第86話:虹色の何かが喋った
頬を刺す冷たい朝の風にさらされながらも、僕の足取りは、ここへ来たときとは比べものにならないほど軽かった。
ブラックウッド夫妻との、不器用なケジメをつけ終えた帰り道。
胸の奥に残る二人の温かさを、一歩ごとに噛み締めるように歩いていく。
竜息山で起きた出来事のうち、冷夏さんをはじめとする、自分以外の人間に関わることは伏せた。
学園を取り巻く、どこかキナ臭い疑惑についても話していない。
山で誰と出会い、何を持ち帰ったのかも伝えなかった。
それは、僕一人の判断で他人へ明かしていい話じゃないと思ったからだ。
その代わり、自分について話すべきことは誤魔化さなかった。
異常なミルクをきっかけに、竜息山へ入ったこと。
そこで、密猟者らしき何者かに傷つけられた鋼鉄毛皮牛を見つけたこと。
彼らの群れと、命懸けのやり取りになったこと。
そして、その経験を通して、僕がこれから何をしたいと思ったのか。
自分の口から話していい範囲で、伝えるべきことは、すべて伝えた。
僕の身勝手な本音も含めて。
『ホノちゃん、本当によかったね。魔法柵のこと、お二人とも全面的に協力してくれそうで』
(ほんとだよね。あの夫婦、いい人たちすぎるよ。いくら感謝しても足りないや)
ジュリアの弾むような声へ、僕は心の中で深く同意した。
竜息山は、危険な禁足地だ。
だから、「魔法柵を作って、アイアン・バイソンたちを保護したい」なんて、口で言うほど簡単に実現できる話じゃない。
僕が最初に片づけなければならない現実的な壁は――「権利」という、大人のルールだった。
そもそも竜息山は、この一帯でもっとも大きな権力を持つ地主の所有地らしい。
その地主は、山への出入りそのものを厳格に禁じてはいない。
だから、足を踏み入れただけで罪に問われるわけではないそうだ。
ただし、竜息山には竜息茸のような特異な植物や、アイアン・バイソン、ハクゲツをはじめとした強力な魔獣が生息している。
危険が、あまりにも大きい。
それもあって、明文化された規則とは別に、暗黙の了解として禁足地扱いされてきたらしい。
しかも最近は、密猟者らしきハンターたちの脅威まで加わっている。
だから一般人が「少し散歩でも」なんて、気軽に入るような場所ではなくなった。
いずれにせよ、出入りが自由だからといって、勝手に柵や建造物を作っていいわけじゃない。
竜息山へ強固な魔法柵を設置するなら、山の地主と、隣接する学園側。
その両方へ正式な許可を取り、交渉の席へ着かなければならない。
ただの一学生である僕には、ほとんど不可能な芸当だ。
けれど、地主の情報や、交渉に必要な細かな根回しについては、ロイさんたちが人脈を使って調べてくれることになった。
しかも、必要なら交渉の席まで、ブラックウッド夫妻の名前で用意してくれるという。
まさに至れり尽くせり。
頭が上がらないとは、このことだ。
僕は大切な約束を破った。
それなのに二人は、僕を頭ごなしに咎めるのではなく、
――やりたいことを、正々堂々とやれ。
そう言って、背中を押してくれた。
そんなことを言われて、嬉しくならないわけがない。
胸の奥から、力が次々と湧いてくるような気がした。
だから僕も、二人へ真っ直ぐに伝えた。
竜息山へ魔法柵を作り、アイアン・バイソンたちを理不尽な暴力から守りたいこと。
そのために必要になる莫大な資金や素材は、できる限り自分の力で集めたいこと。
悪意あるハンターたちから、あの命の居場所を守りたいこと。
話を聞いた二人は、まるで自分たちの夢について聞かされたみたいに、嬉しそうに笑った。
そして、ほとんど迷うことなく、
――全力で協力する。
と答えてくれた。
ロイさんは、「足りない金も俺が出す」と、男気全開で申し出てくれた。
けれど、エレナさんが即座に首を横へ振った。
「鴨葱くんの自立を邪魔しないで。鴨葱くんは、ここで働いて、自分で稼ぐのよ」
その一言で、ロイさんの提案は却下された。
そもそも、権利や許可の交渉という、もっとも重たい部分を助けてもらえるだけで充分すぎる。
そこへ金銭的な援助まで乗せてもらったら、さすがに僕のワガママが過ぎるし、自分の中で筋が通らない。
だから、ブラックウッド夫妻の人脈と、彼らが作る乳製品の知名度を借りて、大人同士の交渉の場を整えてもらう。
まずは、その形で落ち着いた。
本当に、いくら感謝しても足りない。
もちろん、交渉がまとまったからといって、すぐに魔法柵を作れるわけじゃない。
設置費用だけなら、どうにかなる可能性はある。
でも、魔法柵は作って終わりじゃない。
維持に必要な魔力や、定期的な整備、破損した場合の修繕費まで必要になる。
今の僕には、それを継続して支えられるだけの収入がない。
だから、まずは交渉と並行して、僕の“家”――〈旧・ブラックウッド牧場跡地〉を、本格的に始動させる。
牧場を安定させる。
美味しいものを作る。
それをたくさんの人へ届けて、しっかり稼ぐ。
その収入を、竜息山の魔法柵へ巡らせる。
牧場の成長と、アイアン・バイソンたちの保護。
二つは、別々の夢じゃない。
一つの循環として、繋げることができる。
あの極上のミルクにも負けないくらい、美味しいミルクを作ろう。
誰も食べたことがないほど美味しいチーズやヨーグルトを作って、たくさんの人を笑顔にする。
その笑顔から得たものを、今度は、竜息山で生きている命へ還していく。
何せ僕は、一流の魔法使いでも、凄腕の戦士でもない。
料理することが好きなだけの――命を育む、誇り高き酪農家なのだから。
(……自分のエゴを、ちゃんと話せてよかったよ。本当に)
『ただし、何もかもを完全に野晒しにしたわけではありませんでしたが』
(うん。だからこそだよ)
朝露に濡れた道を踏みながら、心の中で答える。
(誰かの事情まで、僕が勝手に話す必要はない。でも、自分のことを誤魔化さずに、本音で向き合えた。それが、すごく気持ちよかったんだ)
『ご主人様。ゆめゆめ、勘違いなさらないでくださいまし』
ミネルヴァの理知的な声が、僕の浮かれた気分へ冷水を浴びせるように響いた。
『私はまだ、あの二人を完全に信用したわけではございませんわ』
(あんなに深い話をして、あれだけ無条件に受け入れてもらったのに、まだ信用できないっていうの?)
思わず、少しだけ口を尖らせる。
(ミネルヴァも、そろそろ素直になればいいのに)
『これは、私が常に論理的かつ素直だからこそ申し上げているのです』
脳内で、ミネルヴァが眼鏡のブリッジを押し上げた。
『何せ私は、完璧にできる女、ミネルヴァちゃんなので』
(自分で「できる女」って、ドヤ顔で言っちゃうところは相変わらずだね……)
呆れながらも、足は止めない。
(まあ、どちらにせよだよ。僕は、あの二人を信じたいと思ってる。ミネルヴァとは違ってね)
『フッ……ご主人様』
ミネルヴァが、鼻で笑ったような気配がした。
『口では甘いことをおっしゃるわりに、私の“忠告”も、完全に無視したわけではなさそうですが?』
(ミネルヴァの案は、確かに合理的でアリだと思ったからね)
僕は、少しだけ肩を竦めた。
(あの二人を、僕の中で完全に純白にするためにも)
『……そうですか』
ミネルヴァの返事は、いつもより少しだけ静かだった。
『ですが、世の中に完全な純白など――そんな人間は、どこにもいないと思いますけれど』
その理知的な声が、どこか懐かしそうで。
そして、ひどく寂しそうに聞こえたのは――僕の気のせいだろうか。
これからの牧場のこと。
魔法柵の計画のこと。
地主や学園との交渉のこと。
頭の中で、いろいろな未来へ思いを巡らせながら歩いていると、気づけば、朝の光に包まれた自宅の前まで戻ってきていた。
時計を見なくても、だいたいの時刻はわかる。
もうすぐ、登校時間だ。
急いで作業着から学園の制服へ着替え、鞄を掴んで、学校へ向かわなければならない。
――そう思って、家の前で顔を上げたときだった。
「……うわ」
思わず、変な声が漏れた。
僕の家の扉の前に、見覚えのない人物が、堂々と立っていた。
いや。
正確には、「見覚えがない」というより、本能的に「直視したくない」と言うべきかもしれない。
爽やかな朝の景色の中で、そこだけが異次元みたいに浮いている。
『……おい、小僧』
脳内で、ガンテツの呆れた声が響く。
『なんか家の前に、チカチカして目に痛いやつがおるのう……』
その的確すぎる感想には、完全に同意するしかなかった。
「おはようっス!」
虹色の何かが、喋った。




