第87話:もう、大丈夫だから!
「――というわけでぇ! 今日からホノジ君は、夢と希望が詰まったキラキラの寮生活スタート! 入学早々、いきなり一週間も検査に振り回しちゃったのは、ぶっちゃけこっちの落ち度だし? これは大人からの“詫びリティ”ってやつっスよ! 特別に、寮でいっちばん『刺激的』な部屋を無料で用意しといたんで! オイラに感謝、くれちゃってもいいんスよ?」
「うん? あ、はい。ありがとうございます」
僕が帰宅するなり、家の前で待ち伏せしていたその人物は、息継ぎもせず一方的にまくし立ててきた。
目の前で、眩しいほどの虹色の長髪をバッサバッサと揺らしている。
学園の職員――というより、夜の繁華街に似合いそうな、どう見てもチャラそうなお兄さんが、白い歯を見せてバチコンと親指を立てていた。
彼が朝日を浴びた瞬間、その髪はもはや“虹”ではなく、凶悪な“反射板”と化した。
赤、橙、黄、緑、青、藍、紫――七色のきらめきが、暴力的な光線となって僕の網膜に突き刺さる。
彼が何を言いたいのか、半分くらいは正直よくわからなかった。
というより、脳が内容を理解する前に、物理的に目をやられて思考が止まる。
「にしても、今日からですか? 急すぎません?」
「いいからいいから、ほら遠慮しないで! 一年生は原則、寮生活なんスよ! ホノジ君は検査が長引いたせいで、入寮手続きが今日まで止まっちゃってただけ! これは学園側のミステイク! なので、寮費もサービスしちゃうっス!」
「僕、一応もう十日ぐらい、この学園の生徒だったと思うんですけど……」
「細かいこと気にするとモテないっスよ? これ、部屋の鍵ね! 家具とか荷物は、あとでゆっくり運んじゃっていいっスから!」
そう言い残すと、お兄さんは「じゃ!」とウインクを飛ばし、文字どおり疾風のように去っていった。
あとに残されたのは、チカチカする視界の残像と、一本の鍵だけ。
……そして、嵐が去った静けさと同時に、ずっしりとした現実が肩へ落ちてきた。
ここにある荷物をすべて、これから向かう学園の寮へ運び出さなければならない、という現実が。
僕は、開けたばかりの玄関から家の中を見渡した。
引っ越してきて、まだ十日ほど。
真新しい壁紙の匂いも、体重をかけるたびに鳴る床の軋みも、まだ完全には身体に馴染んでいない。
それでも、昨日よりは少しだけ、この家を自分の居場所だと思えるようになっていた。
この台所でミルクを加工した。
深夜にチーズを作り、竜息茸を仕込み、今日の調理実習へ向けて、いろいろな準備をした。
今も、部屋の中には鉄と燻製、それから微かに甘いミルクの匂いが残っている。
(……まあ、寮へ入るからって、この家がなくなるわけじゃないもんね)
これから牧場跡地を整えていくなら、作業拠点は必要だ。
料理の仕込みだって、共同生活を送る寮で、好き放題にできるとは思えない。
寝る場所が、もう一つ増える。
ひとまず、そう考えることにした。
普通なら、引っ越しなんて丸一日がかりの大仕事だ。
だが、今の僕には、そんな無駄な時間も余分な気力もない。
重い家具をえっちらおっちら運ぶ時間があるなら、一秒でも長く牛とか馬とか羊とかヤギをブラッシングして、その温もりを愛でていたい。
しかも今日は、待ちに待った調理実習の初日なのだ。
だから僕は、この忌々しい引っ越し作業を、数分で終わらせることにした。
部屋にある大きな荷物をすべて、「ある場所」へ詰め込むのだ。
――そう。
僕がいつも持ち歩いている、数本のガラス瓶の中へ。
「《食糧保存》!」
魔力を解放した瞬間。
ポンッ、ポンッ! という小気味いい音とともに、僕の部屋を占領していたベッドや机が、みるみるうちに百分の一の極小サイズへ圧縮され、次々とガラス瓶の中へ吸い込まれていく。
本来、木材や布でできた家具は「食糧」ではないため、この調理魔法の対象外だ。
弾かれて当然の物質である。
だが――僕の家具のほとんどは、いざというときのための「非常食」を兼ねているのだ。
・ベッドのマット
中身はただの綿ではなく、高密度に乾燥させた最高級の干し草のプレス材だ。
ヤギや馬が喜んで食べるし、極限状態なら、人間の非常食にもなる。
・木製テーブル
表面のニスに見えるものは、甘い樹液を限界まで煮詰めた硬質糖分によるコーティング加工だ。
遭難時に舐めれば、立派なカロリー源になる。
・椅子
極限まで水分を飛ばし、燻製された硬化肉の集成材でできている。
ナイフで削れば、最高に香ばしい極上のおつまみになる。
つまり、これらはすべて僕にとって立派な「食材」であり、命を繋ぐための備蓄。
当然、調理魔法の厳格な管理対象として、システムに認識されるというわけだ。
『……以前から思っていたのですが、ご主人様。その理屈で押し切って、本当によろしいのですか?』
(実際に《パントリー》へ入るんだから、問題ないでしょ)
『魔法にすら、ご主人様の偏った食糧観が侵食している可能性を、私は危惧しているのですわ』
(難しいことを考えるね、ミネルヴァは)
『あなたが何も考えなさすぎるんです』
ミネルヴァの小言もほどほどに流して――。
「よし、これで引っ越し完了。所要時間、だいたい三分ってところかな」
重くない。
腐らない。
場所もまったく取らない。
瓶の中でコロンと転がる「スモーク肉の椅子」と「樹液テーブル」を、満足げに眺める。
やっぱり、僕の《食糧保存》は最高で最強の魔法だ。
瓶を数本リュックへ放り込み、僕は身軽な装いで、新生活の舞台となる寮へ足を踏み出した。
◇
学園の敷地へ入り、北へ北へと歩く。
進むにつれて、生徒たちの喧騒が遠ざかり、代わりに肌寒さと、妙な「圧」が増してくる。
案内された地図が示していたのは、学園の最北端。
断崖絶壁のそばにある、森の奥だった。
「……ここ? マジで?」
僕は、目の前の光景に絶句した。
そこにあったのは、「寮」と呼ぶにはあまりにも野性味あふれる――平たく言えば、ボロ小屋だった。
壁は蔦と苔に覆われて元の色がわからない。屋根は歪み、窓枠は腐りかけている。
そして何より。
――ブゥン……ブゥン……。
腹の底へ響くような重低音が、絶え間なく鳴っている。
すぐそばにある、学園を守る「結界」の出力音だ。
「……詫びリティって、これのこと? ハッハー、イカシテルネ」
刺激的すぎる。
僕はため息をつきながら、ギシギシと悲鳴を上げる床板を踏んで、玄関をくぐった。
廊下は薄暗く、カビと古い木の匂いがする。
壁に掲げられたプレートには、掠れた文字で「北端特別寮」と書かれていた。
特別という言葉は、使い方次第でどこまでも不安になれるらしい。
指定された部屋番号の前で立ち止まり、鍵を差し込む。
鍵穴が錆びているのか、固い。
無理やりねじ込んで回すと、ガキン! と鈍い音がして開いた。
ドアを押し開ける。
「――おいマジかよ!? この部屋、電気が点滅して……って、うおっ!?」
部屋の真ん中で、天井を見上げて叫んでいた男と目が合った。
チカチカと明滅する魔導ランプの下。
寝癖のついた深いネイビー色の髪を揺らし、心底焦ったような顔をしている彼――橘橙馬である。
「……え、ホノジ!? お前マジか!? ここ、お前の部屋!?」
「あー……どうやらそうみたいだね。橙馬がいるってことは、ルームメイト?」
「うわぁ……サプライズたまんねえ。俺っち、てっきり誰も来ないと思って油断してたぜ……。いや、てかお前! なんでこんな『墓守小屋』を寮に選んだんだよっ!? お前もしかして、相当なワルなのか!?」
橙馬がどこか遠い目をして、それから憐れむような顔をした。
「……いや、違うよ。知らなかったんだ」
「知らなかった?」
「うん。実はさ――」
僕は荷物を下ろしながら、ここに至るまでの経緯を話した。
入学前、学園から送られてきた書類をよく読まず、ひとまず一番安い居住プランへ印をつけたこと。
そこが寮だということも、一年生が原則として寮生活を送ることも知らず、街外れに家を借りてしまったこと。
検査によって入寮手続きが止まり、今日になって突然、虹色の職員から鍵を押しつけられたこと。
「――ってわけなんだ」
「……ぶっ! ぎゃはははは! バカだ! 最高のバカがここにいる!!」
橙馬が腹を抱えて爆笑した。
振動で、天井からパラパラと埃が落ちてくる。
「笑い事じゃないよ……。そもそも、なんで寮の詳細を知らなかったんだろ」
少しだけ記憶を巡る。
そういえば、入学前にもらった“しおり”に書いてあったらしいけど……。
……あ。
脳裏に浮かぶのは、実家の白ヤギと黒ヤギ。
彼らが、たいそう美味しそうに紙を食べていた光景。
(……あいつらかぁぁぁ!)
木の繊維の紙と、黒草の天然インクが、よほど良いマリアージュだったのだろう。
しばらく、普通の餌を食べなくなったほどだ。
まったく、美食家どもめ。
……あー、あのヤギブラザーズと、おっさんみたいな鳴き声が恋しい。
しーちゃんと、くーちゃんに会いたいな……。
『……まるで事故みたいに回想してますけど、「ほれほれ食え食え、高級食材だぞ」って与えてたの、他でもないご主人様ですよ?』
脳内から、氷のように冷ややかな声が響いた。
(……まあ、それはいいとして)
『都合が悪くなると話を流す癖、本当に感心しませんわ。自分の愚行を棚に上げるのは、三流のすることです』
(いいじゃん、ミネルヴァ。だってさ、ホームシックなんだもん。いや、ファームシックなんだもん)
『お気持ちはわかりますが……寮生活も始まりますし、何より自由時間はありますわ。しっかりなさい』
寝る場所がこの「墓守小屋」なのは最悪だが、自由時間が確保されているなら話は別だ。
こんなカビ臭い部屋に完全に縛られたら、僕の大事な乳製品づくりの試作が、まったく捗らなくなってしまう。
それだけは、何があっても絶対に阻止しなければならない。
『ご主人様から乳製品を取り上げたら、あとに残るのは、中身の伴わない“虚無”だけですわ』
(……ミネルヴァ。言い返せない自分が情けないし、同時にどうしようもなく誇らしいよ)
『誇らないでください。それよりご主人様、大丈夫なのですか? 目の前の“現実”が、先ほどから奇獣のような奇声を上げていますが』
「いやっほ~~~い! ふぅ~~~っ! 墓守小屋、さいっこ~~~に刺激的だぜぇ!!」
「……はっ!」
ミネルヴァの零下百度のツッコミで現実へ引き戻されると、目の前で橙馬が、ボロ小屋の振動に合わせるように、マジで謎のステップと奇声を披露していた。
「あ、ホノジ? いきなり虚空を見つめて黙り込むから、びっくりしたぜ。どうしたってんだ? あまりの事故物件っぷりに、ショックで魂でも抜けたか?」
「あ、ごめん。ちょっと故郷の温かな思い出に、意識を侵食されてただけだよ」
「お前、侵食とか……ショックのあまり、さらっと深淵魔法みたいな怖いこと言うなよ。全然笑えねえから!」
「怖いのもショックなのもこっちのセリフだよ! 少し昔の思い出に浸ってたら、いつの間にかルームメイトが狂ったような踊りを披露してるんだから!」
「あー、な? ったく、仕方がないな、ホノジは。この俺っちが目の前で踊ってんだ。いくらでも遠慮なく、テンションをぶち上げてもらって構わないぜ?」
「……あん? どういう意味?」
「だって俺っちだぜ? この最高の相棒を受け入れろよ!」
……本当に、一発殴らせてほしくなるほどムカつく表情をする男だ。
「顔がむかつく」
「ホノジッ!?」
しまった。
あまりの不快感に、心の声がそのまま漏れていた。
「ハハッ……。お、俺っち、全然……全然ショックなんか、じゃないんだぜ……?」
言葉のわりには、潤んだ瞳で口元を震わせている。
動きがいちいち騒がしくて、視界が疲れる男だ。
でも。
そんな橙馬を見ながら笑っているうちに、ふと思い出した。
金曜日の朝。
購買でミルクの違いへ気づき、竜息山へ行くと決めたとき。
橙馬は僕の異変に気づき、何かあるなら声をかけろと言ってくれた。
それなのに僕は――。
「……橙馬」
「ん? どした、ホノジ」
「話しておきたいことがある」
言葉が落ちた瞬間、橙馬の表情から、ふざけた色が少しだけ消えた。
「金曜日、橙馬に言ったよね。土日はゆっくり休むって」
「……言ってたな」
「あれ、嘘なんだ」
橙馬の眉が、わずかに動く。
「僕、竜息山へ行った」
短い沈黙が落ちた。
魔導ランプが一度消え、結界の低い振動だけが、部屋の中へ響く。
次に灯りがついたときには、橙馬が僕のすぐ目の前にいた。
両肩を、強く掴まれる。
「お前……マジで行ったのか?」
「うん」
「怪我は?」
「もう大丈夫だよ」
「その“大丈夫”は、信用していい方の大丈夫か?」
橙馬の声は低かった。
怒っているようにも、怖がっているようにも聞こえる。
僕は少し迷ってから、頷いた。
「今度は、本当。疲れは残ってるけど、ちゃんと生きてる」
「……死にかけたのか」
「少しだけ」
「少しで済ますなよ、バカ……!」
橙馬の指に、わずかに力が入る。
痛いほどではない。
僕がここにいることを、その手で確かめているみたいだった。
「なんで、俺っちに言わなかったんだよ」
「橙馬を巻き込みたくなかったから」
答えてから、胸の奥に小さな引っかかりを覚えた。
それは嘘じゃない。
でも、全部でもない。
「……いや。違うな」
「違う?」
「巻き込みたくなかったのも本当。でも、それだけじゃない」
喉の奥が詰まりそうになる。
それでも、誤魔化さずに言葉を探す。
「止められるのが、怖かったんだと思う」
橙馬は何も言わなかった。
「橙馬に話したら、たぶん危ないって言われる。場合によっては、行かない方がいいって言われる。それでも僕は行きたかったから……最初から、話さないことを選んだ」
「……そっか」
「ごめん」
頭を下げる。
橙馬の手が、ゆっくりと僕の肩から離れた。
「僕が山で見たことは、僕だけの話じゃない。だから全部を勝手に話すことはできない。でも、僕自身が何をしたのかまで隠すのは、違うと思ったんだ」
「……おう」
「山には、アイアン・バイソンの群れがいた。人間のハンターに角を切られて、傷つけられてる個体もいた」
倒れた王の姿が、頭に浮かぶ。
朝焼けの中で、その頬を舐めていたメスのバイソン。
森の奥へ持ち帰られた、立派な角。
「群れを守ろうとしたボスと戦って、僕たちは彼を殺した」
その事実は、何度口にしても変わらない。
「だから今度は、残った群れを守りたい。竜息山へ魔法柵を作って、悪意のあるハンターが簡単に入れない場所にしたいんだ」
「魔法柵……」
「うん。バイト先のロイさんたちにも今朝相談した。設置するには学園と、竜息山の地主の許可が必要だから、交渉の場を作るのを手伝ってもらうことになった」
「……そうか」
橙馬は、そこで一度だけ口を閉じた。
何かを言いかけて、飲み込んだようにも見えた。
「橙馬?」
「いや……地主のことなんだけどよ」
「何か知ってるの?」
「竜息山の地主は――橘ヴィオレッタだ」
「橘……? ああ、あの綺麗で変な令嬢の人!」
入学初日、取り巻きの女の子を引き連れ、廊下で高笑いをして、盛大にむせていた人だ。
そういえば。
「橙馬と、同じ名字だったよね」
魔導ランプが、また一度だけ明滅した。
暗がりの中へ、橙馬の表情が消える。
けれど、次に灯りが戻ったときには、いつもの明るい笑顔が浮かんでいた。
「だから、前にも言ったろ? 同じ名字なだけだよ。俺っちとは関係ねえ」
「そうなんだ」
「おう。橘なんて、この国じゃそこまで珍しい名字でもねえしな」
「そっか。なら、ロイさんたちにも伝えておくよ。橘ヴィオレッタさん、だね」
「ああ」
橙馬は、それ以上何も言わなかった。
僕も、無理に聞こうとは思わなかった。
誰にだって、今すぐには言葉にできないことがある。
話さないことと、騙すこと。
守ることと、遠ざけること。
その違いを、僕はまだ上手に説明できない。
でも少なくとも、何も言わずに橙馬から離れたままにしなくてよかったと思う。
「おう、いろいろ話してくれてありがとな! でも……次はなんかあったら話してくれよ~~! 一緒に柵を立てた仲じゃねえか!」
明るく元気な声だった。
いつもの橙馬と、何も変わらないように聞こえる。
でも、ほんの少しだけ、いつもよりも声へ力が入りすぎているように感じた。
こいつはこいつなりに、気を遣ってくれているのだろう。
「ありがとう……。次は頼りにする……かも……」
弱々しい声だったけれど、なんとか言えた。
橙馬は、少しだけ寂しそうに僕の顔を覗き込む。
「大変だったよな……。本当に、もう大丈夫か?」
今度の問いかけには、先ほどまでのふざけた色が一つもなかった。
本気で僕を心配してくれている。
そんな橙馬を見て、思う。
橙馬と過ごす時間を、癪だけど悪くないと思っている自分がいる。
――夜に手を伸ばした、あの日。
橙馬は、普通なら気にも留めないような言葉をずっと覚えていて、わざわざ僕に謝ってきた。
僕たちはルミタを食べて、くだらない話をして、柵を直して。
それから二人で夜へ手を伸ばし、届かない星を掴もうとした。
あの日、僕たちは、かけがえのない時間を過ごしたような気がする。
なのに僕は――また「見ないフリ」をして、自分の都合を橙馬に押し通そうとした。
確かに、全部を話すことが誠実ってわけじゃない。
そのことについて、意見を変えるつもりはない。
だからといって、何も話さないことが誠実ってわけでもない。
巻き込まないことが、いつだって誠実なわけでもない。
僕は、自分にとって都合の悪いことを、聞こえのいい言葉で正当化したにすぎない。
――ああ、そうか。
これも、一種のエゴなんだ。
心からの本音というより、自分の望む結果だけを守りたくて、都合の悪いことを正当化するための`我儘`。
仕方のないことなのかもしれない。
誰にだって、自分を守りたい気持ちはある。
それでも、はっきりとわかることもある。
僕は`本音`を選ぶ。
自分の人生で、本当に大切にしたいものを選び取るための本音なら、これからも誤魔化さずに貫きたい。
でも、この`我儘`は選びたくない。
ううん。
――選ばない。
だから、僕が満面の笑みで、橙馬へ今返す言葉は――。
「もう、大丈夫だから!」
橙馬は、僕の顔をじっと見た。
それから、張り詰めていたものを解くように、ふっと息を吐く。
「……おう。そっか」
その返事を聞くと、不思議と胸の奥が軽くなった。
次の瞬間。
橙馬は、何かを思い出したように手をポンッと叩き、急に神妙な顔つきになった。
「あっ! そうだホノジ! お前、一限目の課題、ちゃんと用意したのかよ!?」
「え、課題?」
「属性魔法の基礎だよ! 今日の実技でテストがあるんだぞ。もしかしてホノジ……まだ魔導書すら開いてないのか?」
「あー……僕、先週末までずっと検査で隔離されてたから。教科書も今朝もらったばかりなんだよね」
「うわぁ……。この墓守小屋に住まわされた上で、さらに課題をまだ準備してないとか……。あの鬼教官、事情なんて一切考慮してくれねえ、血も涙もない鉄面皮なんだぞ……大丈夫なのかよ?」
橙馬が、自分のことのように大げさに頭を抱える。
「ま、なんとかなるよ。腹が減っては戦はできぬ、って先人も言ってるしね」
「お前、この土壇場で飯のことってオイッ!? メンタル鋼スライムかよ!」
――ぐぅ~~~~~っ。
そのとき、部屋へ虚しく響いたのは、僕ではなく橙馬のお腹の虫だった。
「あはは。人のこと、全然言えないじゃん」
「……いんや~、俺っちも今月マジで金なさすぎてさ。最強の極限節約術『食わない』っていう、命を削る生活魔法を実行中だったんだわ……」
「魔力の前に命が尽きそうな生活魔法だね。……ったく。仕方がないヤツだなぁ」
僕は呆れながらも、リュックから「椅子――特製スモーク硬化肉製」が封印されたガラス瓶を取り出した。
《食糧保存》を解除すると、手のひらサイズだった椅子は、みるみるうちに元の武骨な大きさへ復元されていく。
「ほれ、橙馬。お詫びに、この椅子をやるよ。ナイフで削って食べると、肉汁が凝縮されてて美味しいから」
「……は? 椅子? 食う? ガブッ! ……って、バカかよ! 椅子を食うワケないだろ……! お前、やっぱり検査のしすぎで、モグッ……頭の回路が、モグモグ……お花畑になってるのか?」
橙馬はそう悪態をつきつつも、どこからか取り出したマイナイフで椅子を猛烈な勢いで削り、頬張っていた。
……いや。
もはや、一心不乱に貪っていた。
「うぉぉぉぉ~~~ん!! うますぎりゅう~~っ!! なんだこれ、燻製の香りが脳天まで突き抜ける……! う・ま・す・ぎ・りゅ~~~っ!! ホノジといると、ずっと美味しいもの食べれりゅ~~~~っ!!」
こうして、僕の新生活の幕開けは。
腹に響く結界の不協和音と、椅子を食らううるさい相棒の咆哮から始まった。
かつての静かで、平和そのものの牧場暮らしとは程遠いけれど。
少なくとも、退屈だけは死ぬまでしなさそうだ。
それに、脳内にはすでに、これ以上に騒がしい連中が六人も住み着いている。
今さら外の世界に、うるさいやつが一人増えたところで。
……まあ、どうということはないだろう。
第二章は、これにておしまいです。
ここまで読み進めてくれた皆さま、
本当にありがとうございます。
一本の牛乳から始まった違和感は、
竜息茸、冷夏との出会い、瑠衣の痕跡、
そして謎の組織へと繋がっていきました。
美味しいミルクの秘密を知りたかっただけなのに、
どうしてこうなってしまったのでしょうか。
第三章『闇に灯る食卓』からは、本格的な学園編。
授業に寮生活、新しい仲間とライバル、癖の強すぎる教師たち。
そして、待ちに待った調理実習も始まります。
ただし——セントルファー魔法学園は、
焔乃士を平穏に卒業させてくれるほど、優しくはないようです。
賑やかで、美味しくて、ときどき命懸け。
そんな学園生活も、焔乃士の隣で見届けていただけるとうれしいです。




