第83話:誤魔化さない朝
外はまだ、深い藍色に沈んでいた。
東の空の輪郭が、わずかに白み始めたばかりの早朝四時。
学園の生徒たちが、温かいシーツの海で微睡んでいる時間。僕は新しい“家”の薄暗い部屋で、使い古した作業着に袖を通していた。
引っ越してきて、まだ十日ほど。真新しい壁紙の匂いも、体重をかけるたびに鳴る床の軋みも、何もかもが僕を「よそ者」として見ているように感じる。
どうにも、まだ身体へ馴染まない家だった。
裏山のバイソンたちとの、命がけの「戯れ」から二日。
《無限保温皿》の加工も無事に終わり、鬼門だった竜息茸の下拵えも完璧に済ませた。
今日は、待ちに待った調理実習の初日。
だが、その前に――僕には、絶対に欠かせない日課がある。
牧場のバイトだ。
土日は、エレナさんの気遣いでシフトを外してもらっていた。でも、牛たちの胃袋は、僕や学園の都合なんて待ってくれない。
僕が休んでいるあいだも、ロイさんとエレナさんが世話を続けていた。命を預かる仕事に、本当の意味での休日なんて存在しないのだ。
ジィィッ、と冷えたファスナーを首元まで引き上げる。
着慣れた厚手の生地から漂う、乾いた藁と甘いミルクの匂い。これが今の僕にとって、一番心を落ち着かせてくれる精神安定剤――のはずだった。
『小僧。裾の折り方が雑じゃ。左右で二センチもズレとるぞい』
耳の奥で、ガンテツの低いしわがれ声が響いた。
同時に、瞼の裏へ「僕の足元を指差す、節くれ立った指」の幻影が重なる。朝一番から、説教モードらしい。
『作業着は、身を守る鎧じゃぞ。足元の数センチが狂えば、死ぬと思え』
「いや、長靴の中に入れるから見えないし……」
『見えんところにこそ、こだわらんかい! 神は細部に宿るんじゃ、たわけ!』
カンカンッ、と金槌でも打ち鳴らすみたいに、ガンテツが拳で自分の膝を叩く。その姿まで、脳内で勝手に再生された。
僕は「はぁい……」と小さくため息をつき、しぶしぶ右足の裾を直してから、愛用のゴム長靴へ足を突っ込んだ。
――その瞬間。
今度は、冷たく理知的な声が、氷の刃みたいに思考へ割り込んできた。
『ご主人様。今の長靴を履く動作、非効率極まりないですわ』
ミネルヴァだ。
眼鏡のブリッジを中指で押し上げる姿が、視界の端へちらつく。ご丁寧に、僕の足元の動きを解析した数式と図形が、青白い光を帯びて流れていく気配までついてきた。
『踵への重心移動を〇・二秒早め、履き口を四十五度の角度で広げれば、合計〇・五秒の短縮が可能でした。人生の浪費ですわ』
「〇・五秒くらい、許してよ。まだ寝起きで、身体が起きてないんだから」
『起床直後の鈍磨こそ、事故の温床です。血流促進のため、朝の行動工程へ運動を組み込むべきでしょう。まずはスクワット百回から――』
「――んもうっ! 朝から二人とも細かいよ!」
毎度のことながら、僕の脳内は朝からうるさい。
普段なら、この喧騒も“生活のノイズ”として聞き流せる。そもそも、いつもの僕なら、小言を挟まれるほど日課を雑にこなしたりしない。
なのに今日は、やたらと一つ一つの言葉が刺さる。
この家がまだ馴染んでいないせいか。それとも、今日控えている「調理実習」への緊張が、心のどこかに引っかかっているせいか。
裾のズレも、長靴の履き方も。今朝の僕は、何もかもが少しずつ雑になっていた。
僕は両手で、パンッ、と自分の頬を叩いた。
「よし」
気合を入れ直し、逃げるように家の裏口を開ける。
冷たく澄み切った早朝の空気が、刃物のように頬を刺した。吐き出した息が濃い白煙となり、薄暗い空へ溶けていく。
その白い息を道しるべにするように、僕はロイさんの牧場へ続く、霜の降りた小道を歩き始めた。
季節は早春。それでも、早朝はまだ冬みたいに寒い。
(あはは……なんて騒がしい朝なんだろう……うぅ)
『アハハ! ホノちゃん、言ってることのわりに、なんで泣いてるの?』
ジュリアの声が、冷たい空気の中で羽みたいに軽く跳ねた。
見えない手で、肩をぽんぽんと叩かれているような錯覚がする。少し腹立たしいのに、それと同じくらい救われてもいた。
「……そこは、聞かないでもらえるとありがたいんだけど」
『小僧。何か言いたいことでもあるのか?』
『ご主人様。今すぐ命を投げ出したいので?』
「ヒィッ! なんでもないです!」
ガンテツの低い圧と、ミネルヴァの氷点下の声に、思わず声が裏返る。
その情けなさを咳払いで誤魔化し、歩調を整えた。
――それでも、霜を踏みしめる足取りは重い。
今日から、また学園の授業が始まる。
牛たちにも、二日ぶりに会える。
どちらも、ずっと楽しみにしていたはずなのに、胸の奥には鉛でも飲み込んだような苦しさが残っている。
その原因は、痛いほどわかっていた。
ロイさんとの約束だ。
『小僧。どうするつもりじゃ』
ガンテツの声が、今度はやけに低く、静かだった。
職人の厳しい目で、僕の魂の形を値踏みされているような重圧がある。
「……話すよ。本当は、山へ行く前に、ちゃんと話して確認するべきだったんだけどね」
――危ないから、勝手に行くな。
ロイさんから、そう言われていた。
それなのに僕は、約束を破り、禁足地へ足を踏み入れた。
どんな理由があったとしても、ロイさんの言葉を無視した事実は変わらない。
わかっている。
わかっているからこそ、胸が重い。
『行く前に、話さないと決めたのでしょう』
ミネルヴァの冷ややかな声が、心臓のど真ん中を刺した。
図星すぎて、否定することもできなかった。
「……うん。まあ」
僕は、霜の浮いた地面へ視線を落とす。
「あらかじめ伝えてたら、絶対に止められてただろうなって思ったから」
『我には理解できん、小市民の戯言だな』
ヴァンデルの、尊大な声。
豪奢なベルベットの椅子へ深く沈み込み、退屈そうに頬杖をつく姿が、視界の端へ勝手に浮かび上がる。
『そんなものを気にせず、初めから堂々としていればいいのだ』
「ああ。偉大な魔法使い様には、どうせ理解できない小市民の戯言ですよーだ」
『フン。我が貴様を小市民と呼び、貴様もそれを受け入れた。自ら認めている限り、どう足掻こうと、貴様は永遠に小市民のままだ』
「……何それ。意味わかんない」
言っている意味がよくわからず、とりあえず脳内で、ヴァンデルへ思い切り舌を出しておいた。
『オイ、クソガキ。見ててムカつくな。自分に酔ッてンじゃねえよ』
不意に、オーガのドスの利いた声が脳内を圧迫した。
見上げるほどの巨躯が薄暗い壁へもたれかかり、獰猛に笑う姿が、視界の内側で立ち上がる。
『結局はオメエが、約束破ッたのを誤魔化してただけだろうが』
「うわ。約束とか、そういうものを一番大事にしなさそうなオーガに言われるとは、さすがに予想外だったよ」
『おうおう。痛えところ突かれて、憎まれ口叩いてンのか? おン?』
オーガが、見下すように口元を歪める。
『器の小ささが見えて、こりゃあ駄目だな。それにオレは、守りてえ約束以外は守らねえ。ハナから守れねえ約束は、そもそもしねえンだよ』
「……言ってることは立派で素敵ですね!」
僕は、わざと明るい声を出した。
「でも、僕の優雅な朝を正論で奪わないでよ! 約束を守れないことくらい、子どもならあるでしょ!?」
『都合が悪くなッたら、子ども子どもッて……オメエ、いつまでもションベン垂らすのを、大目に見てもらえると思ッてンじゃねえぞ?』
「……ふん。だったら、オーガならどうするとかあるの?」
『シャバくせえガキだな。そンなことも聞かねえと、わかンねえのか』
「……もうっ、いい! 聞いた僕がバカだった!」
期待しかけた自分を呪いたくなる。
どうせ、この粗暴な男は、僕をいじめたいだけに決まっている。
そう思って、さらにいじけようとした――そのとき。
『ハンッ。しゃあねえガキだ……』
オーガの声から、嘲るような響きが消えた。
『オレなら、もう一度考える』
脳内の空気が変わる。
ただの威圧じゃない。
幾度も死地をくぐり抜けてきた者だけが持つ、血肉の通った重みが、その言葉の底へ深く沈んでいた。
「もう一度、考える……?」
『約束を守ッて、山へ行かなかッた“もしも”と――もう一度、同じ状況へ戻ッても、約束を破ッて山へ行く“もしも”をよ』
オーガの声が、腹の奥へ響く。
『両方、天秤にかけンだよ。それでも、約束破ッてでもやりてえンだったら、それがテメエの本音なンじゃねえのか』
「……エゴ?」
『ああ。守りてえ約束より、やりてえことが勝ッた』
オーガは、吐き捨てるように続けた。
『なら、ウジウジしてンじゃねえ。腹括ッて、その“やりてえこと”を貫き通せ』
「貫き通すって、どうやって……」
『ハン。そこまでオレが教えてやる義理はねえよ。それ以上は、テメエの頭で考えろ。クソガキ』
「……あ、ちょっと!」
『アハハ! まったく、二人とも素直じゃないんだから……』
突き放すようなオーガの言葉の隙間へ、ジュリアの声が、するりと入り込む。
脳内で、むくれた僕の頬を、ジュリアの指先につんつんと突かれた。
『ホノちゃん。オーガ兄はね、覚悟を決めた男の顔が見たいだけだよ』
「覚悟……」
『ウジウジしたまま、「ごめんなさい、もうしません」って言っても、ロイさんには届かないってこと』
「…………」
僕は、小道の途中で足を止めた。
顔を上げ、前を見る。
白み始めたばかりの東の空を背景に、巨大な牛舎の黒いシルエットがそびえ立っていた。
まだ空は暗い。
時計は、四時を少し回ったばかり。
あの重たい扉の向こうに、ロイさんがいる。
牛たちがいる。
――そうだ。
僕は、選んだんだ。
ロイさんとの約束を破ってでも、あの場所へ行き、あの極上の食材を手に入れることを。
僕の料理のために。
僕の未来のために。
それは、僕のワガママだ。
僕の本音だ。
その選択が正しかったのかは、まだわからない。
でも、自分で選んだことだけは、誤魔化したくない。
なら、真正面から伝える。
なぜ約束を破ったのか。
怒られるのなら、逃げずに聞く。
それでもクビだと言われたなら、その結果も受け入れる。
ただ許してもらうために、「もう二度としません」と口にするのではなく、今の僕が何を望んでいるのかまで、ちゃんと話す。
それ以上の誠意の見せ方を、僕は知らない。
「……わかったよ。ありがとう、みんな」
『ケッ。礼なンざいらねえよ。いいからとっとと行けよ、クソガキ』
ぶっきらぼうなオーガの声と同時に、背中をぽんっと押されたような感触がした。
僕は顔を上げ、牛舎へ向かって真っ直ぐに歩き出す。
さっきまで足へ絡みついていた鉛のような重さは、もう消えていた。
冷え切った、重たい木製の引き戸へ両手をかける。
まずは、いつもどおり働く。
ロイさんとエレナさんが来たら、すべて話す。
それから学園へ行って、とびっきりのご飯を作る。
もう、迷いはない。
僕は大きく息を吸い込み、冷たい空気を肺の奥まで満たしてから――その扉を、力いっぱい引いた。
――ガラララッ!
開け放たれた隙間から、牛たちの強烈な熱気と、噎せ返るような藁の匂いが、一気に吹き抜ける。
外の寒さを吹き飛ばすような、圧倒的な命の温度。
まるで実家へ帰ってきたような、たまらない安心感に包まれた。
「――おはようございます!!」
誤魔化さない、僕の本当の朝が始まった。
◇
夜明け前の静かな牛舎へ響くのは、僕の規則的な作業音と、牛たちの低く穏やかな鼻息だけだった。
ときおり、遠くの小屋から鶏たちの甲高い声が、朝の空気を震わせて届く。
牛舎へ入ってから、もう一時間ほどが経っていた。やるべき朝の仕事は、だいたい片づいている。
長い飼槽の前を歩き、まずは散らばった餌を、フォークで手前へ“寄せる”。
牛たちは、身体が大きいわりに、食べるのが器用じゃない。少しでも餌が奥へ押し出されると、あっという間に舌が届かなくなってしまうのだ。
ザッ、ザッ、とフォークで餌を手前へ寄せてやると、彼女たちは眠そうな目のまま鼻先を伸ばし、もそもそと咀嚼を再開した。
その、のんびりとしたリズムが心地いい。
次は、水。
冷たい水槽の表面へ浮いた細かな藁を、素手で丁寧に掬い取る。一晩置かれて淀んだ底の水は、少しだけ栓を抜いて流し、新しい水へ入れ替える。
飲み水が汚れていたり、古くなっていたりすると、彼女たちは途端に機嫌を損ね、体調まで崩してしまう。
牛は、誤魔化しの利かない生き物だ。
通路へ落ちた糞尿も、もちろん放ってはおけない。
スコップで固形物を取り除き、濡れたコンクリート面へ水を流して、汚れを掻き出す。
牛たちが寝そべる敷料も、汚れて湿った部分だけを綺麗に剥ぎ取り、ふかふかの新しい藁をたっぷりと足してやる。
乾いた藁が敷き詰められると、牛たちは「待ってました」と言わんばかりに巨体を沈め、ようやく心から休めるような、穏やかな顔になる。
そして最後に、最も神経を使う作業。
目と、鼻と、腹の確認だ。
目やにが多くないか。
鼻水の色や粘度は、いつもと違わないか。
命の拍動ともいえる反芻のリズムは、正常に刻まれているか。
一頭ずつ身体へ手を当て、伝わってくる熱を確かめる。瞳を覗き込み、鼻息と、口から漏れる匂いを確認する。
命を預かる仕事って、結局は、こういう泥臭くて細かなことの積み重ねに尽きる。
少しの変化を見逃せば、取り返しがつかなくなることもある。
そんな繊細な仕事を任されているのに、雇い主であるブラックウッド夫妻は、今ここにはいない。
きっと、僕の働きを信用し、朝の仕事を任せてくれているからだ。
「ンモォ~」
「こら、マチルダ。やめろって。あんまり顔を舐めるなってば……あははは!」
一番人懐っこいマチルダが、ぬっと首を伸ばし、僕の頬を舐め上げた。
いつも以上に執拗に舐めてくるのは、気のせいだろうか。
いいや。
きっと違う。
僕の沈んだ様子を、野生の勘で察して、心配してくれているのだ。
ヤスリみたいにざらざらとした舌は痛いけれど、きっと彼女なりの、不器用な愛情表現なのだろう。
やっぱり、牛はいい。
(そうだよね。僕もしっかり、誤魔化さずに向き合わないと駄目だよね)
マチルダの首筋を撫でながら、以前、地元を出て一度だけ働いた、別の牧場を思い出す。
確か、ヒュンゼル酪農という名前だった。
そこでは、いつも険しい目をした監視役が巡回していた。
さらに、高価な魔煌玉を惜しみなく使った魔導監視装置が、至るところへ設置されていた。
ここより何倍も広大で、牛舎も馬鹿みたいに大きい。作業のすべてが洗練され、効率的な仕組みによって管理された牧場だった。
働いている人間も、僕以外に何人もいた。
だからこそ、「従業員をさぼらせないための監視」が、仕組みとして必要だったのかもしれない。
それでも、僕は、あの場所の空気が苦手だった。
――誰かが見ていなければ、人間は仕事をしない。
最初から疑ってかかる、その前提が、息苦しくて嫌だった。
牛は、こちらの手の温度や、呼吸の深さをよく見ている。
大声を出せば、怯えて逃げる。
雑に触れれば、不快そうに身を引く。
それでも、毎日同じ温度で、誠実に世話を続ければ、少しずつ心を開き、僕たちを信じてくれる。
人も、本当は同じだと思いたい。
だから僕は、まず誰かを「信じる側」でいたい。
誰にも見つからないなら、さぼる。
利用できる相手なら、利用する。
必要がなくなれば、命すら捨てる。
そんな考え方を、当たり前にはしたくない。
ただなんとなく消費されるために死に、ただなんとなく遺棄される。
そんな無機質な終わり方は、絶対にあってはならない。
死ぬ命は、誰かの血肉となり、巡る命になる。
それだけは、世界の真理だと信じているから。
世間の普通とは、少しズレている自覚もある。
それでも僕は、「人は信じ合える」ということを前提にして、息をしていたい。
(……でも)
こんな僕の信じ方は、ただのお花畑なのだろうか。
僕は、そうは思いたくない。
少なくとも、この聖域のようなブラックウッド牧場は、僕の理想が間違っていないことを証明しようとしてくれている。
そんなふうに思えるのだ。
ブラックウッド夫妻は、もう起きているはずだ。
そろそろ朝の支度を終え、ここへやって来る頃だろう。
早朝の大切な作業を、新入りの僕一人へ任せてくれている。
それは決して、二人が楽をしたいからじゃない。
僕のやり方を尊重し、任せても大丈夫だと信じてくれているからだ。
僕にはそれが、「背中を預けてもいい」と、無言で言われているように感じられた。
その信頼へ応えたくて、僕は真面目に仕事をする。
牛たちのため。
ブラックウッド夫妻の信頼へ報いるため。
そして巡り巡って、それが自分自身の誇りになるから。
……だからこそ。
約束を破った事実が、胸の奥深くへ、鋭い棘のように突き刺さる。
自分は、人を信じたいと言いながら。
信じてもらえることを、こんなにも嬉しいと思いながら。
僕は、ロイさんから向けられた想いを無視した。
あれほど「竜息山は危険だから、行くな」と警告してくれたのに。
あれほど、僕の身を案じてくれたのに。
僕は、自分の料理と、牧場の夢と、欲しい素材のことを優先し、止められるとわかっていたからこそ、何も告げずに竜息山へと出向いた。
それが、僕の本音だった。
だから、エゴそのものを綺麗な言葉で飾るつもりはない。
でも、選んだ自分を消して、ただ許してもらうための謝罪をするつもりもなかった。
もしクビだと言われたなら、受け入れる。
怒られるなら、逃げずに聞く。
禁足地で起きたことも。
僕が何を考え、何を望んでいたのかも。
すべて、正直に話そう。
それが、今の僕にできる、唯一の誠実な態度だと思うから。
――そのとき。
コトッ、と牛舎の重たい引き戸が、微かに鳴った。
弾かれたように振り向く。
そこには、厚手のエプロンを身につけたエレナさんが立っていた。
両手には、大きな木製のトレー。朝の湯気をふわりと乗せ、静かに揺れている。
トレーの上には、厚く切り分けられた素朴なパン。
それから、深い陶器の器へ注がれたスープ。
透き通った黄金色のコンソメに、旨味の詰まったパンチェッタと、くったり煮込まれたキャベツが沈んでいる。
表面では、金色の脂が小さく光りながら踊っていた。
そして最後に、真っ白な瓶。
――ミルクだ。
瓶の首には、「低温殺菌済み」と書かれた、小さな木札が下がっている。
僕は一瞬、自分の目を疑った。
この牧場のミルクが、商品ではなく、僕のための“飲み物”として出されるのは初めてだった。
いつもは搾ったそばから茜さんのところのようなお得意さんや卸売業者へ回されるか、加工場へ運ばれる。
チーズ。
バター。
発酵乳。
加工に回す分だけでも、常に足りないくらいの生産量だ。
賄いへ回す余裕なんて、ないはずだった。
だから僕はずっと、牛舎へ満ちる甘く濃厚な香りだけを胸いっぱいに吸い込み、喉を鳴らしながら我慢していた。
なのに今日は、それが目の前にある。
泥臭い牛舎には似合わないくらい、綺麗に整えられた朝食。
それでも、噎せ返るような藁の匂いへ混ざる、温かいスープとミルクの香りは、やけに“家族の食卓”を思わせた。
エレナさんはゆっくりと歩み寄り、トレーを作業台の端へ置いた。
そして、僕を見て、花が咲くように微笑む。
「鴨葱君、おはよう。今日も朝早くから、本当にありがとう。ホント、助かってるわ」
咎める色なんて、微塵もない。
純度百パーセントの、感謝だった。
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で固まっていた罪悪感へ、細い亀裂が入った。
解けたわけじゃない。
むしろ、その亀裂から、エレナさんの声の温かさが染み込んでくる。
優しくされるほど、もう誤魔化せない。
「……おはようございます」
声が、少し掠れた。
震えまで混ざってしまった。
僕は、わざとらしい咳払いで懸命に誤魔化す。
エレナさんは、そんな僕の様子に気づかないふりをした。
当たり前の日常を紡ぐように、優しく続ける。
「さあ、冷めないうちに。一緒に食事にしましょう」




