第79話:職人の時間
体は、もう限界に近い。
魔力も、底が見えかけている。
あと少し無理をすれば、僕も倒れて動けなくなるかもしれない。
……でも。
(職人の時間だけは、譲りたくないんだよなぁ)
命を、いただいた。
なら、一片も無駄にしないのが、せめてもの礼儀だと思うから。
「……解体すよ」
僕は、ボスの巨体に向き直った。
包丁を入れると、その肉質の良さに、思わずため息が漏れた。
「……見てよ、これ。普通のバイソンは、鋼鉄の皮膚に甘んじて動かないから、脂身が多い。でも彼は、群れを守るために、一番動いていた。だから余計な脂がない、極上の赤身だ! なんて、すばらしいんだ!!」
「そ、そう……死体に、慣れてるのね?」
冷夏さんが、少し顔を引きつらせながら、尋ねる。
僕は手を休めず、穏やかに答えた。
「ん? そりゃあ、食べるのには、命をいただくしかないでしょ。死ぬ命は巡る命、ってやつだよ」
優しく笑いかけると、「死ぬ命は巡る命……?」と言うだけで、彼女は言葉に詰まったように黙り込んだ。
「ありがたいことだよ。これほどの素材、本来なら一般兵が数十人いて、ようやく獲得できるかどうかって代物だ」
『黒い統率者のSV値は、五八〇。正しくは基準兵、平均五十八名です、ご主人様』
脳内でミネルヴァが、すかさず訂正を入れてくる。
(はいはい、相変わらず細かいな~)
僕は苦笑しつつ、手早く肉を部位ごとに分け、最後に一番の大仕事――「鋼鉄の皮膚」を、剥ぎ取った。
ずっしりと重い、黒鉄の皮。
最強の防御力を誇る、Bランクの素材だ。
「それ。売れば、とんでもない金額になるわよ。今日みたいなことがあるかもしれない。きっとホノジくん、装備を整えたらどう?」
冷夏さんが、現実的な提案をする。
すべての解体が終わったので、近くの池で血を流しながら、考える。
確かに。
これを売れば、市場価格で三十ソル金貨はくだらない……。
手狭な家ぐらいなら、おつりが出るだろう。
装備を整えれば、突然来る脅威に備えることもできる。
その理屈はわかるけど。
「う~ん……お金、かぁ」
僕は顎に手を当てて、真剣に悩み始めた。
別に装備にかぎった話じゃない。
お金があれば、たいていの欲しいものは手に入る。
この大きさなら、あらゆる牧場の整備が整う。
ずっと欲しかった業務用の「大型自動撹拌機」だって、買える。
あれがあれば、バター作りも生クリームも効率が十倍になるし、ふわっふわのオムレツだって……。
(うわ、おいしそう! 考えただけで、ほっぺが溶けて落ちちゃいそうだよ……!)
『アハハ! ホノちゃん、酪農関係とご飯になると、もうダメなんだから!』
楽しそうに、ジュリアが笑う。
あまり褒めないでほしい、と考えていると、横からねっとりとした声が割り込んだ。
『ご飯は大事だネエ。味がおいしいうえに、ピリピリする神経毒のような刺激物があれば、ボクはよろこんで平らげるよ。毒を食らわば皿まで!』
『アハハ……レクター、やっぱきんもいね!』
ジュリアが、心底嫌そうに吐き捨てた。
まったく、相変わらずの連中だ。
僕は、思考を現実に戻す。
ミキサーか、それとも装備か……。
いや、この素材自体にも、夢がある!
(ん~、悩ましい! 悩ましいけど……うん、そうだな……うんうんうん、そうしよう!)
「……よし、決めた!」
「な、なにを買うの? やっぱり三重機装クラスの武器? アビス級の魔煌玉?」
「売らない! これを使って、最高級の『無限保温ステーキ皿』を作る!」
「……はい?」
冷夏さんが、時を止めた。
「ちょっと待って、ホノジくん。確かにその素材は売るだけじゃなく、装備に転用できたらすごいわ。でも、たしかジェネラル・バイソンの素材の加工難度は高いって聞くわよ。それを装備じゃなくて、今ステーキプレートって言ったかしら? 私の聞き間違いか、装備の名前よね……?」
「ううん、ステーキを乗せるためのお皿のことで合ってるよ!」
「……はぁ。相変わらず、あなたの考えはすごいわね……」
「あまり褒めないでよ」
「褒めてないわよ」
冷夏さんがまたもや呆れたように肩を竦める。
でも今の僕は、この素材のひとつの可能性にとっくにワクワクしてしまっている。
「うんうん! この熱伝導率と保温性……肉を乗せれば、食べ終わるまで『ジュ~ッ』って音が鳴り止まない、夢の皿ができる! これ以上の贅沢は、ないよ!」
「……う~~、悔しいけど。それは確かに、おいしそうね……」
冷夏さんの方から、じゅるっと音が聞こえた気がした。
この人も意外と食べるのが好きだよね。食べてる時の顔、すごくかわいいし。
『カッカッカ! 贅沢な使い道じゃのう! 余った部分で包丁の鞘くらいは、ワイが作ってやるわい。握りやすくなるぞい!』
脳内でガンテツも大笑いして、賛同してくれた。
職人と料理人の意見は、一致したようだ。
「……たしかにご飯は最高だけど、本当にいいの? 他にたくさんの使い道もあるのよ?」
「うん、決めたから!」
「……はぁ。もういいわ。好きになさい」
冷夏さんは、呆れ果てて、深くため息をついた。その顔に、ほんのり笑みが浮かんでいるのは気のせいかな。
その瞬間。
ガクッ。
彼女の膝が折れ、その場に、崩れ落ちた。
「っと、危ない!」
慌てて支える。
彼女の体は、鉛のように重くなっていた。体を支えるための機能が失われているのがよくわかる。「魔力切れ」による、倦怠感がおそらくその正体だ。
魔導回路を酷使した反動で、指一本動かせなくなる症状だ。
「……ごめん。力が、入らないの……」
「無理もないよ。連戦だったし、あんな魔法を、連発したんだ。やりきった証さ」
僕も実はギリギリであることは、あえて言わないでおく。
あと一発でも何かしらの魔法を発動していたら、先に倒れていたのは僕の方かもしれない。
「ホノジくんは大丈夫なの……?」
自分が倒れてまで、心配する人はどれぐらいいるのだろうか。冷夏さんのその気遣いが、疲れた体に染みるように温かかった。
「僕はなんとか。枯渇だけはしないように、気をつけてたから」
「そう……。あなたって、ちゃっかり強かよね」
口はまだまだ元気そうだけど、冷夏さんの腕が少し痙攣してるのがわかる。
無理はさせたくない。
「冷夏さんは寮生活だよね?」
「……? そうよ?」
何を当然なことを、みたいな目を向けてくる。
僕みたいに寮じゃなくて家を借りるタイプは珍しいのかな。
「乗って、寮まで送るよ」
僕は、冷夏さんに背中を向けた。
「……うぅ。なんて屈辱……」
文句を言いながらも、彼女は素直に、僕の背中に体重を預けた。
「僕の首にしがみつく力ぐらいは残ってる?」
「ええ、それはなんとか……」
「うん、なるべく冷夏さんに負担がいかないように、しっかりおぶるから、冷夏さんは遠慮なく全体重を預けてね」
「言われなくても……今の状態じゃ、それしかできないわ」
「なら良かった」
朝露に濡れた道を、歩く。
お姫様抱っこで全力で走ったあのときよりも、落ち着いておんぶしながら歩く方がずっと楽に感じた。
冷夏さんの吐息が、耳元に少しかかってくすぐったい。
背中から伝わる心音が、少し、早い気がした。
「……ねえ。喉、乾いた」
「ああ、ごめん。これ、飲みなよ」
僕は腰のポーチから、小瓶を取り出して、渡した。
パントリーで長期熟成させていた、とっておきの特製ミルクだ。
本当は自分で飲もうと思ったけど、おいしいミルクは、必要な人に飲んでもらうのが、一番いい。
冷夏さんは、震える手で受け取り、一口飲んだ。
「……んッ!?」
彼女の目が、丸くなる。
濃厚なコクと、甘み。
そして何より、枯渇していた魔導回路に、じんわりと潤いが染み渡っていく感覚を、味わっていることだろう。
「なによ、これ……今まで飲んでた牛乳と、全然違う……魔力が、回復していくのが、わかるわ……」
「特別製だからね。疲れた体には、一番だよ」
「……あなた、本当に何者なのよ」
「ただの、牛好きだよ」
冷夏さんはもう一度ため息をつき、それから、小さな声で呟いた。
「……ありがと」
そう口にした彼女の表情は、結局、確かめられなかった。
目の前には、寮への帰り道――見慣れた学園の風景が、広がっている。
たとえ朝焼けが、祝福のようにやさしく差し込んでいても、勝手に禁足地に踏み入れたという事実だけは、変わらない。
(もう誤魔化すつもりもないし、ボチボチってところだね……)
結果的に、目的のものは、無事に採取できた。
カッコよくて、怖くて、必死で、それでもどこか愛嬌のある牛たちと戯れられたのも、確かに、楽しかった。
その一方で、身体はすっかり疲れきっていて、気力も底をついていたのも、また事実だった。
……それに、取りこぼしたものも、ちゃんとある。
影に溶けて消えた、小さな女の子。
ジェーンさんとの会話の決着。
まだ、終わっていない。
それでも――それでも、来てよかったと思えたのは、独りじゃ、なかったからだ。
なにより、冷夏さんの小さな感謝の言葉が、疲れきった体の奥へと、静かに、染み渡っていったから。
帰ったら、温かいホットミルクが、飲みたくなった。




