第78話:氷の令嬢は、朝焼けに揺れる
長い夜が、明けようとしていた。
木々の隙間から差し込む朝焼けが、戦場だった森を、厳かに照らし出す。
その光の中で、勝負は、決した。
地に伏した黒い統率者。
最後まで群れを守ろうと立ち向かってきたその姿は、敵ながら、あっぱれだった。
王の最期――それは、立派な「命の在り方」そのものだった。
感心はあれど、恨みはない。
――ジェネラル・バイソンとの闘いも含めて、長い夜だった。
ただ、緊張を簡単に解くわけにはいかない。
そのときだった。
僕の警戒に呼応するかのように、湯気と静寂が支配する中、新たな影が、揺れた。
「……ッ!」
へたり込んでいた冷夏さんが、弾かれたように身構える。
でも、その手はもう、ほとんど力が入っていない。
筋肉が小さく痙攣している。
茂みから現れたのは、先ほどのボスより一回り小さいが、それでも十分に巨躯なバイソンだった。
角の形状と体つきからして、メスだ。
おそらく、ボスのツガイだろう。
彼女は僕たちを睨みつけることもなく、倒れ伏したボスにゆっくり近づくと、その頬を、ザラついた舌で、悲しげに舐め始めた。
その姿を見て、僕は安堵した。
メスのバイソンに、敵意はないとわかったからだ。
「……どうする? 殺る?」
冷夏さんが、低い声で問いかける。
指先に電気がパチッと光るが、その指は、震えていた。
仕方がない。
魔力も、体力も、もう限界なのだ。
おそらくまともに撃てやしない。
僕と同じく警戒をしていた冷夏さんだ。
今日は畳みかけるように脅威がやってきた。
そのメスのバイソンに敵意がなくとも、冷夏さんがそう提案したことの意味自体はわかる。
わかるけど……。
それをやってしまったなら、僕たちも彼女らと変わらない気がした。
だから僕は、伸ばした冷夏さんの腕をそっとおろし、首を横に振った。
「まさか。……命のやりとりだ。どっちが悪いとかじゃないし、はじめたのは人間側だ」
「え?」
「僕たちがここに入り込んだ。彼らは縄張りを守ろうとした。それだけのことだよ」
僕は、ボスの骸を見据える。
圧倒的な暴力だった。
でも、そこには、群れを守るという、王の誇りがあった。
「命をいただくのに、言い訳はしないよ。でも感謝はしてる。だから僕はごまかさない。この結果を、見届ける」
僕の言葉に、冷夏さんはハッとしたように息を呑み、指先を下ろした。
僕はゆっくりと、メスのバイソンへと歩み寄る。
彼女は、濡れた瞳で僕を見た。
そこにあるのは、怒りよりも、深い悲しみと、諦めのような色だった。
近くで見て、違和感に気づく。
彼女の角の片方が、不自然に、欠けていた。
それだけじゃない。
よく見れば、遠巻きに見ている群れの仲間たちの中にも、角だけを切り取られた個体が、何頭かいる。
(……きっとあれは、角目当てのハンターの仕業だ)
ロイさんが言っていた、「質の悪い密猟者」。
角や外殻のような、高く売れる素材だけを奪い、肉を食べもせずに、ただ殺して捨てていく輩がいると。
どれぐらい質の悪い密猟者がいるのかはわからないが……それは間違いなく、ジェーンさんたちのことも言っているのだろう。
角のために、生きたまま苦しめる。
ジェーンさんが、最初にそう言っていた。
まだ、いたずらに殺されていないだけ、マシなのかもしれないが……彼らが人間を過剰に警戒し、攻撃的になっていた理由は、間違いなくこれだろう。
バイソンたちは自分たちに降りかかる火の粉を払おうとしたに過ぎない。
決して、ただ人を殺戮したくて僕たちを襲ったわけじゃない。
どこが始まりなのかはわからないけど、少なくとも、悪いハンターたちが角目当てにバイソンを苦しめ、バイソンたちが防衛しようとして、僕らが襲われた。そう推測できる。
全部、繋がっている。
僕たちが今夜、戦ったものは、ぜんぶ、ひと続きの「結果」だったんだ。
「――私は絶対に赦さないわ」
冷夏さんが、群れとメス牛を見つめたまま言った。
声は小さい。
けれど、その奥にある怒りは、朝焼けの中でも消えない氷みたいに、硬く澄んでいた。
言葉数は少ない。
それでもきっと僕と冷夏さんは、似たようなことを想っている。
「僕も許せない。ジェーンさんにもしっかり責任を取ってもらわないと……きっとそれは、彼女たちのためにも……」
目の前のメス牛を見て、もう一つのことに気づく。
彼女の乳房が、パンパンに、張っている。
(……もしかしてお腹に、子供がいるのか?)
だとしたら、生まれるタイミングが、遅れているのかもしれない。
ハンターへの警戒、群れの防衛、そういった過度のストレス環境が、出産を遅らせている可能性がある。
乳房の張りは、その予兆だ。
あれは、痛い。
熱も、持っているはずだ。
(……とりあえずやれそうなことからやろう)
僕は、腰の包丁を抜いた。
メスが身じろぎするが、僕は彼女ではなく、足元のボスへと、刃を向けた。
――ザンッ。
一太刀で、ボスの立派な「角」を切り落とす。
市場で高値で取引され、密猟者たちが狙う元凶だ。
切り落とした角は、冷たいはずなのに、指先に、ぬるさが残った。
まるで“芯”だけが、まだ生きているみたいに。
それはきっと、魔力がまだ角に残留していたのも、無関係ではないだろう。
僕はその角を、メスの前に、コトリと置いた。
「――彼は立派だった。群れを守る誇りのために戦った。ほんとうにすごかったよ。僕らが生きているのはぎりぎり奇跡的なものだ。彼はすごかった……でも――」
僕はまっすぐとメスの瞳を見た。
「僕らが殺した」
それは覆しようのない事実だ。
誤魔化すことは、もうしない。
「……ブモォ」
ツガイのバイソンが一回だけ静かに鳴く。
「……バイソンさん。謝らないよ。こっちの勝手な都合でこの結果を引き起こして、謝ったら、傲慢でしょ。最初に襲ってきたのは、一応そっちだしね」
言葉が通じているかは、わからない。
でも、彼女は静かに、僕を見つめ返してきた。
その目は、怒りじゃない。
守るべきものがある目に、見えた。
そして言葉が通じないなりに、理解しようと目を向けている気もした。
「でもね、ちょっと助けはさせて。傲慢にはなりたくないけど、勝手なワガママで、助けさせてほしいとは思ってるんだ。人間って、複雑だよね?」
僕は、優しく微笑む。
そのまま、角を置いた手で、彼女の張った乳房を指差した。
「痛むだろ、それ」
言いながら、僕は流れるような動作で、空になった保存瓶を取り出し、彼女の腹の下へと潜り込んだ。
「はあぁぁぁ!? な、なにしてんのホノジくんっ!?」
後ろで冷夏さんが、素っ頓狂な声を上げる。
構うものか。
これは、緊急処置だ。
「よし、じゃあ、ちょっと失礼して……」
――シューッ、シューッ。
リズミカルな音と共に、真っ白なミルクが、瓶へと吸い込まれていく。
最初は困惑していたメス牛も、張りが解消される心地よさに、次第に大人しくなったみたいだった。
「いいミルクだ……。ありがとう」
真っ白な瓶を、もう一度、一瞥する。
バイソンは実家でよく振る舞われていたが、そういえば、ミルクは飲んだことがなかった。
たしかバイソンはメスと子どもを守る習性があると聞く。
ミルクにはその意志が浸透するっていう噂も……。
守る習性、か。
それを今回のジェネラル・バイソンたちも、全うしようとしたにすぎないのだろう。
たっぷりミルクの詰まった瓶をしっかり手に取る。
ほんのり温かかった。
(本当に、いいミルクだ。これがあるから、命が循環していく。感謝以外、ありえない)
搾りきったミルクを、即座に《食糧保存》する。
僕はこの時、心でそっと決めた。
(このミルクと、ボスの肉を使った料理で、お金を稼ごう。そうして、この裏山に「魔法柵」を作るんだ)
ハンターが入ってこられない、彼らだけの聖域を作る。
ゼロにはできないのは、わかってる。
これが、僕のワガママなのも、わかってる。
――死ぬ命は巡る命。
それが、命をいただいた僕にできる、せめてもの「循環」だと、思うから。
メスのバイソンは最後に一度だけ、低く鼻を鳴らすと、ボスの角を口にくわえ、森の奥へと、姿を消していった。
綺麗で、暖かな瞳だった。
その後ろ姿が消えたあと、冷夏さんが、ぽつりと言った。
「――私、恥ずかしいわ」
「恥ずかしい?」
「……わかりきった気になって。瑠衣のことも、ハンターのことも、バイソンのことも、ちっとも何もわかっちゃいなかった……」
冷夏さんは、膝の上で拳を握った。
さっきまで雷を放っていた指先は、もう震えることしかできない。
それでも、彼女の目だけは、まっすぐ森の奥を見ていた。
悔しさも、怒りも、恥も。
全部、飲み込まずに抱えたまま、前を見ようとしている。
そんなふうに琥珀色の瞳が揺れているように見えた。
「何も……取りこぼしたくないの。だから私は『氷の令嬢』を全うする。人にどう思われようともね」
「氷の令嬢……?」
「――そう呼ばれてるの。私にぴったりでしょ」
「……うん、たしかにぴったしかも」
「……やっぱりあなたもそう思うのね」
冷夏さんは弱々しくそう言った。
その声は、いつもの冷たい皮肉とは少し違っていた。
誰かに言われ慣れた言葉を、また同じ意味で受け取った人の声。
こっちに向けている視線がいつもと違うと思うのは、気のせいだろうか。
「やっぱりそう思う」がどういう意図なんだろうと思って、冷夏さんに訊く。
「うん? それってどういう意味?」
冷夏さんはその質問には答えなかった。
代わりに、森の方向を見る。
その目はどこか悲しげだ。
「……あの子も、連れていかれちゃったわね」
冷夏さんが見ているのは、メス牛が消えた森じゃない。
もっと遠く――ジェーンさんと、あの子が、影に溶けて消えた方角だった。
「……メロウ、っていう名前だったかしら」
「……うん」
「私、あの子を背負って、ここまで来たのよ。十歳になる子に、容赦なく半殺しを味わわせて、それでも――更生するなら味方するって、決めて。なのに……なのに……!」
冷夏さんの指が、悔しそうに、土を掻いた。
「……目の前で、連れていかれちゃった」
冷夏さんの目は、すごく寂しそうに見えた。
「……次に会ったら」
冷夏さんは小さく息を吐いて、それから、静かに言った。
「今度こそ、ちゃんと連れて帰るわ」
その声に、迷いはなかった。
「冷夏さんなら、できると思うよ。だって今まで会った人の中で……うーん、なんていうのかな」
「なによ。言いづらいこと?」
「言いづらいっていうか、どう言ったらいいのか、うまく表現できないって感じ。えーとね、冷夏さんって今まで会ってきた人の中でも、意志がすごく強そうなんだけど……」
「遠慮なく言いなさい。何かしら」
「――同時にすごく脆そうだなって」
「……も、脆い? 私が……?」
冷夏さんの表情が、ほんの一瞬だけ固まった。
まったく予想していなかった言葉を、急に胸の真ん中へ置かれたような顔だった。
「うん。『氷の令嬢』ってほんと冷夏さんにぴったりの二つ名だよね。強くて、そして……氷のように繊細だから」
「……っ!」
冷夏さんの目が見開く。
「どうかした、冷夏さん? なんか傷つけたようなこと言っちゃったかな」
「……違うわよ。違うから、困ってるの……」
冷夏さんは片手で口元を隠した。
朝焼けのせいなのか。
それとも、戦いの熱がまだ残っているせいなのか。
頬が、ほんの少しだけ赤く見えた。
「『氷の令嬢』の意味をそんなふうに捉える人なんて、会ったことないから。たいていの人は冷たいって意味でそう呼ぶのよ」
「冷たい? いいことじゃん。冷たさがあるから、食材も新鮮に保たれる。厳しい冬の真っ最中も、それを乗り越えた先にも、氷が必要なんだよ。生きるためには必要不可欠なんだ。冷夏さんにほんとうにぴったしな二つ名だと思う」
「……」
冷夏さんは、何か言おうとして、言葉を失ったみたいだった。
呆れているようにも見える。
怒っているようにも見える。
けれど、それ以上に、どう受け取ればいいのかわからなくなっているように見えた。
「冷夏さん?」
「……もう! ホノジくん、なんなのよ本当にっ! そろそろ黙ってくれない!?」
「……」
「本当に黙る人がどこにいるのよっ!?」
「だって冷夏さんが黙ってって言ったから」
「はぁ……まったく。疲れた体に染みるわね。あなたとのやりとり」
「へへへ~。あんまり褒めないでよ」
「褒めてないわよ」
冷夏さんはそう言いながらも、ほんの少しだけ口元を緩めた。
いつもの張りつめた笑みじゃない。
相手を試すための笑みでもない。
疲れきった体から、ふっと力が抜けたときにだけ出るような、素の笑みだった。
「でも癪だから、私も返すわね。私もあなたほど、優しさに無自覚で――」
そこで、冷夏さんは一度言葉を切った。
僕を見る目が、少しだけ真剣になる。
からかい半分。
けれど、半分は本気。
そんな、妙に逃げ場のない視線だった。
「――それと同時に危険に無自覚な人物、見たことないわ」
「優しくて危険だなんて、あはは。あんまり褒めないで……って、うん? それ褒めてる?」
「――褒めてるわよ。褒める以外のこともあるだけで」
「ふーん、そっか。変なの」
「あなたにだけは変って言われたくないわね」
「ん、ちょっと待てよ……少し考えてみたけど、どう考えても僕が危険だなんておかしいよ。ここまで平和志向な人間もなかなかいないよ?」
「……自分で言っちゃうあたり、ホノジくんって感じね」
冷夏さんは小さく肩を竦めた。
その仕草には、呆れと、諦めと、ほんの少しの親しみが混ざっていた。
けれど、次の瞬間。
彼女の視線が、地面の一点で止まる。
「そう言えば、あれ見て」
それから冷夏さんは、地面に落ちていた“あるもの”に、目を留めた。
ジェーンさんが切り落としていった、小指。
もう、血は乾きかけている。
さっきまで緩んでいた空気が、音もなく冷える。
冷夏さんは、震える手で、それを布にくるんで、ポーチへとしまった。
「……それ」
「組織を追う、手がかりよ。こんな趣味の悪いもの、好きで拾うわけじゃないけれど」
氷の令嬢の、冷静な横顔だった。
でもその手は、まだ少し震えていた。
「僕も……ジェーンさんにまた会えたなら、今度こそ話をしっかり聞く」
「――話、ね」
「ん、何。冷夏さん」
「ホノジくん。あなた、優しすぎるのよ」
「あ、勘違いしないで。しっかり責任は取らせるから。でもそのためにも今まで何をしたのか、何を感じたのか、何をされてきたのかをしっかり聞かないとだよ。そうしないと、どうやって責任を取ってもらうかも決められないから」
「――ほら。優しすぎるわ」
「うーん、今度こそ褒めてくれてるのかな?」
冷夏さんはこっちを見ると、少しだけ肩を竦めた。
呆れている。
けれど、突き放しているわけではない。
これ以上聞いても、いまいち意味をつかみきれる気がしなかった。
「それより」
僕もそろそろ目の前にあるものと対峙しないといけない。
「今はこいつをどうにかしないとだね」
大きく地に伏せたジェネラル・バイソン。
ここからは、職人の時間だ。




