第76話:黒い統率者
理不尽と異変はいつだって突然やってくる。
――ズシン。
心臓を、直接叩かれたみたいだった。
その音とともに、冷夏さんが握っていた僕の裾が、くしゃっとなるのがわかった。
重たい振動が、足の裏から背骨を駆け上がる。
さっき、群れの足音を拾った、その同じ感覚で。
今度は、すぐ近く。
月明かりの届かない木々の影から、ゆっくりと「それ」が姿を現した。
――デカい。
ついさっき僕が、レクターとミネルヴァと一緒に手当てした、あの鋼鉄毛皮牛。
あれより一回り。
いや、二回りは大きく見える。
全身を覆う鋼鉄の装甲は、無数の古傷で黒光りしていた。
つまりそれが意味するのは――歴戦の猛者。
でも、何より異質なのは――その眼だった。
獣の眼じゃない。
明確な知能と、底冷えするような殺意。
それが、まっすぐ僕を見据えている。
……まただ。
ジェーンさんと、同じ眼の温度。
違うのは……殺気を制御する気がない、ということ。
ただ恐ろしいのは、じっとこちらを見据えたまま、すぐには飛び込んでこないことだった。
何かを警戒しているような、何かを考えているような気配がある。
僕は全身で実感した。
――通常のアイアンバイソンとはワケが違う。
「ホノジくん、あれ……アイアンバイソンとは違うわよね?」
淡々と僕に問いかける冷夏さんの声には、緊張が混ざっていた。
「うん、あれはただのアイアンバイソンなんかじゃない。もっとヤバいやつだ」
自分の生唾を呑む音が、やけに大きく聞こえた。
『……気をつけろ、クソガキ』
脳内で、オーガの声が、剣呑に低くなる。
『コイツは、さっきの雑魚どもとは格が違ェ。ずっと木陰から見てやがッた。テメエの解体も、あの女の土人形遊びも――ぜンぶな』
(ぜんぶ……見てたの?)
『ハンッ。だから、おいそれと出てこなかッたンだよ。テメエの解体が一番ヤベえと値踏みして、わざわざ最後まで距離を取ッてやがッた。……畜生の割には頭が回りやがる』
(……それはわかるけど……仲間が苦しんでたのに、なんで助けなかったの?)
『ンなの簡単だろうが。テメエが助けようとしたバイソンにはクソ闇魔法がかかってやがったろ。だからアイツは、損切りした。そンだけだ』
(損切り? 命を損切りだって? それじゃあまるでジェーンさんの――)
『勘違いすンなクソガキ。あのクソ女とはちげえ。アイツは群れの王だ。役目は群れを守ること。感情で飛び出すことじゃねえ。だから考えたンだろうな、クソ畜生なりに。雑魚同士が消耗しきッて弱るのを待ってたッてワケだ。そこを狩れば、勝算は上がる。畜生の割にはやりやがる。クソ雑魚の理屈に変わりねえけどな』
消耗しきるのを、待ってた。
その一言が、ずしりと重い。
でも、それなら――。
(じゃあ、なんでジェーンさんはバイソンを苦しめたんだろう……隙をつくるためだけだったの……?)
『……ホノちゃん。精神的に敵を追い詰めるのはシノビの――ううん、闇稼業の基本戦術だからね』
ジュリアのその言葉で、嫌な形に繋がった。
逃げるためだけじゃない。
隙を作るためだけでもない。
僕を追い詰めるために。
少しでも削るために。
ジェーンさんは、バイソンをさらに苦しませたのかもしれない。
だとしたら、ジェーンさんの思惑はうまくいっている。
……だって、僕はもう心身ともにボロボロだ。
精神を削られて。
借り物の足で、かろうじて立って。
みぞおちに蹴りをもらって、まだ胸の奥がじくじく痛む。
クソ。
万全とは、口が裂けても言えない。
(……気配に気づいてたなら、先に教えてくれてもよかったのに)
恨み言のように心の中で漏れる。
『――なんでもかんでも、先回りして教えとったらどうする』
ガンテツの声が、静かに割って入った。
静かな割に圧を感じる。
『ワイらがおらんようになったとき、お前さんはどうやって生きる。今のうちに、自分の頭で読むことも覚えろ』
(……こんなときに、スパルタなんだから)
『そうですわ、ご主人様。今の――満身創痍のご主人様が、たった一人で放り出されたらと想像するだけで……心配で、素数でも数えていないと落ち着きませんわ』
(だから素数ってのが何なのか、いつか説明してよ!)
軽口を、無理やり胸の中で転がす。
いつもよりツッコミが荒い気がするけど、仕方がない。
そうでもしないと、足が震えそうだったし、こっちだっていっぱいいっぱいなんだから。
『SV五八〇級、B−帯。黒い統率者ですわね。今回も、せいぜい抗ってみてくださいな』
ミネルヴァがさらっと上から目線な口調で情報を足す。
「……ちくしょう」
思わず、声が漏れた。
黒い統率者。
この山の、主。
群れを率いる、王。
さっきまで戦っていた鋼鉄毛皮牛がSV二五〇級だとすれば、こいつはその二倍以上。
アイアンバイソンの狩りに出かけたとき、父さんが口酸っぱく言ってたのを思い出す。
――黒い統率者を見たら逃げろ。
父さんがわざわざそう言う時は、本当に危険なときだけ。
つまり同じ「バイソン」の名を冠していても――別物。
見たら無理せずに撤退。
それが正解の、山の王。
その王が、鼻息を荒く吹いた。
――動く。
「冷夏さん、下がって」
警戒を強めた。
でも――僕らの方には、来なかった。
巨体が狙いを定めたのは、すぐ横。
月光の下で、紫の燐光を放つ――竜息茸の密生地。
必要な分だけを採って、残しておいた、あの群生。
(……まさか)
「ダメだッ! やめろ――!」
僕の制止なんて、意に介さない。
巨体が、弾丸みたいに突っ込んだ。
ドゴォォォォンッ!!
大地が、悲鳴を上げた。
いや、悲鳴を上げたのは、大地だけじゃない。
強烈なストレスを受けた竜息茸たちが、一斉に、防衛本能を作動させる。
――ボッ、ボボボボボッ!!
真紅の輝きが、弾けた。
高熱の胞子が、爆発的に噴き出す。
紅蓮の、霧。
「きゃっ……!?」
「冷夏さん、風上! 風上に逃げて――!」
僕は、とっさに冷夏さんの手を引いた。
でも。
ドォォォンッ!!
ズドォォォンッ!!
左から。
右から。
背後からも。
同じ衝撃音が、立て続けに響いた。
「……うそ、でしょう」
冷夏さんの声が、掠れた。
僕たちを取り囲むように現れた、数体のバイソン。
示し合わせたように、それぞれが周囲の竜息茸へ、タックルを叩き込んでいる。
逃げ場が、一瞬で、消えた。
噴き上がった赤熱の霧が、生き物みたいに、迫ってくる。
「くっ……!」
避けきれなかった胞子の端が、僕の頬と、冷夏さんの二の腕を、かすめた。
「あぢっ……!」
「っ、熱……!」
二人して、短い悲鳴を上げる。
ほんの一瞬、かすっただけ。
なのに、焼きごてを押し当てられたみたいな痛みが走った。
服の袖が焦げ、肌が赤く爛れる。
「冷夏さん大丈夫!?」
「これぐらい平気。ホノジくんは?」
「僕もなんとか。それより……」
見渡すと、『絶望』が息をしている。
……囲まれた。
「……知能があるのってなんて素敵なことかしらね」
冷夏さんがそう皮肉りたくなる理由もわかる。
賢い、なんてもんじゃない。
父さんの警告が文字通りに身に染みる。
こいつらは、自分たちの「熱に強い鋼鉄の皮膚」を使って、僕たちだけを焼き殺す檻を作った。
周囲はすべて、高熱の胞子の壁。
夜の闇だった森が、今は、鮮やかな真紅に染まっている。
揺らめく、光の粒子。
幻想的に舞う、死の輝き。
(……綺麗だ)
ふと、場違いな感想がよぎる。
命の危機なのに。
赤と紫のコントラストを、美しいと思ってしまった。
こんな絶景に見惚れる自分が、ほんの少しだけ、嫌になる。
「……はぁっ、はぁ……」
――何してる焔乃士!
感傷に浸っている場合なんかじゃない。
バチンと頬を両手で叩いて、自分に喝を入れる。
少なくとも目の前のことからは逃げてはいけない。
現状から目を逸らせば死。
僕の身体がそれを訴えかけてくる。
肺に入ってくる空気が、熱風になって喉を焼く。
息をするたび、内側から体力が削られていく。
……ただでさえ、もう何も残っていない体だ。
精神も、足も、胸も、全部、限界の手前。
その体に、この熱は、効きすぎる。
熱い。
苦しい。
このままじゃ、酸欠か、熱中症か――それとも胞子の直撃で、灰になるか。
炎の向こうで、無傷のバイソンたちが、冷たい眼で、こっちを観察していた。
完全に、詰みの盤面。
「……冷夏さん」
僕は、熱い息を吐きながら、背中合わせの彼女に問うた。
期待の気持ちを込めて、確認をする。
「防御魔法とか、逃げるための魔法とか……なんか、持ってない?」
冷夏さんは西芳寺家の令嬢だ。
つまり、一流のエリート。
彼女ほどの人なら、何か――。
そう思った。
けれど。
返ってきたのは、絶望的な答えだった。
「……ごめんなさい」
冷夏さんは、熱風に乱れた黒髪を払い、悔しそうに、唇を噛んだ。
そして、その瞳に、静かな怒りを灯して。
「私、殺す魔法しか、持ってないわよ」




