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蹄煮込み、経験を喰らう――六英雄が棲む酪農少年は、調理魔法で無双する  作者: 迦月 メイ
第二章:言葉を探す少年

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第84話:ヒュンゼル酪農

「どうしたの、鴨葱くん。いつもだったら、もう美味しそうに食べ始めている頃なのに。もしかして、食欲がないのかしら?」


 エレナさんは、温かなスープの湯気越しに僕を見た。


 ふわりと揺らめく白煙の向こうから、生活に根ざした鋭い目が、僕の顔色を確かめている。


 ほんのわずかな不調すら見逃さない。

 長年、命と向き合ってきた酪農家の目だった。


「いえっ、食欲はあります! こんなに美味しそうな朝食、今すぐにでも平らげたいですよ。……ただ、このミルクに驚いちゃって」


「ふふふ。そうよね。いつも牛乳は出荷か加工に回してしまって、手元には残らなかったものね。もっと……鴨葱くんにも飲ませてあげるべきだったと、今になって思うわ」


「そんな……! 求めている人へ先に渡すのは、商売として当然ですよ! だって、酪農は趣味じゃなくて生計なんです。そこに需要があるなら、優先して回す。至極当たり前の話だと思います!」


 自分でも驚くほど、早口でまくし立てていた。


 理路整然とした商売の理屈で、心の表面を武装していないといけなかった。


 そうでもしなければ、エレナさんから向けられる純度百パーセントの優しさが、そのまま罪悪感となって、胸の奥へ突き刺さってしまいそうだったから。


 エレナさんは、ゆっくりとスプーンを置いた。


 カチャン。


 硬くて小さな音が、静かな牛舎へ響く。


 怒っているわけじゃない。

 むしろ、僕の中にある何かの形を、慈しむように確かめている顔だった。


「そうね……でも、違うの。だからこそ、なのよ」


 エレナさんは、僕の反応を待つように一拍だけ間を置いた。


「……だからこそ?」


「私、数字に強いのよ。知ってるかしら」


「はい。それは、なんとなくエレナさんを見ていたらわかります。僕も、似たような雰囲気を持つ人を知ってますから! あ、性格は全然違いますけどね!」


 脳裏に、眼鏡を押し上げるミネルヴァの冷徹で美しい顔が浮かぶ。


 けれど、目の前のエレナさんが纏う空気は、あの数字と論理をこよなく愛するエルフメイドより、ずっと柔らかい。


 それなのに、どこか似ていると思った。


「……雰囲気が似てるのに、性格は違うのね。なんだか矛盾しているみたいで、面白いわぁ。でも……なんとなく、わかる気がするわ」


 エレナさんは、小さく肩を竦めた。


「どういうことですか……?」


「雰囲気が似てるっていうのは、きっと『数字に強い』という意味での賢さなのよ。つまり、それを扱うのが得意かどうかってこと。私は計算や数字を扱うのは得意だけど、数字そのものは、あまり好きじゃないの」


「得意なのに、好きじゃない……?」


「ええ。鴨葱くんの知っているその人は、きっと『数字そのもの』を愛しているんじゃないかしら?」


「……っ! はい! まさしくそれです! だから雰囲気が似てるって感じたのか……」


「ふふふ」


 エレナさんは、テーブルに置かれたミルクの白い瓶へ、そっと両手を添えた。


 朝の冷気でかじかんだ指先を、その温度で温めるように。


 真っ白な瓶が、むせ返るような牛舎の匂いの中で、妙に温かな「家」の色を放って見えた。


「あのね……私、鴨葱くんと少し似たような境遇でね。実家は、小さな田舎の村で農業を営んでいたの。いくつかの野菜を季節ごとに育てて、酪農も、今のここよりずっと小さな規模だけどやっていたわ」


「なんだか、すごく親近感が湧くお話ですね」


「あら。親近感を召喚するのは、まだ早いわよ」


 エレナさんは、いたずらっぽく片方の眉を上げた。


「だって私、実家の農業が大嫌いだったから」


「えっ」


「ふふふ。納得してない顔ね。安心して。『今』は大好きよ。でも、当時は本当に嫌いだったの」


 笑っているのに、その視線は少し遠い。


「代わり映えのしない、土と泥にまみれた毎日が、どうしても窮屈に感じられて。この村が、私を閉じ込める檻みたいに思えたわ。強烈な肥溜めの匂いも、獣の体臭も、朝からうるさく鳴く鶏も。全部が鬱陶しくて、嫌だった」


 牛舎の奥から、マチルダたちの穏やかな反芻(はんすう)の音が聞こえてくる。


 そのゆっくりとした命のリズムが、エレナさんの記憶の底に沈んでいる、遠い故郷の音と重なっているように思えた。


「だから私は、こんな田舎を飛び出して、都会で計算士になったの。スマートな魔導バスを颯爽と乗りこなすような、洗練されたシティボーイと結婚するんだって、心に固く誓ったぐらいだもの」


「……もしかして、それがロイさんですか?」


「ブッブー。ハズレ」


 エレナさんは、おかしそうに笑った。


「もし彼がそういうタイプだったら、結婚していたか怪しいところだわね。私はすっかり都会に染まっていたけれど、ディスコで踊り狂うような人じゃなくて……潮風に吹かれながら漁業を営んでいた、泥臭い彼を好きになったのよ」


「へえ。ロイさんって、漁業の出身なんですね」


「ええ。もともとは、身寄りのない孤児だったらしいのだけど……たまたま誰かにもらって食べた魚が、あまりにも美味しかったんですって。それで『自分もこの魚を獲る仕事に就きたい』って、ただそれだけの理由で飛び込んだらしいわ」


 エレナさんは愛おしそうに語りながら、スープの表面をスプーンで一度だけ、くるりと混ぜた。


 黄金色の脂が小さな渦を描き、すぐに静かな水面へ戻っていく。


「彼がちょうど二十歳になった年にね。都会の外れにある寂れた港町で、経営が傾いて、後継ぎもいなかった老齢の漁師さんに頭を下げて、その船と仕事を受け継いだらしいの」


「二十歳で……?」


「借金まみれのオンボロ船で、そのうえ彼は絶望的に数字に弱いくせに、持ち前の体力と根性だけで、なんとかギリギリ生きていけるところまで立て直したらしいわ」


 そこまで語ると、エレナさんは呆れたように、それでも幸せそうに息を吐いた。


「けれど、せっかく獲れた魚も、『お腹を空かせた人』を見ると、あまりにも安く叩き売ってしまうのよ。いつ借金地獄へ逆戻りするのか、帳簿を見ながら、いつもヒヤヒヤしていたわ」


「エレナさんは、その頃からロイさんの帳簿を見ていたんですか?」


「私は、たまたまお客として彼に出会っただけだったの。でも、あの底抜けに素敵な笑顔と、絶望的な経営センスのなさを見ていたら、放っておけなくなって。そのギャップにやられて、思わず惚れてしまったってわけ。……本当に、バカよねぇ」


「……すごく鮮明に想像できます」


 ロイさんの、無骨で優しいくせに、人のためなら平気で無茶をしてしまう不器用さ。


 あれは、冷たい数字ではなく、目の前にいる人の温度を優先してしまう人の顔だ。


(それにしても、凄腕のハンターで、戦争経験者で、今は立派な牧場主。その前は、命懸けの漁師……?)


 思わず、頭の中でロイさんの経歴を並べてみる。


(あの人、いったい人生を何周ぶん生きてるのさ……?)


 海のように底知れない懐の深さは、陸の泥だけじゃなく、荒波にも揉まれてきたからこそ、形作られたものなのかもしれない。


 潮を含んだ風と、乾いた土埃。


 その両方の厳しさを知る、大きく逞しい男の背中が、脳裏に浮かんだ。


「私は、彼に会って初めて気づいたの」


 エレナさんは、過去の自分へ語りかけるように、柔らかな息をついた。


「泥にまみれた実家の農業が、どれだけ素晴らしくて、尊いものだったのか。細々とした営みでも、自分たちの手で育てた命によって、小さな村の経済と胃袋を、確かに回していたのよ」


 エレナさんの指先が、ミルク瓶を優しく包む。


「子どもの頃は、そんなことどうでもいいと思っていた。むしろ、あんなに嫌っていたのに。不器用な彼と出会ったことで、両親がどれほどすごいことをしていたのか……ようやく気づかされたわ」


 一拍置いて、エレナさんは真っ直ぐ僕を見た。


「それからは、そんな素敵な実家の営みが、いつまでも、満足いくまで続いてほしいと、心から願ったの」


 その言葉が、胸の奥の柔らかな場所へ落ちた。


 ――願った。


 たった三文字の言葉なのに、痛いほど真っ直ぐで、切実だった。


 当たり前だと思っていた日常を、一度は自分から手放した。

 だからこそ、取り戻したそれを、今度は失いたくなかったのだろう。


「……でも、それも長くは続かなかったの。都市化の話が来てね。隣町がどんどん開発されて、便利で大きな商店街ができた。それ以来、『安いし便利だから』という理由で、多くの村人は隣町まで買い物に出かけるようになったのよ」


 エレナさんは、温めていたミルク瓶から静かに手を離した。


「一部の義理堅い村人たちは、変わらず実家から買ってくれた。でも、このままじゃ確実に潰れてしまう。私はそれを見て、強い危機感を覚えたわ。だから、都会で身につけた計算士としての能力をすべて使って、実家の農業を受け継いだの」


「エレナさんが、自分で……」


「ええ。それからは、とにかく必死だったわ。農場を大きくして、仕入れと流通を見直して、できる限り無駄をなくした。売上規模も業界のトップクラスまで上り詰めて、広大な農場と、画期的な酪農の完全管理システムも作ったの」


 エレナさんは、僕の反応を確かめるように目を細める。


「……『ヒュンゼル酪農』って、聞いたことないかしら?」


「……ええっ!?」


 カチャンッ!


 手にしていたスプーンが、スープ皿へぶつかった。


 心臓が、ドクンと大きく鳴る。


「ヒュンゼル……!? 業界最大手じゃないですか! あれ、エレナさんが作ったんですか!?」


(嘘だろ……。僕が最初に働いた場所……!)


 脳裏に、無機質で冷たい光景が蘇る。


 広大な敷地へ整然と並ぶ巨大な牛舎。

 最新鋭の自動搾乳機。


 そして、至るところへ死角なく設置された魔導監視カメラ。

 分刻みで従業員を管理する、緻密な作業工程。


 人間は、見ていなければサボる。

 そんな前提で作られたように感じた、息苦しい場所。


 僕が耐えきれずに辞めた、もっとも苦手だった牧場の一つ。


(まさか、あの仕組みを作ったのが……エレナさんだったなんて)


 でも、だからこそ、わかることもある。


 あれほど無駄のない巨大な管理システムは、数字を自在に扱える人でなければ作れない。


 実家を守りたいという切実な願いと、エレナさんの並外れた才能。

 その二つが組み合わさって、あの場所を生んだのだ。


「……鴨葱くんのその反応、知ってくれてるのね」


 エレナさんが少しだけ身を乗り出し、期待に満ちた瞳で僕を見る。


「知ってるも何も……僕、あそこで働いたことがありますよ!」


 喉元まで、言葉が出かかった。


 監視が息苦しくて。

 牛たちまで、数字の一部として扱われているように感じて。

 耐えられずに辞めてしまった。


 けれど、それを今、どう伝えればいいのかわからなかった。


 目の前のエレナさんが、あまりにも脆く、何かを求めるような顔をしていたから。


「……そう!」


 エレナさんの口元が、ふわりと緩んだ。


「それは、すごく嬉しいわ。一時とはいえ、私が必死に受け継いだ酪農へ、鴨葱くんが関わってくれていたなんて……本当に、嬉しいものね」


「……こちらこそ、光栄です。それが巡り巡って、今こうしてブラックウッド牧場で働けているのも、なんだか牛神さまの素敵な導きを感じますね……」


「ええ。まさしく、牛神さまの導き……だったはずなのだけどね……」


 エレナさんの笑みが、ふっと細くなる。

 日陰でひっそりと咲く花のように、どこまでも儚く、哀しそうに。


「……何か、あったんですか?」


「私は、愚かなことに……いちばん大切だったはずの、実家の農業を、自分の手で潰してしまったのよ」


「……え?」


「最初は、実家の小さな営みを守ろうと思って始めたはずだった。でも、いつの間にか効率という数字に溺れて、金に溺れて、名誉に溺れて……愛情を込めて育てられてきた実家の農業を、『非効率の極みだ』と見下して、潰したの」


 エレナさんは視線を落とし、縋るように、もう一度ミルク瓶へ手を添えた。


「そこには、数こそ多くなくとも、両親が手塩にかけた野菜や牛乳によって、確かに幸せになっていた人たちがいた。それなのに私は、そんな人たちの暮らしまで『非効率』の一言で罵って、十把一絡げ(じっぱひとからげ)にして、握り潰したのよ」


 白い瓶を包む指先に、わずかに力が入る。


「本当に……本当に、愚かだったわ」


(……そうか)


 ヒュンゼル酪農で感じた、あの息が詰まるような苦しさ。


 あれは、エレナさんが置き去りにしてしまったものの形でもあったのかもしれない。


 効率を追うほど、守れる命は増えていく。

 暮らしは安定し、働く人も増え、より多くの人へ、より安く食べ物を届けられる。


 それでも、その数字の外側へこぼれ落ちるものは、確かにある。


 だから今のブラックウッド牧場には、魔導監視カメラが一つもないのだろうか。


 ここは、エレナさんにとって、ただの仕事場ではないのかもしれない。


 取り返せない過去を抱えたまま、それでももう一度、命と人の温かさへ触れるために作った場所。


 僕がここで感じていた居心地のよさも、エレナさんが選び直したものの一つなのだろうか。


「……エレナさん」


 自分でも驚くほど、小さな声が出た。


「……大丈夫よ。もう、自分ばかりを責めているわけじゃないの」


 エレナさんは、困ったように笑った。


「巨大になったあの産業も、今は適任者へ譲っているわ。ただ……あの頃に染みついた癖で、無意識に数字を追って、計算してしまう自分がいるのも事実なのよ。それを自覚する瞬間は、ひどく自分が嫌になるわね」


 エレナさんは、短く息を吐いた。


「数字を扱うのは得意。数字が弾き出す結果の快楽に溺れた過去もある。それでも私は、数字そのものを追い続けることが、やっぱり好きじゃないの。だからこそ……」


 一瞬だけ、言葉が止まる。


「効率や利益なんて考えず、いつも頑張ってくれている鴨葱くんに、真っ先にこの牛乳を振る舞うべきだった……と、今になって後悔しているのよ」


「そう……ですか」


「あら。鴨葱くん、どうしてそんな顔をしているのかしら」


 エレナさんは、僕の表情を確かめるように覗き込む。


「……私の昔話、やっぱりよくなかったわね。駄目ね、私。ここぞというときに、いつも選択を間違えてしまうわ」


「違いますよ! 絶対に違います!」


 思わず、身を乗り出していた。


 勢い余って、木のトレーがガタッと大きな音を立てる。


「今、その過去を話してくれたこと、心から嬉しいと思ってます。だって、僕のことを信頼していなかったら、絶対に話せない内容じゃないですか」


 胸の中から溢れてくるものを、僕はそのまま言葉にする。


「僕を、この牧場の一員として受け入れてくれているんだと思えて……本当に、心が温かくなるんです。ここで過ごした時間は、まだ短いですけど。僕はもう、エレナさんとロイさんに、数え切れないくらい感謝してます。本当に」


「……そう言ってもらえて、私も嬉しいわ」


 張り詰めていた糸がほどけたように、エレナさんが優しく微笑む。


「ただ……わかりません」


「鴨葱くん?」


 僕は、目の前で揺れるスープの湯気を見つめた。


 膝の上で、泥にまみれた拳を強く握り締める。


 言葉を間違えれば、すでに傷ついているエレナさんを、もっと傷つけてしまうかもしれない。


 怖かった。


 それでも、ここで嘘はつけない。

 彼女の優しさを、何も話さないまま受け取ることはできなかった。


「……僕は、まだガキなので、難しいことはわかりません」


 一度、静かに息を吸う。


「でも、生きるためなら……それは仕方なかったんじゃないかって、思ってしまうんです。そう思わないと、怖いんです」


 エレナさんが、わずかに目を見開いた。


「僕、ひもじいの、知ってるんですよ」


 腹の奥に、あの頃の冷たさが蘇る。


「餌が足りなくて、牛がどんどん痩せていく。呼吸が浅くなって、目の光が少しずつ弱くなっていく。あれを近くで見ていると……『理想や綺麗な言葉だけじゃ、腹は満ちないし、命は繋げない』って、勝手に身体が、骨の髄まで覚えるんです」


 空腹は、心を削る。


 人から優しさを奪い、愛している命が少しずつ衰えていくのを、ただ見ていることしかできなくなる。


 あの感覚を、僕は知っている。


「だから、強さが必要なんだと思います。命を守るためには、お金も、力も、それを支える数字も必要で……」


 言葉にしながら、自分自身へ言い聞かせているような気がした。


「だから、商売って必要なんだと思います。必要なときに、必要なだけ、大切なものを守れるように、ちゃんと強くなるための……生きていくための手段として」


「……鴨葱くん」


「でも、それと同時に……小さな村にある、ささやかな幸せが、『効率的じゃないから』という理由だけで、どうでもいいものとして扱われるのも、僕は絶対に嫌なんです」


 視線を落とし、自分の掌を見る。


 牛の温もりへ触れる手。

 命を絶つ刃を握る手。

 そして今、温かなミルク瓶を受け取る手。


 奪うための手と。

 与えるための手。


「……わがまま、ですよね」


 それでも、そのわがままを諦めたくはなかった。


「僕は、巡り巡って、いつか必ず戻ってくるって信じたいんです」


 もう一度だけ、深く息を吸う。


「大きく膨らんだ幸せや利益が、いつか必ず、小さな場所にも還元されて戻ってくる。そこで誰かがこの牛乳を飲んで、『うまい』って無邪気に笑えるように」


 僕は顔を上げ、エレナさんの少し潤んだ目を、真っ直ぐ見つめた。


「そうじゃなかったら……生きるってことが、ただ強い者が弱い者から奪い続けるだけの、虚しいゲームに見えてしまうから」


 それだけは、嫌だった。


「……死ぬ命は巡る命。そう、信じたいんです」


 エレナさんの目が、わずかに見開かれた。


 それからしばらく、彼女は言葉を失ったように黙っていた。


 牛舎の奥から、牛の穏やかな声が聞こえる。


 その優しい声が、二人の間に生まれた静寂へ、ゆっくりと溶けていった。


「……ありがとう、鴨葱くん」


 やがて、エレナさんが小さく息を吐いた。


「なんだか、ずっと背負っていた心の荷が、少しだけ軽くなったわ」


「僕は、思ったことを言っただけです」


「それでもよ」


 エレナさんは、僕の顔を懐かしむように見つめた。


「あなた……私たちの息子と、とても似たことを言うのね。今になって、ようやく……あの子が私たちへ何を伝えようとしていたのか、少しだけわかった気がするわ」


「……息子さん、ですか?」


「ええ。あなたと同じぐらいの年頃の、とても健気な子だったの。本当に……」


 エレナさんの瞳の奥に、揺れる水面のような光が浮かんだ。


 愛おしい記憶への懐かしさ。

 それと同時に、まだ完全には癒えていない、生々しい傷。


「……いつか、ちゃんと話したいと思うわ。ロイと一緒に、あなたへ真っ直ぐ伝えられる時が来たら」


「……楽しみに、待ってます」


「ええ。ありがとう」


 エレナさんは目元を拭うこともせず、少しだけ笑った。


「……この牛乳ね。ロイが『持ってけ』って言ったのよ」


「え?」


「『あいつ、きっと落ち込んでるから、これ持ってってやれ』って。最初は、その意味がよくわからなかったけど……今、鴨葱くんの顔を見て、ようやくわかったわ」


 エレナさんの声は、問いかけというより、確信に近かった。


 すべてを見透かしたようでいて、決して無理に踏み込んではこない。


「あなた、私たちに何か伝えたいことがあるのよね?」


 僕は、小さく、でもはっきりと頷いた。


「……はい」


「やっぱり、そうなのね。ロイは、もう少ししたらここへ来るわ。きっと最初は、『私と二人だけの方が話しやすいだろう』って、わざと時間を外してくれたみたいなの」


 エレナさんは、仕方のない人だとでも言うように笑った。


「本当に、不思議な人よね」


「……そうですね。やっぱりロイさんは、人の心まで読み切る一流のハンターです」


「ふふふ。どうしてそこで、ハンターの話になるのかしら」


 小さく笑ったあと、エレナさんは、もう一度ミルク瓶へ目を向けた。


「でも……やっぱり、わかったわ」


「わかった? 何がですか?」


「私は、鴨葱くんに、さっさとこの牛乳を振る舞うべきだったってこと」


「エレナさん……」


「鴨葱くんが、私の過去の決断を『生きるためだった』と受け止めてくれたこと、本当に嬉しかったわ。だからこそ、私は私自身の『今』の想いも、もっと肯定したくなったのよ」


 エレナさんは、僕の前にあるミルク瓶を指先でそっと押した。


「やっぱり私、冷たい数字より、こうしてすぐ近くにいる人の笑顔が好きなんだって」


 その言葉は、目の前にあるミルクみたいに甘く、温かかった。


 牛舎に満ちた藁と土の匂い。

 牛たちの息遣い。

 スープから立ち上る、柔らかな湯気。


 胸の奥で固まっていた罪悪感は、消えてはいない。


 ただ、その温かさへ触れたことで、ようやく、自分の言葉で話せる形へとほどけていく気がした。


 ――そのとき。


 ガタリ。


 重たい木製の引き戸が、外側からゆっくりと動いた。


 木が軋む低い音が、牛舎の空気を引き締める。


 開かれた入り口から、朝の刺すような冷気が流れ込んできた。


 眩しい逆光を背負い、岩山のように大きな影が落ちる。


 ゆっくりと顔を上げた僕の視線が、その影と真正面から交差した。


 もう、逃げるつもりはない。

 小手先の誤魔化しも、言い訳もいらない。


 そこには、圧倒的な父性を思わせる厳しさと、深海のように静かで凪いだ瞳があった。


「……おう。邪魔していいかい?」


 ロイさんが、静かに入ってきた。


 誤魔化さない一日の――本当の『本番』が始まる。

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