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蹄煮込み、経験を喰らう――牛好きの少年は「死」を食べて強くなる  作者: メイ
第二章:言葉を探す少年

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第77話:冷水締め

 熱い。

 視界が、赤い。


 肺が焼ける感覚に、思考まで溶けそうになる。


「……冷夏さん、その殺す魔法ってやつの種類を、ざっと教えてほしい!」


「雷魔法と……今あるのは、火の魔法かしら。あと……あと…………」


 冷夏さんが口ごもる。

 意外と焦ってるのかもしれないけれど、この状況で、それはやめてほしい。


「冷夏さん? あと何!?」


「い、一応……指輪の拡張魔具(ストラス)で、風魔法があるわ」


「風魔法? それ、吹き飛ばせる!?」


「相手を吹き飛ばすのに、もってこいの魔法よ」


 ラッキーだ。


 「殺す魔法しかない」と言われた瞬間、胃が沈んだ。


 けれど、風魔法があるなら話が違う。


 バイソンたちを吹き飛ばせるなら――道を作って、逃げられるかもしれない。


 そうやって、心の中に希望を灯した、その直後。

 その希望ごと潰しにくるみたいに、一体のアイアン・バイソンがこちらへ突っ込んできた。


「うわっ!? 来てる来てる! 冷夏さん、その指輪の魔法を使って!!」


「わかったわ! お願い、吹き飛んでっ!」


 彼女が叫び、指輪を嵌めた手を突き出す。

 緑色の魔煌玉(マテリアル)が、淡く煌いた。


「《衝撃風(ショック・ウェーブ)》!」


 ドォンッ!!


 指輪が増幅した不可視の衝撃波が、目の前のバイソンを弾き飛ばした。


 巨体が宙を舞い、赤熱の胞子も一時的に吹き散らされる。


 ――だが、それだけだった。


 これなら行ける。

 そう思ったのもつかの間、バイソンはすぐに起き上がる。


 吹き飛ばされた胞子の隙間も、周囲の濃度で、あっという間に埋まっていった。


 一瞬だけ見えた勝利への道(ビクトリーロード)は、すぐさま閉ざされる。


「くっ……ダメね。決定打にならない……!」


 なんてことだ。

 風で道を作って逃げる――それは、思った以上に難しい。


 なら、次だ。


 そもそも、僕らが追い詰められている理由は、“この状況”そのものにある。

 この状況を作った、あのジェネラル・バイソンを倒せば――根本から統率が崩れて、隙が生まれるかもしれない。


 ならば、ここは――。


「冷夏さん、次だ。貫通力のある魔法はない? あのボスに、喰らわせてやって!」


「あるわよっ、任せて! 貫け――《雷槍(グニル)》っ!」


 冷夏さんの指先が、バリッと発光した。

 次の瞬間、青白い閃光がとんでもない速度で走り、ジェネラル・バイソンの眉間にぶち当たる。


 バシュンッ!!


 チリチリ……チリリ……。


 眉間から、うっすら煙があがる。


 ――しかし。

 ジェネラル・バイソンの眉間には、ムカつくほど、傷ひとつなかった。


 「何かしたのか?」と言わんばかりに、こちらを見て、首を傾げている。


 分厚い鋼みたいな皮膚が、冷夏さんの魔法を、無慈悲に弾き飛ばしたのだ。


「そ、そんな……! 《雷槍(グニル)》を受けて、無傷だなんてっ!」


 冷夏さんの顔色が、蒼白になる。

 あれだけ鋭く走った雷の閃光で無傷――そりゃ、そうなる。


 僕らの視線の先で、群れを統率するボスが、あざけるように鼻を鳴らした。


 あれは、獲物を見ているだけの目じゃない。

 あくどい瞳だ。

 どう料理しようか、企んでいる。


 ジェネラル・バイソンが動く。


 それに合わせて、他のバイソンも、ゆっくりと詰めてきた。

 じわじわと、包囲網が狭まっていく。


 まったく……知能があるだけで、こんなにも厄介になるなんて。


『ねぇホノちゃん。手詰まりだねぇ……。《英雄再演(リキャスト)》、する?』


 脳内で、ジュリアが甘く囁いた。


 ――英雄再演(リキャスト)


 英雄を、この世界に再演させる、最後の奥の手。

 さっき借りた「足」みたいな、部分的な貸し出しとは、わけが違う。

 英雄そのものが、最大十分間だけ姿を現す。


(《英雄再演(リキャスト)》って……誰なら、この状況を打破できるの!?)


『オレなら余裕。一瞬で塵になるまで斬ッてやるよ。しかし女は知らン』


 オーガが即答する。


『我の氷魔法で、あたり一帯を凍結してやろう。百年ぐらいは雪山になるかもしれんがな』


 ヴァンデルが、鼻で笑う。


『アハハ、アタシならこの場から余裕でしゅばばばって退散できるよ? でもレーカちゃんは、一人で焼け死ぬかもねっ!』


 ジュリアが、明るく笑った。


『計算終了。生存ルートは確保済みですわ。ご主人様の生存確率九十九%、冷夏さまの生存確率七十二%。ギャンブルと考えれば、勝ち確。オールインですわね』


 ミネルヴァが、淡々と告げる。


『毒で中和だネエ。胞子ごと腐らせようカ。肌に保護ができても、そこまデ。持ち物も服も、全部メルトダウンしちゃってもいいならやるヨッ。毒を食らわば皿まで(オーバードーズ)!』


 レクターが、舌なめずりする。


 やり方は違えど、結論は同じだ。

 全員、「余裕」らしい。

 こいつらなら、指先ひとつで片づけられるだろう。


 ――冷夏さんを度外視すれば、の話だが。


 唯一マシなのはミネルヴァか?

 いや、それでも三回に一回は死ぬ計算だ。


 レクターは……だめだ。

 年頃の男女二人が裸では、心に一生消えない(トラウマ)を残してしまう。


(クソ~! 使えなさすぎる! こいつらのどこが英雄なんだよ!)


『アハハ! ホノちゃんって、余裕ないとき口悪いよね?』


(あ、そうだ……ガンテツなら!)


『あ~、すまんがワイは、それなりの武器ないと無理じゃぞ』


 ガンテツだけが、唯一現実的(シビア)なことを言った。


 ……ほら、出てしまった。

 リキャスト、という言葉が、頭の中をぐるぐる回る。


 使えば、終わる。

 たぶん、一瞬で。


 その甘さに、ぐらりと、心が傾きかけた。


 ……でも。


 僕は、奥歯を噛み締めた。

 歯を食いしばると、削られた精神の奥が、じくりと痛む。


 みぞおちが、まだ熱を持っている。

 借りた足の感覚が、まだ抜けきっていない。


 もう、何も残っていない。

 心も、体も、空っぽに近い。


 ――だからこそ、だ。


 こんなにボロボロで、一番楽な道が、目の前にぶら下がっていて。

 それでも、手を伸ばしちゃいけない。


 英雄の力は、強大だ。

 でも、それに頼り切ったら――僕は、いつまでたっても、半人前のままだ。


 さっき、借り物の足で、かろうじて命を拾った。


 「次は、ちゃんとやる」って、決めたばかりじゃないか。

 なのに、もっと重い力に、すがるのか。


 ……いや。

 ここで逃げたら、きっと、ずっと逃げる。


 それに満身創痍の状態でのリキャストは、あとからくる反動が怖すぎる。


(まだ、何か、やれることがあるはずだ……!)


 思考を回せ。

 可能性を、回せ。


 手元にあるものを、確認しろ。

 ないものねだりしても、どうにもならない。


 武器はない。

 火力もない。

 奇跡は、タダで降ってこない。


 あるのは、包丁と、調味料と――英雄よりも頼れる、調理魔法だけ。


 そうだ。


 僕には、愛しの牛たちと、調理のプライドしか、元々ない。


『……どうするんですの、ご主人様?』


 ミネルヴァが、試すように問いかける。

 どこか、期待を含んだ笑みで。


(今は、僕のやり方でどうにかするよ! みんな、ありがとう!)


 僕は、腹を括った。

 嘆いていても、事態はよくならない。

 どうにかするしか――ない。


「……やばいわ。少しずつ、押されてる……もう、やるしかないのかしら」


 その時、冷夏さんの瞳に、悲壮な決意が宿った。


 彼女が指先に集め始めた魔力は、さっきまでの比じゃない。

 放とうとしているのは――おそらく、高火力の魔法だ。


『フン! この魔力の起こり、広範囲に《焔爆弾(ブラストボム)》を撒く気だな。我の《焦熱地獄(ヘル・フレイム)》の下位互換か。出力が低すぎて、欠伸が出るわ』


(ヴァンデルさん、傲慢が過ぎるよ!?)


 脳内のダメ出しに、ツッコミを入れつつ、僕は焦った。


 つまり今のヴァンデルの言葉を整理するなら――冷夏さんは、火属性の広範囲魔法を使おうとしている。


 ヴァンデルにとっては下位互換でも、今の状況じゃ、死に直結する起爆剤になりえる。


「私が、道をあけるわ。その隙に、逃げて!」


「なっ……」


瑠衣(るい)のことは、絶対あきらめないでね! たのんだわよ!」


 彼女は、本気だ。

 自分の命と引き換えに、僕だけを逃がそうとしている。


「……覚悟きまりすぎてて、冷夏さんやばいって。一度、落ち着こう?」


「いいの、私のことはほっといて! 私だって、こういうときぐらい、役立てるってこと……見せてあげるのよっ! 全部あきらめないんだから!」


「……カッコイイところ悪いんだけど、あっさり命を捨てるのを『強さ』とは言わないよ! 全部あきらめないなら、自分の命も勘定に入れてあげて!?」


「……いずれ来たる地獄への道よ。汝の気まぐれの遊戯よ。灼熱の天――」


 それでも無視して詠唱を続けようとする彼女の口元を、僕は手でガバッと塞いだ。


「むぐっ!?」


「詠唱ストップ、ストップ! ここでそんな広範囲魔法を使ったら、胞子に引火して大爆発だ。全員、ウェルダンになっちゃうよ!」


 ――ガァァアアアッ!!


 その隙を突いて、バイソンたちが一斉に咆哮を上げた。


 ボスが動く。

 熱の檻を狭め、トドメを刺しに来る気だ。


 四方八方から迫る、高熱の壁。

 周囲を囲む、バイソンたち。


 逃げ場は、ない。

 だから。


(逃げる場所がないなら――作ればいい!)


生粋魔法(ネイティブ)調理(クック)――《真空処理(スーヴィド)》!」


 僕が指を鳴らした瞬間。


 フッ……。


 世界から、音が消えた。


 僕と冷夏さんを中心に、半径一メートルから二メートルの輪。

 そのドーナツ状の領域から、空気そのものが――消失する。


「……え?」


 冷夏さんが、目を見開く。


 迫りくる真っ赤な胞子の波が、僕たちの目の前で、ピタリと止まっていた。

 まるで、透明なガラスの壁に阻まれたみたいに。


 当然だ。


 胞子は、空気に乗って漂う。

 空気のない真空は、見えない壁になる。

 熱の正体は、魔力(エーテル)――その微粒子だ。


 一瞬だけ、呼吸が楽になった。


「す、すごい……胞子が、止まった……!」


「これで呼吸は確保できたけど、まだ油断しないで!」


 言った通り、すぐに現実に引き戻される。


 真空の壁の向こうから、巨大な影が、こちらに突っ込んでくるのが見えた。


 ドスッ、ドスッ、ドスッ!


 バイソンだ。


 胞子は止まっても、質量を持った鋼鉄の塊は、真空なんてお構いなしに突っ込んでくる。


「冷夏さん、危ないッ!」


 突っ込んでくるバイソンは、冷夏さんへ一直線だった。

 とっさに、彼女の体をぐっと引っ張り、抱き寄せる。


「きゃあっ!」


 柔らかく華奢な体を、僕は胸の中で受け止めた。


「ホ、ホノジくん……」


「っ、やっぱり物理攻撃は、防げない!」


 《真空処理スーヴィド》は、食材を外気から遮断して、劣化を防ぐための下準備。

 物理的な盾じゃない。


 このままじゃ、真空パックの中で、ミンチにされる。


 ――さて、どうする。


 相手が突っ込んでくるなら、物理でどうにかできないか……。


 いや、ダメだ。


 熱すら遮断する、鋼鉄みたいな分厚い皮膚に、馬鹿正直に刃を通しても、効果は薄い。

 その結果、包丁と心が、刃こぼれするだけだ。


 最初に遭遇したアイアン・バイソンを思い出す。


 あのときは《解体(ブッチャー)》があったから、どうにかなった。

 ――ただ、その頼みの《解体(ブッチャー)》も、今は活かしづらい。


 この真空の結界は、僕を中心にした半径数メートルしか、維持できない。


 一歩でも外に出れば、肺が高熱で焼かれて、ジ・エンド。

 つまりこの状況で、冷夏さんを、僕のそばから離すわけにはいかない。


 それに――真空の維持だけでも、消耗しきった体には、重い。

 魔力が、底のほうから、どんどん削れていくのがわかる。

 長くは、もたない。


 僕はとっさに、胸の中に抱きしめた冷夏さんの手を、強く握りしめた。

 そして、彼女の目を、まっすぐ見る。


「冷夏さん。僕のそばから、絶対に離れないで」


「えっ……」


 彼女の体温が、掌越しに伝わってくる。

 僕は、バイソンの巨体を見据えたまま、真剣に告げた。


「この円から出たら、終わりだ。……死ぬときは、一緒だよ」


「~~ッ!!」


 冷夏さんの顔が、炎の照り返し以上に、真っ赤に染まる。

 熱に弱いのかな。


「あ、あんたって人は……こんな時に、なんて口説き文句を……!」


(……口説き文句? 事実を言っただけなんだけど……)


 まあいい。

 今は、誤解を解いている時間はない。


 少しでも油断すれば、キノコか、バイソンたちの餌食になる。

 それは、もう明白だ。


 地獄みたいな、この状況。

 打破するために、集中しろ。


 手元にある武器は、確認した。


 それでも、足りない。

 なら、足りないものを、補うしかない。


 いつもと違う環境――利用できるものを、考えろ。


(心の刃を、研ぐんだッ! 焔乃士(ほのじ)!)


 その時――。


 ビシャンッ、という水の音と振動を、僕の《振動感知(ソナー)》が拾った。

 アイアン・バイソンが、水溜まりを踏んだ音だ。

 音のした方へ視線を向けると、木々の奥に、小さな池が、ちらりと見えた。


(あ、あれは水…………水じゃん!? なら、いけるか……!?)


 鋼鉄みたいな皮膚。

 熱。

 そして――水。


 それらが意味するもの。

 その可能性を掴めるなら、この状況を、ひっくり返せる。


 ……ただし、実行するには、ひとつ、ピースが足りない。


 どうしたものかと、頭を抱えそうになった、その瞬間――。


 ぎゅっと手が握られて、意識が引き戻された。


「ホノジくん? ど、どうかしたのかしら……?」


 そうだ。


 僕の胸には、冷夏さんがいる。

 僕は今、一人じゃない。


 ……一人じゃ、ないんだ。


「やっぱり僕ってば、ラッキーボーイだ」


「……ホノジくん? 何か、見つけたのね……?」


「冷夏さん……まだ会ったばかりの、この僕を信じて、協力してくれる?」


「……いいわよ。短い時間だけど、死闘をここまでふたりとも切り抜けたのよ。どうせ死ぬなら――その可能性に、賭けてみようじゃない!」


「ありがとう、冷夏さん! まず、ここから移動するよ! あそこへ!」


 僕が指差したのは、木々の奥。

 月明かりを反射した水面――小さな池だった。


「池……?」


「僕の『冷まし』の魔法は、触媒になる水がないと、発動しないんだ。あそこまで走る!」


「でも、どうやって!? 囲まれてるのよ!?」


「僕が君を抱える。冷夏さんは指輪の魔法で、正面の敵をどかしてくれ!」


「か、抱えるって……きゃあっ!?」


 返事を待たずに、僕は抱き寄せていた冷夏さんを、お姫様抱っこにした。


 軽い。


 でも――今の僕には、その軽さすら、少しだけ重く感じる。


 削られた精神。

 借り物だった足。

 みぞおちの鈍痛。


 真空を維持したまま、人一人を抱えて全力で走る。


 万全でも、きついはずだ。

 ましてや今は、空っぽに近い。


 それでも――この腕の中の体温を、落とすわけにはいかない。


 守るものがあるって、それだけで、空っぽの体に、最後の薪がくべられる。

 僕の中にあったおきのような意志が、信念という空気を食べて、大きくなっていく。


「舌、噛まないでね!」


 真空空間(スーヴィド)を維持したまま、僕は地面を、力強く蹴った。


 わずかな隙間とルートを、こじ開けるように、駆け抜ける。


 同時に、バイソンたちが殺到した。


「冷夏さん、今だッ!」


「任せなさい! 《衝撃風(ショック・ウェーブ)》!!」


 冷夏さんが、僕の腕の中から、進行方向へ風の塊を放つ。

 真正面のバイソンが吹き飛び、一瞬だけ、道が開いた。

 そこを、真空の泡を纏ったまま、駆け抜ける。


 ――グオォォォッ!!


 背後から、ボスの怒り狂った咆哮が響く。

 凄まじい地響き。


 ジェネラル・バイソンが、僕たちの背中を追って突進してくる。


 速い。


 こちらも負けじと、真空を維持したまま全力で走る。

 魔力の消費が、だいぶ激しい。


 視界の端が、ちらちらと暗くなる。

 酸素じゃない。

 魔力の、枯渇が近いんだ。


 そのうえ、ジェネラル・バイソンとの距離が、確実に縮まっている。


 このままでは、追いつかれて衝突する。


「冷夏さん! 遠慮せずに僕のことをもっと思いっきり抱きしめて!」


「……え? え?」


「いいから! 早く!」


「……もう!」


 冷夏さんの腕が、ぎゅっと僕の首に回る。


 柔らかい感触が胸元に押しつけられて、一瞬だけ思考が跳ねた。


 いや、違う。

 今はそれどころじゃない。


 池へ向かう前に、視界の端にあった大木へ、まっすぐ突っ込む。


「ホ、ホノジくん!? 前、木! 木があるわよ!?」


「あるから行くんだよ!」


「……そういうこと!」


 冷夏さんにも、何か伝わったようだ。


 背後から迫る地響きが、さらに近づく。


 ドドドドドドドッ!!


 ジェネラル・バイソンの巨体が、真後ろまで迫っている。

 逃げきれる速度じゃない。


 なら、逃げない。

 引きつける。


 大木まで、あと十歩。


 八歩。

 五歩。


 背中に、焼けた鋼鉄の圧が迫る。

 熱い鼻息が、真空の膜の外側を舐めた気がした。


 冷夏さんを腕の中に抱えたまま、僕はさらに加速する。


 大木の幹が、目の前いっぱいに広がった。


 ぶつかる。

 そう思う距離まで、引きつけて。


 ぎりぎりで、左足を幹に叩きつけた。


 ――ガッ!!


 足裏に、硬い衝撃。

 膝が軋む。

 みぞおちの痛みが、また内側から噛みついてくる。


 でも、止まらない。


 そのまま幹を蹴り上げる。


 一歩。

 身体が浮く。


 二歩。

 世界が斜めに傾く。


 三歩目を踏み込んだ瞬間、僕は冷夏さんを抱えたまま、背中側へ身を投げるように宙へ跳んだ。


「きゃあああっ!?」


 月と地面が、ぐるりと入れ替わる。


 冷夏さんの腕が、さらに強く僕の首に絡みついた。


 真空の泡が、ぎりぎりで形を保つ。

 赤熱の胞子が、その外側を流れていく。


 その直後。


 ドゴォォォォォンッ!!


 ジェネラル・バイソンの巨体が、大木に激突した。

 森そのものが、殴られたみたいに揺れる。


 幹が悲鳴を上げた。


 ミシッ。


 メキメキメキメキッ!!


 太い大木が、根元から裂ける。

 折れた幹が、巨大な影になって傾いた。


 ジェネラル・バイソンの突進が、ほんの一瞬だけ止まる。


 その一瞬で、十分だった。


 僕は宙返りの勢いのまま地面に着地する。


 足が、滑る。

 膝が、抜けかける。


 それでも、倒れない。

 倒れるものか。


 ――調理はまだ終わってないんだ!


 冷夏さんを抱え直して、池の方へ向き直る。


 背後では、折れた大木が轟音を立てて倒れ、ジェネラル・バイソンに覆いかぶさった。


 長くはもたない。

 あの化け物なら、すぐにあの大木ぐらい跳ねのける。


 でも。


 稼いだ。

 ほんの少しの時間。


 命を繋ぐには、十分すぎる時間だ。


 ――池まではあと少し……!


「着いたッ!」


 僕は池のほとりに滑り込み、冷夏さんを下ろす。


 膝が、笑った。

 もうすでにギリギリだ。


 だが、まだ終わってない。


「冷夏さん、合わせられるね!?」


「ええ、もちろん! 私、センスはあるのよ!」


「池の水に向かって、全力の《衝撃風(ショック・ウェーブ)》を準備して!」


 振り返れば、ジェネラル・バイソンが大木を跳ねのけていた。

 そして、まっすぐこちらに突っ込んでくる。


 衝突まで、あと数秒。


 飾りみたいな言葉は、いらない。

 目的は、ひとつ。


 僕は一度だけ呼吸をする。


 ボスと、真正面でぶつかりそうになる、その手前――


「今だ!」


「《衝撃風(ショック・ウェーブ)》!!」


 ドォォォンッ!!


 冷夏さんの魔法が水面を叩いた。


 跳ね上がった水と不可視の衝撃が、ジェネラル・バイソンの巨体をひっくり返すように押し上げる。


 同時に、大量の水しぶきが、カーテンみたいに、空中へ舞い上がった。


 その、空中に散った無数の水滴すべてに。

 僕は、イメージを重ねる。


 茹で上がった食材を、一気に締める。

 熱を奪い、組織を収縮させ、鮮度を閉じ込める。


 生粋魔法ネイティブ調理クック――。


「《冷水締め(ショック・クーラー)》!!」


 瞬間。


 舞い上がった水滴が、氷点下の冷気へと変わった。


 バシュゥゥゥゥゥ――ッ!!


 周囲一帯が、白一色に染まる。

 赤熱していた空気が急激に冷やされ、爆発的な水蒸気が発生したのだ。


 そして――。


 ジュッ、ジュジュジュジュジュ……ッ!!


 猛スピードで突っ込んできていた、ジェネラル・バイソンの巨体が、その氷点下の(ミスト)の中へ、真っ赤に焼けたまま、飛び込んだ。


 キンッ! ピキキキキッ!!


 硬質な“何か”が、悲鳴を上げるような音が、響く。


 霧の向こうで、ジェネラル・バイソンが、不快そうに顔を歪めながら立ち上がる。


 熱が奪われたことへの苛立ちか。

 それとも、自慢の装甲に走った違和感への、怒りか。


 眉間が、ぴくりと痙攣する。


『カーッカッカ! えげつないのう! 熱せられた鉄に冷水をぶっかければ、どうなるか……職人なら、常識じゃろ!?』


 脳内で、ガンテツが大笑いする。


 そう。

 熱衝撃(サーマル・ショック)


 急激な温度変化による収縮に耐えきれず、ボス自慢の鋼鉄装甲に、無数の亀裂(クラック)が走っていた。


 ――次の瞬間。


 ジェネラル・バイソンは、怒り狂ったように鼻を鳴らし、前脚で地面を掻いた。

 ザリッ、ザリッ、と土と小石がえぐれて、飛ぶ。


 熱い息が、白い霧を乱し、巨体がぐっと沈み――。

 跳ねる。


 獲物を潰すためだけの、興奮した突進。

 霧の壁を破る勢いで、一直線に、飛び出してきた。


「冷夏さん! あいつの眉間! 殻を割ったゆで卵より、脆いよ!」


「……っ! そういうこと!」


 冷夏さんは、悪戯な笑みを浮かべて、指先に魔力を込める。


「さっきは、よくもやってくれたわね……。今度もまた、同じように弾けるかしらっ!?」


 今度は、拡散する爆弾じゃない。

 一点を穿つ、貫通する雷の槍。


 冷夏さんは、片目を瞑って人差し指をピーンと張り、構えた。


「ありったけを、ぶち込むわ……最大出力(フルスロットル)……」


 バリバリと電気が走り始める。


 指先に、エネルギーがチャージされる、その間にも。

 ジェネラル・バイソンの突進は、止まらない。


 ドドドドドッ!!


 地面が揺れ、空気が裂ける。

 焼けた鋼鉄の巨体が、視界いっぱいに膨らんでくる。


 速い。近い。


 だが。


 冷夏さんの指先には、白い閃光がバリバリと迸っていた。


「――《雷槍(グニル)》ッ!!」


 ビュンッ!!


 放たれた雷の槍は、一直線にボスの眉間へ吸い込まれ――。


 ――バシュンッ!!


 脆くなった装甲を、薄氷みたいに、砕き割った。


 ズドォォォォン……。


 突進の慣性のまま、巨体が前へ倒れ込む。


 ズザザザザッ……! と土を削り、腹と脚を引きずりながら、池の縁で、ようやく止まった。


 そして――。


 ピクリとも、動かない。

 見事な、即死だ。


 王の敗北を悟ったのか、周囲のバイソンたちも、蜘蛛の子を散らすように、森の奥へ逃げ去っていった。


 良かった……あのまま粘られていたら、どうなっていたか、わかったものじゃない。


 後に残ったのは、もうもうと立ち込める湯気と、静寂と、疲労だけ。


「はぁ……はぁ……つらい……美味しいミルク、飲みたい……お腹たぷたぷになるまでぶっこみたい……」


 僕は、その場に、大の字にへたり込んだ。


 もう、指一本、動かしたくない。


 全部、出し切った。


 それでも――英雄再演(リキャスト)には、頼らなかった。


 これは……僕ひとりだからできたわけじゃないこともわかる。

 冷夏さんがいてくれたからだ。


 その事実だけが、空っぽの体の真ん中に、ぽつんと温かい。


 隣で、冷夏さんも肩で息をしながら、呆れたような――でも、どこか感心を含んだ眼差しを向けてくる。


「……ホノジくん、やるじゃないっ! 水魔法か氷魔法で『焼き入れ』をして、金属を脆くしたのよね?」


「え? 違うよ。ただの『下茹での後の、冷水締め』だよ。これをやると、身が引き締まって、美味しくなるんだ」


「……」


 冷夏さんは、口をポカンと開け、それから、小さく吹き出した。


「やっぱりあなた、変だわ」


 その笑顔は、今日見た中で一番、力が抜けていて――素敵だった。


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