第81話:要塞チーズと、重すぎる代償
時刻は深夜。
日付は、とっくに回っている。
数時間だけ仮眠を取ったものの、「ワクワク」に肩を叩かれたかのように、すぐ目を覚ました。
なぜなら、僕の「仕込み」は、まだまだ終わっていないからだ。
ここは、自宅のキッチン。
次の主戦場。
取り出したのは、裏山でメスのバイソンからいただいた「バイソン・ミルク」。
過度なストレスに晒され、防衛本能が極限まで高まった状態で搾られたそれは、普通の牛乳よりも銀色がかっていて、どろりと濃厚だった。
命がけの現場で「搾乳」なんて、字面だけ聞けば狂気だ。
でも、あのときの僕は、確かに見た。
“母”の身体に残った、群れを守るための名残を。
乳房の張りに気づいた次の瞬間には、僕は《調理》で手と瓶を清浄化し、彼女の腹の下へ潜り込んでいた。
急いで、丁寧に。
必要な分だけを、感謝して。
「うへへへ……おっと、いけない」
誰もいないとはいえ、顔が変な形に歪んでいた。
危ない危ない。
ホノジ、正気を保つんだ。
『相変わらず、気味が悪いですわね。ご主人様』
いつものミネルヴァの悪態を、僕はさらりと聞こえなかったことにした。
誰もいないとは言ったけれど、そういえば、僕の頭の中には六英雄が常にいるんだった。
――ん?
誰もいないって、どういう状態だ?
まあ、それはいいか。
本当の意味で、誰もいない状態なんて、僕はもう味わうことがないのかもしれない。
そんなことより、大切なのは――目の前で白く輝いている、美しい液体だ。
机の上で月光を受け、銀色の膜がゆっくりと揺れている。
ただの牛乳じゃない。
そんな気配が、匂いを嗅いだ時点で伝わってきた。
「さて、これをどうするか……」
とりあえず、もう一度、味を確かめてみることにした。
小さなコップへ、ミルクを注ぐ。
瓶を傾けた指先に伝わる粘度からして、普通じゃない。
ゴクリ。
濃厚だ。
舌へまとわりつくほど深いコクがありながら、その奥には、かすかな甘みがある。
そして――ほんのりと苦い。
舌の上ではなく、飲み込んだあとから、遠くに残る苦み。
これこそが、バイソン・ミルク特有の風味なのだろう。
ただの欠点ではない。
嗜好品として考えれば、この苦みも、むしろ価値になり得る。
普通にチーズへ加工しても、間違いなく絶品になるはずだ。
でも。
このミルクを満たす魔力には、「群れを守る」という母バイソンの強い意志が、色濃く刻まれている。
ただ美味しくするだけじゃ、素材に失礼ってもんだ。
『――ご主人様。提案がありますわ』
ミネルヴァが、冷静な声を上げた。
『そのミルクの成分分析が完了しました。鉄分、カルシウム、そして魔力耐性菌が、通常の牛乳と比較して三十一・七倍』
「三十一・七倍……」
『これを通常の熟成工程へかけるのは非効率的です。私の演算による「超圧縮熟成」を試すべきかと』
「超圧縮……熟成?」
『ええ。物理的な圧力を加えながら、熟成に必要な時間経過を魔法によって強制的に圧縮します』
ミネルヴァの声は、どこまでも真剣だった。
『成分を極限まで凝縮し、素材に刻まれた「防御特性」を最大限に引き出すのです』
「……防御特性?」
なんだか、料理の説明とは思えない単語が混ざっている。
でも、面白そうだ。
僕はミネルヴァの指示に従い、鍋へバイソン・ミルクを注いだ。
ゆっくりと温度を上げ、凝固剤――レンネットを加える。
固まり始めたカードへ刃を入れ、細かく切り分ける。
浮き出したホエイを分け、塩を加えながら、残ったカードを丁寧にまとめていく。
鍋底では、火を“育てる”。
炎を強くするんじゃない。
熾火を整える感覚だ。
今日の焚き火で身体へ馴染んだやり方が、そのまま手に残っている。
「……それで、超圧縮熟成って、実際にはどうするの?」
『ご主人様。まずは、その術式に必要な知識を共有しますわ』
「……ああ、そういうこと」
僕は《英傑貸出》の残り時間を、意識の奥で確かめた。
最初に使用してから、二十四時間。
その間に英雄たちから借りられる時間は、全員合わせて合計約六十分。
昨夜、ジュリアから足を借りた十数秒。
そして今朝の鍛冶で、ガンテツとヴァンデルから借りた時間。
最初の使用から、まだ二十四時間は経っていない。
残っているのは、ほんのわずかだ。
(でも、知識を受け取るだけなら、数秒で足りるはず……)
僕はミネルヴァへ、左手の主導権を預ける。
「――《英傑貸出》」
冷たい気配が左腕を巡った。
僕の指先を支配したミネルヴァが、迷いなく一つの術式を唱える。
『《情報圧縮強制侵入》』
瞬間――僕の脳内を、膨大な文字列が駆け巡った。
「――ッ!?」
無理やり、脳みその中へ何かをねじ込まれる。
何十万文字もの情報が、思考を埋め尽くしていく。
脳が焼き切れないよう、丁寧に。
それでいて、拒絶することを許さないほど強引に。
細かく切り刻まれ、圧縮された情報の塊が、何度も脳内へ強制挿入されていく。
目の前が揺れた。
胃が持ち上がり、ひどい眩暈に襲われる。
それでも、ほんの数秒後。
すべての情報を押し込み終えたミネルヴァの気配が、左手からふっと消えた。
「うっ……ぐぅ……クソ。この感覚、毎回吐きそうになる……」
『いい加減、慣れてくださいまし。ご主人様』
僕は作業台へ手をつき、どうにか吐き気を堪える。
『その貧相な脳みそのために、本来なら長い時間を要する《術式刻印》を、チートじみた速度へ圧縮して差し上げているのです。感謝されることはあっても、文句を言われる謂れはありませんわ』
「……いや、感謝はしてるけどさ」
実際、ミネルヴァのおかげで、いくつもの調理魔法と、その応用術式を習得できた。
それには、間違いなく感謝している。
しているんだけど。
慣れないものは慣れないし、気持ち悪いものは気持ち悪い。
『ご主人様。あまりブーたれず、鼻水も垂らさず、醜態も晒さず、そろそろ料理へ集中されてはいかがですか?』
「鼻水も醜態も晒してないよ!」
反射的に鼻の下を拭い、何もついていないことを確認する。
「……でも、まあ。それもそうだね」
僕は深く息を吸い、鍋の中のバイソン・ミルクを見据えた。
頭へ叩き込まれた術式を、一つずつ魔導回路へ接続していく。
「よし、いくよ……」
鍋を両手で挟み、魔力を練り上げる。
「生粋魔法・調理――《超圧縮熟成》!」
――バシュッ!!
鍋の中の空間が、大きく歪んだ。
本来なら数か月。
あるいは、数年。
それほどの時間を要する熟成過程が、高圧力の中へ押し込められ、わずか数秒にまで圧縮されていく。
鍋が激しく震える。
内側から何かが暴れているような音が響く。
僕は蓋を押さえ込み、魔力を流し続けた。
やがて、強烈な魔力光が収まる。
――ゴトッ。
鍋底に、握り拳ほどの「灰色の塊」が鎮座していた。
「……これが、チーズ?」
恐る恐る取り出してみる。
見た目は、コンクリートブロックの破片みたいだ。
けれど、指先で触れてみると――。
「うわ、ぷにぷにしてる!」
意外にも、その感触は、赤ちゃんの頬みたいに柔らかい。
押せば、もちりと沈む。
指を離せば、ゆっくりと元の形へ戻っていく。
香りも悪くない。
濃厚なミルクの匂いに、炒ったナッツのような芳醇さが重なっている。
「美味しそう……。ちょっと味見してみよう」
僕は、今朝完成したばかりの漆黒の包丁を手に取った。
灰色のチーズへ刃を当て、薄くスライスする。
包丁は、抵抗をほとんど感じさせず、滑らかにチーズを切り分けた。
(うん。やっぱり、すごくいい包丁だ)
それでもチーズ自体には、もちりと刃を押し返すような弾力がある。
切り分けた小さな一切れを、口へ放り込んだ。
――濃厚。
噛んだ瞬間、大地をそのまま凝縮したような、深いミルクのコクが口いっぱいに広がった。
ナッツに似た香ばしさと、舌へ絡みつく旨味。
しかし――。
「にがあああああいっ!」
あとから、濁流のような苦みが押し寄せてきた。
「ぺっ! ……あっ! 吐いたら駄目だ、もったいない!」
慌てて口元を押さえ、どうにか飲み込む。
舌の奥へ、じわりと苦みが残る。
喉の奥が熱い――いや、違う。
これは、渋い。
「……そうか。熟成を圧縮して、水分も減ったぶん、苦みまで凝縮されちゃったんだ……」
僕は、涙目になりながら灰色のチーズを見つめた。
「とほほ……。どうしよう、これ」
《成分分離》で苦みだけを抜くのは、さすがに難しい。
そもそも、苦みを生み出している成分の正体がわかっていない。
何より、旨味や香りと複雑に絡み合った一部分だけを抜き出すには、あまりにも繊細すぎる。
どうしたものかと頭を悩ませていると、ふと、一つの閃きが落ちてきた。
(これは……)
解決策は思いついた。
思いついてしまった。
(うーん……嫌だなぁ)
僕は、自分の頬をさすりながら、湧き上がった嫌悪感を誤魔化そうとする。
すると――。
『やアッ! 呼んだかイッ? 宿主よ!』
呼んでもいないのに、それは現れた。
目をこれでもかと輝かせ、何かを期待するように、両手を大きく広げている。
颯爽と現れたのは、第六世代・レクターだ。
こいつは、いざというとき、変に直感が冴えている。
けれど、頼るとなると――どうしても、本能的な嫌悪感が先に立つ。
改めて意識を向けると、レクターは純粋な眼差しで、こちらを見つめていた。
奇抜なメイク。
整いすぎた顔へ張りついた、不気味な笑み。
その雰囲気が、僕はなぜか苦手だ。
『ボクを嫌がるッ! 宿主の顔も素晴らしイッ! 実に味わい深イッ! あアッ! 毒を食らわば皿まで!』
レクターの様子を見ていると、やっぱり頼む気が失せてくる。
(……でもなぁ)
灰色のチーズへ目を落とす。
(これを美味しくするには、もう、そうするしかないんだよなぁ)
一時の不快感ぐらい、仕方ない。
背に腹は代えられない。
僕は覚悟を決め、レクターへ頼みごとをした。
(レクター。このチーズから、苦みだけを抜いてくれないかな?)
『お任せあれッ! さアッ、宿主! 一部をボクと重ねてくれッ! 唇を重ねてくれッ!』
(もっと他に、言い方ないの……?)
『ホノちゃんっ!』
突然、ジュリアが割って入ってきた。
『それをレクターに求めるって、天変地異を望むようなものだよ! 気持ち悪くないレクターがいたら、それは偽物だから!』
その言葉には、頷くしかなかった。
レクターは気持ち悪いから、レクターなんだ。
(……仕方ないか)
《英傑貸出》の残り時間は、もうほとんどない。
でも、苦みを抜き取るだけなら、数秒で足りるはずだ。
(はいはい。それじゃあ――《英傑貸出》)
その瞬間、口元の主導権がレクターへ渡った。
『ンン――ッ! 唇を重ねる、この芳醇な快楽ッ! あアッ! このまま宿主のすべてを啜り尽くしたイッ!』
背筋へ、おぞましい鳥肌が走る。
でも、いちいち相手をしていたら、不快な時間が長引くだけだ。
(……いいから、さっさとやってくれる?)
『仰せのままニッ!』
レクターが、歓喜に震える声で唱えた。
『《暴露啜吻》』
灰色のチーズが、ふわりと宙へ浮かび上がった。
そのまま、僕の口へ運ばれる。
口が大きく開く。
レクターに支配された顎が、下品なほど何度も開閉した。
ぐちゃり。
ぐちゃり。
歯で噛み潰し、舌で練り、少しずつチーズをすり潰していく。
それでも、不思議なことに、欠片一つ、口の外へ飛び出さない。
やがて――ゴクリ。
すべてを、飲み込んだ。
数秒後。
「うっ……!?」
唐突な吐き気が、胃の底からこみ上げてきた。
「お、おえっ……!」
堪えきれず、何かを口から吐き出す。
僕は反射的に両手を差し出し、それを受け止めた。
そこにあったのは――チーズ。
咀嚼し、すり潰し、飲み込んだはずのものが、元の形へ戻っている。
けれど、最初のチーズとは、どこか違った。
灰色だった表面は、わずかに色を薄めている。
不純物を削ぎ落としたような透明感を帯び、純度を保ったまま、月光の下で輝いていた。
わかる。
何かが、抜けている。
(よし。これなら、きっといける)
僕は口元を袖で拭い、残っていたレクターの気配を、無理やり意識の奥へ押し戻した。
『あアッ! もっと! もっとボクと混ざり合お――』
(はい、おしまい!)
《英傑貸出》を解除する。
静かになったところで、両手の中にあるチーズを指でつまみ、もう一度、口へ放り込んだ。
(おっ!?)
噛んだ瞬間、僕の目が見開かれる。
(こいつは……!!)
苦みが、消えている。
濃厚なミルクのコク。
炒ったナッツのような香ばしさ。
噛むたびに深い旨味が溢れ出し、飲み込めば、胃の中へどっしりと落ち着いた。
無理をしてレクターへ協力してもらった甲斐があったってもんだ。
「うん! 問題なく、味は最高になった!」
僕は、満足げに何度も頷く。
「これなら、ステーキのトッピングにも――」
そう口にした、直後だった。
――カチコチコチッ!
皮膚の表面で、何かが硬化するような音がした。
「……え?」
僕は、自分の腕を見下ろした。
肌の色は、変わっていない。
指で触れてみても、もちもちと柔らかいままだ。
けれど――。
――コン、コン。
近くにあったスプーンを取り、試しに腕を叩いてみる。
硬質な金属音が、キッチンへ響いた。
「はあ!? 何これ!?」
『成功ですわ』
ミネルヴァが、冷静に告げた。
『物理防御力は、通常時のおよそ十倍。今のご主人様の皮膚は、アイアン・バイソンの装甲と同等の硬度を持っています』
「十倍!?」
『それでいて、表面の柔軟性も維持されている。実に美しい仕上がりですわね』
「すげえええ! 無敵じゃん、これ!」
僕は歓喜し、その場でガッツポーズを取ろうとした。
――ズシンッ。
「……ぐっ!?」
腕が、上がらない。
いや。
腕どころか、自分の身体そのものを支えきれない。
――ドシィィンッ!!
僕は、その場へ縫い留められたようにへたり込んだ。
床板が、ミシッと悲鳴を上げる。
「お、重い……! 何これ! 身体が鉛になったみたいだ……!」
『想定どおりですわ』
「想定どおり!?」
『摂取者の魔力を、一時的に防護質量へ変換しています。現在の体重は、通常時のおよそ五倍。その質量すべてが、防御性能へ寄与しているのです』
「先に言ってよおおお!」
『密度を極限まで高めれば、当然の帰結でしょう』
「そんなの食べる前にわかるわけないでしょ!?」
『欠点ではありませんわ。機動性を切り捨て、防御性能へすべてを割り振っただけです』
「それを欠点って言うんじゃないの!?」
『いいえ。用途を限定しただけですわ』
ミネルヴァは、一拍置いてから続けた。
『――それに気づかないようでは、ご主人様もまだまだ。色気が足りないようですわね……』
「……色気? なんの話?」
『逃げる必要がなく、ただ一撃を耐え抜けばいい状況において――これ以上、合理的な食品はありません』
ミネルヴァは、きっぱりと言い切った。
『論理的に完璧ですわ』
いつもより、ミネルヴァの声色が少しだけ跳ねているようにも感じた。
「極端すぎるよ……!」
僕は、床へへばりついたまま、涙目で叫んだ。
動けない。
腕を持ち上げるだけでも、とんでもない力が必要になる。
指一本動かすことすら、全身を使った筋力訓練みたいだ。
これじゃあ、ただの「頑丈な置物」だ。
数分後。
効果が切れ、ようやく身体が軽くなった。
「はぁ……はぁ……。た、助かった……」
疲労困憊のまま立ち上がった僕は、残ったチーズを保存瓶へ封印した。
ラベルには、こう記す。
『要塞チーズ(使用上の注意:食べると動けなくなります)』
「……まあ、使い方によっては、最強の盾になる……のかな?」
また一つ、とんでもない在庫が増えてしまった。
でも、この濃厚な味は捨てがたい。
ステーキの上で少量だけ溶かせば、効果も薄まって、重さもいくらかマシになるかもしれない。
美味しく食べられて、ついでに少し頑丈になれる。
それぐらいなら、ちょうどいいはずだ。
……たぶん。
まだ少し時間が残っていたので、残りのバイソン・ミルクを使い、ヨーグルトとバターも手早く仕込んでおいた。
チーズ。
ヨーグルト。
バター。
これで、料理に使うミルク関連の下拵えは完了だ。
僕は期待と、ほんの少しの不安を胸に抱えながら、ようやくベッドへ潜り込んだ。
明日は、いよいよ竜息茸の仕込みが待っている。
楽しみだ。
そして――少しだけ、不安だ。




