第85話:一言あると助かる
ロイさんは、ゆっくりと僕たちのもとへ歩み寄った。
エレナさんの隣まで来ると、無言のまま、僕を見下ろす。
背後から差し込む朝の逆光に遮られ、その表情は深い影へ沈んでいた。
けれど、岩山のような身体から発せられる圧だけは、はっきりと伝わってくる。
かつて荒れ狂う海で波を相手にし、陸では凶暴な魔獣と対峙してきた男。
その身体には、どんな状況でも決して揺るがない、重力のようなものが宿っていた。
「……牛乳、飲まないのか?」
ぽつりと落ちた声とともに、ロイさんの視線が、テーブルの白い瓶へ向けられる。
「……飲みます」
僕は震える手で瓶を持ち、コップへ傾けた。
トクトク。
白い液体が注がれていく音が、張り詰めた牛舎の中で、やけに大きく聞こえる。
片方の手でもう一方の手首を押さえ、どうにか震えを抑え込む。
冷たいコップを口元へ運び、味を確かめるように、ゆっくりと飲み込んだ。
「……美味しいですね。本当に」
そうだ。
この極上のミルクから、今回のことは始まった。
このミルクに含まれていた、ほんのわずかな竜息茸由来の魔力。
それが料理人としての僕の好奇心を刺激し、危険な竜息山へ、僕を引き寄せた。
――引き寄せた?
――本当に、そうか?
(……違う)
自分の中に生まれかけた言い訳を、慌てて噛み潰す。
(何を考えてるんだ、僕は。ミルクのせいにするなよ……!)
このミルクは、何も悪くない。
僕の料理人としての抑えきれない性質と、身勝手な本音。
それが、約束を破るという選択をさせた。
そこを誤魔化して、どうする。
牛舎の扉を開ける前に、もう絶対に誤魔化さないと決めたばかりじゃないか。
僕は顎を引き、ロイさんの目を真っ直ぐ見た。
影の中にある深海のような瞳は、僕の心の揺れも、これから言おうとしていることも、すべて見通しているように静かだった。
「すまないな。俺がもっと早く、鴨葱くんに飲ませてやれればよかったんだが……」
「っ! そんな! 謝るのはロイさんじゃないですよ!」
焦りと罪悪感で、声が少し裏返る。
「……謝るのは、僕の方です。お二人に、聞いてほしい話があります」
ロイさんは、短く一度だけ頷いた。
「ああ」
息を吸う。
緊張で喉の奥が乾き、張りついている。
「僕、竜息山に行きました」
ロイさんは瞬き一つせず、その言葉を受け止めた。
「そうか」
「ロイさんとの、『禁足地へ行くな』という約束を忘れたわけじゃありません。危険だとわかっていたうえで、自分の意志で行きました」
「そうか」
「絶対に行くなと、あんなに心配して言ってくれていたのに……僕は、約束を破りました」
「そうか」
「僕は……お二人の信頼を、裏切りました」
最後まで言い切るのが怖くて、言葉が一度、喉の奥で詰まった。
それでも、視線は逸らさない。
もう逃げない。
絶対に逃げたくない。
「……本当に、ごめんなさい」
沈黙が、重たい鉛のように落ちた。
怒鳴られるかもしれない。
殴られるかもしれない。
ここをクビになるかもしれない。
どんな結果でも受け入れようと、身体を固くする。
けれど、ロイさんの口から出てきた言葉は――。
「わかった。……許そう」
「……え?」
理解が追いつかなかった。
「許す……? どうしてですか!? 僕が一方的に約束を破ったのに……!」
あまりにも予想外で、間の抜けた声が出た。
ロイさんは、しまったとでもいうように目を細め、無精髭の生えた頬をガリガリと掻く。
「まあ、そもそもだ。許すとか、許さないとか。そういう次元の話じゃない気もするんだよな、これって……」
言いながら、少しだけ視線を逸らす。
僕の顔を見て安堵したせいで、本音が先に口から出てしまった。
そんな、不器用な顔だった。
「すまん。鴨葱くんが生きてる顔を見たら、つい安心してな。流れで『許そう』なんて、偉そうに言ってしまった」
ロイさんは、ごつごつとした手を顎へ添え、言葉を慎重に選ぶように間を置いた。
「俺が、鴨葱くんの生き方を許可する立場でもないのにな」
「でも……僕は、ロイさんとの大切な約束を破ったんですよ。それを許す、許さないじゃないなら……」
喉が、きゅっと締めつけられる。
自分から罰をねだる、言い訳がましい子どもみたいで嫌だった。
それでも、溢れてくる言葉を止められない。
「僕は、どうすればいいんですか……。どう考えても、ここは僕をきつく説教したり、こっぴどく責めたりするところでしょう……!?」
ロイさんは肩から力を抜き、長く、温かな息を吐いた。
「……俺は、違うと思うぞ。まず鴨葱くん、そんなに自分を責めないでくれるか」
ロイさんは一度だけ、隣のエレナさんへ視線を向けた。
エレナさんが、静かに頷く。
それを確かめてから、ロイさんは僕へ視線を戻した。
「俺にとって、鴨葱くんの体は、自分の体と同じくらい大切なんだ」
言い切ったあと、自分の口から出た言葉の甘さを噛み締めるように、わずかな間が空いた。
「まだ、出会ってから長いわけじゃない。勝手だと思われるかもしれないが……俺たちは鴨葱くんのことを、その、なんだ」
ロイさんは、居心地が悪そうに足元へ目を落とす。
「……家族のように、思ってるんだ」
むさ苦しい大男には似合わない、照れと戸惑いが混ざっていた。
それでも、その声だけはどこまでも真っ直ぐで、温かい。
「だから、まず……何事もなく、この場所へ帰ってきてくれたことに、心から感謝してるよ」
ロイさんは、僕の握っているコップへ優しい目を向けた。
まだ、ミルクが半分残っている。
「ありがとう。生きて帰ってきてくれて」
胸の奥が、熱いもので締めつけられた。
視界が滲み、ミルクの白さがぼやけていく。
「それに、まだ鴨葱くんが山へ行った理由も、ちゃんと聞いてないしな。頭ごなしに怒るより先に、まず話を聞かないことには、俺からは何も言えないだろ」
ロイさんは眉間を軽く押さえ、何かを推し量るように、ゆっくりと続けた。
「……鴨葱くんは、どうしてあの危険な竜息山へ行ったんだ?」
「……ミルクが、あまりにも美味しかったからです」
「ミルク?」
「学園で購入した『セントルファー・プレミアムミルク』です。そのうちの一本だけが……異様なまでに美味しかったんです」
ロイさんの太い眉が、わずかに動いた。
「異様に美味しかった……? ウチのミルクの味が、か?」
「……そうです! あ、変な誤解はしないでくださいね! ほかのミルクが美味しくないという意味じゃありません! 普段から最高に美味しいうえで、さらにそれを遥か彼方へブチ抜くぐらい美味しいミルクが、一ロット分だけあったってことです!」
一息で言い切ってから、慌てて息を吸う。
ロイさんの牧場のミルクへ、ケチをつけているように聞こえたくなかった。
僕の慌てようを見て、ロイさんがかすかに笑う。
けれど、その瞳の奥だけは、すぐに真剣なハンターのものへ戻った。
「わかった。いつものミルクとは明らかに違う、特別なものが混ざっていたんだな」
「はい。調べてみたら、そのミルクから、竜息茸に由来すると思われる魔力の痕跡が見つかりました」
「……竜息茸の、痕跡が?」
ロイさんは低く繰り返した。
その声に何が含まれていたのか、僕にはわからなかった。
「どういう経緯で混ざったのかは、わかりません。ただ、ブラックウッド牧場は竜息山に近い。何らかの繋がりがあるんじゃないかと思ったんです」
一度、震えそうになる息を整える。
「それで、確かめたくなりました。あの味の正体を。竜息茸とミルクの間に、何があったのかを」
ロイさんは、黙って僕の言葉を聞いている。
「……理性が吹き飛ぶくらい、美味しかったんです。あのミルクが、僕の酪農や料理に、何か大きなものをもたらしてくれるんじゃないかと思いました」
言葉にしながら、改めて自分の選択と向き合う。
「だから僕は、自分の勝手な判断で、竜息山へ入りました」
「……どこから入った?」
「〈旧・ブラックウッド牧場跡地〉からです。あの土地も、竜息山の隣にありますから」
僕は膝の上で、両手を強く握った。
「バレないように、あの土地を利用しました。最初から、そんなつもりで牧場跡地を買ったわけではありません。でも結果として、お二人から譲ってもらった土地を、自分の身勝手のために利用しました」
ロイさんの眉間へ、深い皺が刻まれた。
「……おいおい」
低い声とともに、ロイさんは重たい息を吐いた。
「それなら、やっぱり鴨葱くんだけの話じゃない。ウチの不手際だ」
「え……?」
「〈旧・ブラックウッド牧場跡地〉を鴨葱くんに売ったのは俺たちだ。あの土地が竜息山と隣接していることも、当然知っていた」
「でも、それとこれとは別に――」
「関係あるんだよ」
静かな声だった。
けれど、僕の言葉を呑み込むような、重さがあった。
「あの土地は、今の牧場より街から遠く、途中までの道も悪いだろ。セントルファーの街からの需要が増えて、もっと大きく、もっと円滑に運営できる土地が必要になった。それで、あそこを畳んで、今の場所へ移った」
ロイさんは、指先で強く眉間を揉んだ。
「竜息茸の群生地までは距離がある。そう簡単に危険が及ぶことはないと、俺たちは踏んでいた。だが、竜息山と繋がっていることに変わりはない」
「でも、僕が勝手に山へ入ったんです。土地が山と繋がっていたからって、ロイさんが――」
「それだけじゃない」
ロイさんの声が、わずかに低くなった。
「ウチが出荷したミルクから、原因のわからない竜息茸の痕跡が見つかったんだろ?」
「……はい」
「なら、まず調べなきゃならん。牛の放牧管理に問題がなかったか。餌や水、出荷工程のどこかに異常がなかったか。俺たちが気づかないまま、普通とは違うミルクを外へ流したことは間違いない」
ロイさんは、自分自身を責めるように短く唸った。
「鴨葱くんが美味しいと感じたから、今回は運がよかっただけかもしれない。もし危険な変化だったら、鴨葱くんだけじゃない。飲んだ人全員の命を危険に晒していた可能性もある」
「それはそれ、これはこれです!」
僕は、弾かれたように首を振った。
「もちろん、牧場の管理やミルクの品質については、ブラックウッド牧場側の責任もあるかもしれません。でも、それと僕が『禁足地へ入るな』という約束を破ったことは別です!」
胸の奥から込み上げてくる熱を、言葉へ変える。
「僕は、止められるとわかっていたから話さなかった。自分の好奇心と都合を優先して、自分で山へ入ると決めたんです。ロイさんたちのせいじゃありません!」
ロイさんは、何かを言い返そうと口を開いた。
けれど、一度それを止める。
しばらく僕の顔を見つめたあと、静かに言った。
「……山へ入ったのが、鴨葱くん自身の選択だったことまで、なかったことにするつもりはない」
「なら――」
「だが、その選択が生まれる起点を作ったのは、俺たちだ」
ロイさんの声には、迷いがなかった。
「ウチのミルクに異常がなければ、鴨葱くんが竜息茸へ辿り着くこともなかった。危険な山と隣り合った土地を譲ったのも俺たちだ。責任の所在ってのは、より起因するところに集中するもんだ」
「でも……」
「鴨葱くんが自分の選択を引き受けようとしてくれていることは、わかってるよ。だからって、俺たちの責任まで軽くなるわけじゃない」
その言い方は、優しいのに、どうしようもなく頑固だった。
「お互いに『それはそれ、これはこれ』だけで、綺麗に切り分けられないこともある。それが、理不尽な大人の世界ってやつさ。面倒くさいかもしれないがな」
「僕のことを、無理に許そうとしなくても大丈夫ですよ!?」
思わず、声を張り上げていた。
「僕、もう十六歳なんです。さすがに、やっていいことと悪いことの違いくらいはわかります。自分の行動の責任は、自分で取ります……!」
強がる僕の言葉を聞いて、ロイさんは少しだけ呆れたように、それでもひどく優しい息を吐いた。
「いや。子どもだよ」
深く、重く言い切る。
「……俺からしたら、な」
それからロイさんは、大きな手を伸ばした。
節くれ立った掌が、僕の頭へ乗せられる。
「だから、無理に大人になろうとしなくていい」
髪を乱さないように、ゆっくりと撫でられる。
「鴨葱くんに、これまでどんな過酷な事情があったのか、俺は知らない。だが、ここでまで背伸びをして、全部を一人で抱え込む必要なんてないんだよ」
「……でも、僕がロイさんとの大切な約束を破ったのは、事実です」
「まあ、いずれにせよ、という気もするがな」
「いずれにせよ?」
ロイさんは目を細めた。
「鴨葱くんの目は、『止めても行く』。そういう目をしていた」
「え……」
「次に似たようなこと――自分の酪農や、実家のために、どうしても欲しい何かが目の前に現れたとき」
ロイさんの深い瞳が、僕の奥底を覗き込む。
「鴨葱くんは、自分の足を完全に止めると、絶対に誓えるか?」
「…………」
「誓えないだろ」
「……そうかもしれません」
否定できなかった。
もう一度、同じ選択を迫られたとき。
僕はどうするのか。
危険だからと、最初から諦められるのか。
きっと、僕は――。
「ロイさんには、僕の底の底まで、全部見抜かれちゃってますね……」
「まあな。俺の直感は当たるんだ。海でも陸でも、嫌というほど、いろんな経験をしてきたからな」
ロイさんは、おどけるように大きな肩を竦めた。
でも、すぐに言葉を置き直すように続ける。
「ただ、『全部』は言いすぎだ。俺は、鴨葱くんについて知らないことなんて、星の数ほどある」
「……ロイさん」
「そもそも、他人の心を全部わかり切るなんて、不可能なんだよ。だから俺は、わからないことを聞く。鴨葱くんが何をしたいのか、本人の口から聞かなきゃならん」
ロイさんは一拍置き、深海のように凪いだ瞳で、僕の目を真っ直ぐ捉えた。
「もし、俺が頭ごなしに止めても、どうしてもやりたいことなら……覚悟を持って、突き通してほしい」
その言葉が、すとんと胸の奥へ落ちた。
「まあ、謝る代わりに、これからは行く前に一言あると助かるってもんよ」
ロイさんは、少しだけ笑った。
無精髭の混じった笑みには、不器用な優しさと同じくらい、本気で心配した人の哀しさが滲んでいた。
「どれだけ理由があろうと、俺たちが鴨葱くんの命を心配したことに変わりはないからな」
僕は、膝の上で拳を握り締めた。
爪が食い込むほど強く。
震えそうになる指先を、押さえ込む。
「なら――僕に、自分なりのケジメをつけさせてください」
ロイさんの優しさに、ただ甘えて終わりたくはなかった。
「……ロイさん。僕はもう、自分にできない約束はしません」
ロイさんの目を、真っ直ぐ見つめる。
「次からは、お二人の話を聞いたとき、もっと慎重に、いろいろな可能性を考えます。それでも、自分がどうしてもやりたいと思ったのなら……止められるのが怖いからという理由で、相談すべきことを意図的に黙るのは、もうやめます」
誰かの事情まで、勝手に話すという意味じゃない。
僕自身の選択を誤魔化すために、相手を出し抜かない。
それが、今の僕にできる約束だ。
「伝えられる状況なら、必ず事前に伝えます。納得してもらえるように、自分の言葉で説得します」
一度、視線を足元へ落とした。
それから、もう一度、力強く顔を上げる。
「……ただ、それでも。僕の人生でいちばん大切なのは、実家の酪農です」
絶対に譲れないものを、言葉にする。
「だから、どうしても必要だと思ったときは……僕はまた、自分のワガママを押し通そうとするかもしれません」
怖くても、今度は言い切る。
「それだけは、嘘をついて否定できません」
すべてを吐き出した。
自分をよく見せるための言葉も。
赦してもらうための嘘も。
もう、何も残っていない。
ロイさんたちには、まあまあなことを言ってる自覚もある。
張り詰めた沈黙の中で、ロイさんは、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「……それが正常だ」
「正常……?」
「ああ。むしろ、安心したよ」
ロイさんは牛舎の奥へ視線を向けた。
静かに息づく牛たちの温度を、言葉にする前に確かめるように。
「俺たちを家族のように思ってくれることは嬉しい。だが、俺たちのために、鴨葱くんが自分の人生の芯を曲げるようになったら、その方がよっぽど心配だ」
ロイさんは、もう一度僕を見る。
「鴨葱くんの人生で、俺たちが一番じゃなくて安心したよ」
胸の奥が、また熱くなった。
でも少し、申し訳なかった。
「この国は、今こそ休戦状態だが、〈迦導国〉は由緒正しき戦争国家だ。いつまた、血なまぐさい事態になるかわからない」
ロイさんの声に、遠くを見るような深さが混じる。
「だが、国や大人の身勝手な事情に、鴨葱くんたちのような子どもの未来を奪わせる必要なんて、どこにもない」
拳が、静かに握られた。
「できることなら、子どもたちが無邪気に夢を追える安寧の時代が、いつか来ることを願ってるよ」
「ロイさん……ありがとうございます」
「だから鴨葱くん。自分を責めて、ウジウジするのはやめろ」
ロイさんは、少し照れくさそうに低い咳払いをした。
「大人になるってことは、覚悟を腹に決めることだ。どんな結果でも、自分の選択が招いたものだと受け止める。そして、その責任を果たすために尽力する」
自分自身にも言い聞かせているみたいだった。
「でも、今の鴨葱くんは、まだ子どもなんだ」
ロイさんの声が、わずかに柔らかくなった。
「……まだ子どもでいてくれると、大人の俺としては助かる」
頭に置かれた大きな手が、もう一度、僕の髪を撫でる。
「だから鴨葱くんは、正々堂々と、自分のしたいことを追求すればいい」
ロイさんは一瞬だけ目を逸らし、それから力強い眼差しを戻した。
「ルールに盲目になる必要なんてない。そのルールが、自分にとってどんな意味を持っているのか。破った先に何があるのか。自分で考えてくれればいい」
そして、少しだけ笑う。
「それでも、どうすればいいかわからなくなったときは……それこそ、大人である俺たちの出番ってわけだ」
「でも、それじゃあ、ロイさんたちにばかり……」
「鴨葱くんの責任を、全部取り上げるつもりはないよ。だが、一人じゃ背負いきれないものまで、意地になって抱え込む必要もない」
ロイさんは、自分の胸を大きな親指で叩いた。
「無茶をしたあとの尻ぬぐいぐらいは、まだ俺たちに任せておけ」
隣で聞いていたエレナさんが、ふわりと僕の方へ身を寄せる。
「そうよ、鴨葱くん。あなたはもう、一人で全部を抱え込む必要なんてないんだから」
ロイさんは、空気を明るく変えるように咳払いをして、ガハハと笑った。
「三人で力を組めば、百人力の助、無双の巻っつってな!」
エレナさんの眉尻が、呆れたようにくいっと上がった。
「あなた、自分では気づいていないかもしれないけれど……その言い回し、致命的にダサくて変よ?」
「お、おう……そうか?」
途端にタジタジになるロイさん。
エレナさんは、諦めたようにため息をつく。
二人のやり取りを見ているうちに、固まっていた僕の口元も、自然にほころんでいた。
それでも、胸の奥には、まだ少しだけ申し訳なさが残っている。
「そ、そんな……本当に、こんなに優しくしてもらっていいんでしょうか。僕はまだ、お二人と出会って間もないのに……」
「出会って間もない私たちのために、命を懸けて戦ってくれたのは、どこの誰さんかしら?」
エレナさんが、優しく首を傾げた。
「そうだ」
ロイさんも、迷わず頷く。
「あのとき、本来なら守るべきだったのは俺たちの方だ。怖かったはずなのに、鴨葱くんは俺たちの前へ立った」
ロイさんの言葉に、力が籠もる。
「それだけで、俺たちがどれほど感謝したか。牛神様と鴨葱くんに、あるのは心からの感謝だけだ」
それから、少しだけ困ったように笑った。
「……まだ、理由がいるか?」
何かを答えようとした。
けれど、声にならなかった。
目から、涙が溢れる。
僕の感情は、もうぐちゃぐちゃだった。
泣きじゃくる僕を、二人が両側から抱き締める。
ロイさんの大きくて硬い腕。
エレナさんの細くて温かな腕。
二人の体温が、冷えきっていた身体へ染み込んでくる。
胸の奥に残る罪悪感が、これで完全に消えたわけじゃない。
約束を破った事実も。
二人を心配させたことも。
僕自身が選んだ結果も。
全部、残っている。
それでも――。
少なくとも今は、僕はここにいていいのだと、心から思えた。
気づけば、頬は温かな涙で濡れていた。
――いや。
「濡れていた」なんて、少し見栄を張った。
止められるはずもなく、涙はボロボロと溢れ続けていた。
僕は手の甲で、頬をゴシゴシと乱暴に拭う。
それから今度は、二人の前で、真っ直ぐ堂々と声を上げた。
「――早速なんですが、お二人に相談したいことがあります!」
自分のことを誤魔化さない朝って、なんて気持ちがいいんだろう。
口の中に残る甘いミルクの味が、いつもより少しだけ、しょっぱく感じた。




