その瞬間――。


「《(くさび)》ッ!」


 橙馬の声が、すぐ隣で弾けた。


 次の瞬間には、もういない。


 僕の横を風が駆け抜け、机の上に置かれていたメッセージカードが、一斉に舞い上がった。


 ターコイズグリーンの光が、紅姫とガルダの間へ滑り込む。


 ――ガギィィンッ!!


 硬質な金属音が、教室を震わせた。


 火花が散る。


 眩しさが網膜を焼き、焦げた金属の匂いが鼻を刺す。衝撃の余韻が床を走り、靴底からすねへ突き上がってきた。


「……キミは、橘くんですね」


 セシル先生の声が、火花の向こうから聞こえる。


「これは、どういうつもりなのかな?」


 振り下ろされた紅い凶刃。


 それを受け止めていたのは――厚手のガントレットをめた、橙馬の右手だった。


 正確には、紅姫とガントレットの間へ打ち込まれた、半透明の(くさび)


 ターコイズグリーンの魔力で形作られたそれは、刃を受け止めながら、今にも砕けそうなほど細かく震えている。


 ガントレットの手の甲へ埋め込まれた魔煌玉(マテリアル)が、激しい明滅を繰り返していた。


「見ての通りだぜ、綺麗なお姉さん」


 橙馬は紅姫を受け止めたまま、ニッと笑った。


「生徒を殺そうとしてる、頭のおかしい人間を――俺っちが止めてるだけだ」


「……そう」


 セシル先生が、わずかに目を細めた。


 それから、ふっと腕の力を抜く。


 同時に、ガルダを宙へ繋ぎ止めていた魔力も途切れた。


「うおっ――!?」


 ――ドサッ!


 唐突に重力を取り戻したガルダが、床へ叩きつけられる。


「いってぇっ!」


 橙馬の前にあった魔力の楔も、役目を終えたように砕け、淡い光の粒となって消えていった。


「てめえ……! いてえだろうがっ! このメスが! 死ねっ!」


 床へ落とされたガルダは、痛みに顔を歪めながら、すぐさま立ち上がった。


 反省するどころか、怒りをさらに燃え上がらせている。


 再び右手へ魔力を集めようとした――そのとき。


「《魔力攪乱(マナ・ジャミング)》」


 低く、よく通る声が、教室の奥から響いた。


 今度は、セシル先生の声ではない。


 同じ術式。

 同じ名前。


 けれど、白いハートのピアスは光っていなかった。


 放たれた無属性魔法が、ガルダの周囲に集まりかけていた魔力を正確に射抜く。


「なっ……!?」


 集まりかけていた魔力が、またもや霧散した。


 続けて――。


「《魔力浮遊(マナ・フロート)》」


 教室の後ろから二列目、窓側の席。


 そこに座っていた黒髪の男子生徒が、まっすぐガルダを見ていた。


 身体はほとんど動いていない。


 ただ淡々と、必要な術式だけを放つ。


 それだけで、ガルダの身体が再び宙へ吊り上げられた。


「ぐっ!? またかよ! 下ろせ、クソがっ!」


「やめろ。ガルダ」


 黒髪の男子生徒は、表情ひとつ変えない。


「橘。貴様もだ。無意味な行動は慎め」


「ぐっ……! ヴォルグ! てめえまで邪魔する気かっ!?」


「やりたいなら、いつでも俺が相手をしてやる」


 ヴォルグと呼ばれた男子生徒が、ほんの少しだけ顎を引いた。


 ただ、それだけ。


 怒鳴り声もない。

 立ち上がってすらいない。


 それなのに、教室の空気が一瞬で張り詰めた。


 姿勢に無駄がない。

 視線にも、呼吸にも、わずかな揺れさえない。


 座っているだけなのに、そのまま立ち上がれば、最短の歩数で相手を制圧する姿まで想像できてしまう。


 学生というより、幾度も死地を越えてきた軍人みたいだった。


「……ヴォルグ……!」


 ガルダの顔が、屈辱に歪む。


 それでも、ヴォルグと正面からやり合う気にはなれないらしい。


「チッ……クソ。もういい。今回は、引いてやるよ」


「そうか」


 ヴォルグは、ガルダの負け惜しみへ興味を示さなかった。


 指先をわずかに下げる。


 すると、宙へ浮かんでいたガルダの身体も、今度は床へ叩きつけられることなく、ゆっくりと元の席へ下ろされた。


「えーと、ヴォルグ」


 橙馬が、気まずそうに頭を掻いた。


「無意味って……どういう意味だ?」


「あの教官に、殺す気など端からない」


「……マジかよ」


 橙馬は紅姫と衝突したガントレットを見下ろした。


「俺っち、早とちりしちまったってこと? うわぁ……それは、ちょっと恥ずかしいな」


「少し違う」


「お。慰めてくれんの?」


「中途半端な無能が、判断を誤って飛び出すなど、誰にも予想できまい」


「フォローかと思ったら追撃……!? にしても、ひっでえ言い方!?」


 橙馬が胸元を押さえ、わざとらしくよろめいた。


「いて、いててて……! 鋭利な刃より、ヴォルグの言葉のほうが深く刺さる! 心が、心がいてえよぉ……!」


「黙れ」


「でもよぉ。誰にも予想できないって言ったけど――お前なら、そんなことないだろ?」


 橙馬の表情が、ほんの少しだけ真面目になる。


「なんてたってお前は、『未来がえる』んだからな」


「未来は視えん」


 ヴォルグは、即座に否定した。


「能無しどもの、くだらん噂だ」


 その声には、照れも謙遜もない。

 本当に事実と違うから訂正した。

 ただ、それだけに聞こえた。


「あいかわらず、クールで辛辣だなぁ。そんなんじゃ、モテないぜ?」


「貴様ほどではない」


「返し強っ!」


 橙馬はまた胸を押さえ、今度はその場へ膝をつくふりまで始めた。


「そんなふうに言われたら、さすがの俺っちも……いて、いててててっ! 心が死んじまうよぉ~~っ!」


「黙れ、道化」


「へいへい。どうせ俺っちは、道化ですよ~だ」


 橙馬は立ち上がると、ひらひらと手を振りながら、セシル先生へ向き直った。


「で、お姉さん」


 視線が、セシル先生の手にある紅姫へ落ちる。


「これは、どういうことなのか、ちゃんと説明してもらえますよね?」


「えへ。寸止めで止めるつもりだったんですけど……ちょっと、やりすぎちゃった感じかな?」


「寸止めにしては、迫力がヤバすぎるって! いくら綺麗なお姉さんでも、さすがに笑える内容じゃないですって~!」


「うん。ごめんね」


 セシル先生は、ほんの少しだけ困ったように眉を下げた。


「でも、もう大丈夫ですから。橙馬くんも、席へ戻ってもらえますか?」


「しょうがないですね~! お姉さん、綺麗なんだから、次はもうちょっと慎重にお願いしますよ~?」


「――食えない子」


「あははん。そんなんじゃないですって」


「どうだろうね」


 セシル先生の目が、一瞬だけ細くなる。


 橙馬も笑っている。


 二人とも柔らかい声で話しているはずなのに、言葉の下では、互いに何かを探っているようにも見えた。


「とりあえず、今は席へ戻ってくれるかな?」


「あいあいさー!」


 橙馬がきびすを返す。


 それを確認してから、セシル先生も教壇に戻ると、教室全体をゆっくりと見渡した。


「――あたしは、あくまで皆さんの味方です。そこは勘違いしないでほしいな……なんて」


 ぺろりと、小さく舌を出す。


 いつの間にか、手元にあった紅い刀――紅姫は消えていた。


 赤黒い魔煌玉(マテリアル)の光が静かに消え、胸元では元の宝石だけが、何事もなかったように揺れている。


 耳元の白いハートも、淡い光を失い、ただの装飾へ戻っていた。


「まったく。人騒がせなお姉さんだぜ……」


 橙馬が小声でぼやきながら、僕の隣へ戻ろうとする。


 そこで、ふと足を止めた。


「ん……?」


 橙馬の視線が、教室の出入口付近へ向く。


「おいおい。あいつら、どうしたんだ?」


 通路側にいた数人の生徒が、中腰の姿勢のまま、ぴくりとも動かず固まっていた。


 逃げようとしたのか。


 セシル先生を止めようとしたのか。


 机へ手をかけた姿勢や、立ち上がりかけた状態のまま、まるで時間だけを止められたように静止している。


「な、なんだこれ……!?」


「身体が……動かない……!」


 目を凝らして、ようやく気づいた。


 天井から、極細の魔力が何本も伸びている。


 細い。

 髪の毛よりも、ずっと細い。


 朝の光が当たった一瞬にだけ、蜘蛛の糸みたいな線が、かすかに浮かび上がる。


 その糸が、生徒たちの腕や足、胴体へ複雑に絡みつき、動きを完全に封じていた。


 冷夏さんも、片腕をわずかに上げた姿勢で止まっている。


 琥珀色の瞳だけが鋭く動き、自分の身体を縛っている何かを探している。


「あ。もちろん――」


 セシル先生が、そんな異様な光景の中で、柔らかく声を上げた。


「今朝、皆さんの机に入っていたチョコレートに、毒なんて含まれていませんよ。そこは安心してください。えへ」


 教室中から、一斉に息が漏れた。


「……よ、よかったぁ~~っ!」


 僕の隣まで戻ってきた橙馬が、その場で机へ突っ伏した。


「俺っち、マジで死ぬかと思ったぁ……! よかった。世界はやっぱり優しかったんだな……!」


(確かにそれはよかったよ……)


『先ほど申し上げたとおり、現時点で毒性反応はありませんでしたわ』


(ミネルヴァも、断言はできてなかったじゃん)


『情報が不足している段階で断言するほうが、無能の証明でしょう。私はつねに完璧を徹底します。できる女ですので』


(はいはい。心配してくれてありがとう)


『……わかればよろしいのですわ』


 いつもどおりの返事が戻ってきて、ようやく胸の奥から力が抜けた。


「それから、ミラちゃん」


 セシル先生が、教室の奥へ顔を向ける。


「そろそろ魔力を解いてくれると助かります。他の皆さんが、少し窮屈そうですから」


 優しい声だった。


 ただ、言葉尻の温度だけが、わずかに低く聞こえた。


「……はぁ~い」


 窓際の一番端から、甘く気だるげな声が返ってくる。


 頬杖をついていた少女が、退屈そうに指先を持ち上げた。


 ――ぱちん。


 小さく、指を鳴らす。


「あほらしぃ~~。先生に殺気なんて、全然なかったんだもん。動くだけムダじゃなぁい?」


 天井から伸びていた魔力の糸が、ふわりと緩んだ。


「だから、ちょっとだけ――大人しくしててもらったのぉ」


 細い糸がほどけ、光へ溶けて消えていく。


 拘束されていた生徒たちの身体が、次々と自由を取り戻した。


 教室のあちこちから安堵の息が漏れ、止まっていた椅子が一斉に軋む。


 冷夏さんも、ようやく腕を下ろした。


 けれど、その視線は魔力の糸が消えたあとも、ミラと呼ばれた少女を鋭く射抜いている。


「ミラ」


「なぁに、レイカちゃん?」


「次、勝手に私へ何かしたら――許さないわよ」


 凍りつくような声だった。


 でも、ミラは少しも怯まない。

 むしろ、冷夏さんの怒りを舐めるように、熱っぽく目を細めた。


「善意なのにぃ……。でも、レイカちゃんのその――そそるぅ」


「……気持ち悪い」


「うふ……褒められちゃったぁ」


 冷夏さんが眉間へ深く皺を寄せた。


 嫌悪を向けられているはずなのに、ミラは本当に嬉しそうだった。


「ミラちゃ~ん?」


 そこへ、椿くんがにゅっと首を突っ込んだ。


「ボクのことは、もっと強う拘束してくれてもええんやけどなぁ」


「興味な~~し」


「そない、つれんこと言わんといてぇな」


「うふ……ごめんなさぁい。椿くんには、あまり興味がないのぉ」


 ミラは、椿くんの顔をじっくり眺める。


 誰が見ても整っている顔立ちを前にして、それでも少しも心が動いていないようだった。


「アナタは……全然、そそられないもの」


「……なんや。ボク、フラれたんか?」


 椿くんは胸元へ手を当て、大げさに傷ついたような顔を作る。


「思ったより悪うないな。むしろ、気持ちええくらいや」


(なに、その言動!? 椿くん、レクターみたいなんだけど!?)


『しっかりして、ホノちゃんっ! レクターはもっと段違いに気持ち悪いよ!?』


(はっ!? 確かに……! ジュリア、天才じゃん!)


『えっへっへ~。でしょ? 死ぬまで一生、レクターを気持ち悪がろうねっ!』


(もちろん任せて! レクター殲滅せんめつ同盟の絆は永遠だよ!)


『あアッ! ボクを呼んだかイッ!? 宿主ホストにジュリアッ!』


『帰れっ!』

(帰れっ!)


 僕とジュリアの声が、綺麗に重なった。


 ことレクターの撃退に関しては、僕たちの相性は控えめに言って最高だ。


『……ワイが庇うことじゃないかもしれんがのう。さすがにレクターが、かわいそうすぎんか?』


 ガンテツが、仏のように慈悲深いことを言う。


 すごい。


 僕には絶対に真似できそうにないし、一生、真似したくもない。


 いつもの脳内レクター撃退戦が一段落したところで、僕は改めて椿くんを見た。


 さっきまでミラに振られて楽しそうにしていたのに、もう何事もなかったような顔になっている。


 それを見て、すこしだけ胸がざわついた。


(……ミネルヴァ)


『なんですの?』


(さっきの椿くんの話。橘家のことも、ルミタを夜に食べろって言った理由も……やっぱり、何か隠してると思う?)


『少なくとも――』


 ミネルヴァの声が、わずかに冷たくなる。


『嘘の質だけは、一級品かもしれませんわね』


(嘘の質? どれが嘘なの? ていうか嘘の質ってなんなの……?)


『知る必要はありませんわ』


(ま~た隠し事?)


『これは隠し事ではありません。言及する必要がないと判断したまでです』


 ミネルヴァは、当然のことを説明するように続ける。


『通常、ヒトにはプライバシーというものがあるものですから』


(プ、プライバシー!? ええっ!? それを僕に言うのっ!?)


 僕の脳内を我が物顔で占拠している存在から、まさかそんな言葉が出てくるとは思わなかった。


『失礼ですわね。私はつねに、ご主人様の尊厳へ最大限配慮しておりますわ』


(びっくりしたぁ……。そんな認識だったんだ……)


 ミネルヴァの特大ブーメラン発言に度肝を抜かれているうちに、現実の教室も、ようやく落ち着きを取り戻し始めていた。


「……皆さん。少しは、落ち着きましたか?」


 セシル先生は、教卓へそっと手をつく。


 薄紫色のカーディガンが、動きに合わせてふわりと揺れた。


 耳元では、白いハートのピアスが、先ほどまで魔法を放っていたとは思えないほど静かに揺れている。


「えへ。あたしは確かに無一紋です」


 セシル先生は、自分の弱点を隠そうとしなかった。


「魔法は使えません。魔導具(マギア)がなければ、魔力攪乱も、魔力浮遊も使えない。戦うとなれば、ホント、どうしようもないんです」


 一拍置く。


「でも――それが、どうしたっていうんですか?」


 教室の空気が、再び引き締まる。


「大金をはたいて魔導具マギアを揃えれば、魔法を使えないあたしでも、簡単な無属性魔法を使うことはできる」


 セシル先生の視線が、ガルダへ向く。


「そして――人を殺すことだって」


 柔らかな声だった。


 だからこそ、その言葉が持つ重さだけが、くっきりと浮かび上がった。


「やろうと思えば、今朝のチョコレートに、本物の毒を仕込むこともできました」


 何人もの生徒が、机の上に残された銀紙を見る。


 すでに食べ終えた者は、自分の腹へ手を当てる。


「もし、あたしが皆さんの『敵』だったなら――この教室にいる半分以上の人が、もう助からなかったかもしれません」


 誰も、声を上げなかった。


 ほんの少し前まで、チョコレートの値段と美味しさに浮かれていた教室が、今はしんと静まり返っている。


「でも、安心してください」


 セシル先生は、また柔らかく微笑んだ。


「あたしは、皆さんの味方です。担任としての仕事も、きっちり全うします」


 その笑顔を見て、張り詰めていた何かが、ほんの少しだけ緩む。


「スクールカウンセラーでもありますから、悩みがある人は、何でも相談してくださいね。話したくないことまで、無理に話す必要はありません。話せるところからで、大丈夫です」


 検査室で、僕へ向けてくれた言葉と同じだった。


 静かな器具。

 触れる前の確認。

 僕が答えられるまで、急かさず待ってくれた時間。


 あのときのお姉さんは、確かに僕の味方だった。


「ただ――」


 セシル先生の笑顔から、ほんの少しだけ温度が消える。


「忘れないでほしいんです」


 教室の全員を、順番に見渡していく。


「〈迦導国かどうこく〉は、今こそ休戦状態です。でも、いつまた戦争が始まっても、おかしくありません」


 教室の空気が、重く沈む。


「なんなら今この瞬間も、皆さんの知らない場所で、すでに何か恐ろしい罠が仕掛けられているかもしれない」


 白いハートが、朝日を受けて小さく光った。


「油断しないでください」


 セシル先生の視線が、一瞬だけ僕のところを通り過ぎた。


「たとえ、親しくなった相手であっても」


 ――なぜか。


 今朝の、温かいミルクの味を思い出した。


 大きな手。

 両側から抱きしめられたときの体温。


『俺たちは鴨葱くんのことを……家族のように思ってるんだ』


 胸の奥へ、小さな棘が刺さる。


(……なんで、今)


 違う。

 ロイさんたちは、関係ない。


 僕は、その記憶を振り払うように、セシル先生の言葉へ意識を戻した。


「だって――」


 セシル先生が、一度だけ言葉を切る。


「隣人を百パーセント信じるなんて、危険だから」


 一瞬。


 教室から、すべての音が消えた。


 椅子の軋みも。

 紙の擦れる音も。

 誰かの呼吸さえも。


 僕の耳には、脳内で響いたミネルヴァの言葉だけが、もう一度蘇っていた。


 ――『完全に純白シロだなんて、そんな人間など、どこにもいないと思いますけれど』


 信じたい。

 でも、すべてを知っているわけじゃない。

 信じることと、何も疑わないことは、きっと同じじゃない。


 それでも――。


「……なんて」


 セシル先生が、可愛らしく首を傾げた。


「あはは。ちょっと、大人の怖さを見せつけたかっただけなの」


 先ほどまでの冷たさが、嘘みたいに消える。


「お姉さんのいたずら心ということで、許してほしいな」


 ふっと、教室の空気が緩んだ。


 全員へかけられていた見えない拘束が、ようやく解けたような感覚だった。


 ――本当に、食えない人だ。


 僕は手元に残っていた白い包みを見た。


 毒は入っていない。


 それでも、このチョコレートを食べるかどうかは、僕が決めていい。


 疑うことと、受け取らないことは、たぶん同じじゃない。


 薄紙を開き、銀紙を剥がす。

 小さな一粒を口へ入れ、舌の上でゆっくりと溶かした。


 濃厚な甘み。

 カカオの微かな苦み。


 検査室で食べたものと、同じ味だった。


 美味しい。


 だけど、あのときより、ほんの少しだけ苦く感じた。


「では、改めまして」


 セシル先生が、教卓の前で姿勢を正す。


「あたしが、皆さんの担任になるセシリア・グロウです。セシル先生か、お姉さんと呼んでくださいね」


 いつもの穏やかな笑顔。


「卒業まで――ぜひ、よろしくお願いします」


 それから最後に、ひとつだけ。


 セシル先生は、笑顔のまま、はっきりと付け足した。


「ちなみに――」


 白いハートのピアスが、静かに揺れる。


「戦争は、大嫌いです。えへ」

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