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蹄煮込み、経験を喰らう――牛好きの少年は「死」を食べて強くなる  作者: メイ
第二章:言葉を探す少年

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第75話:残されたもの

「……勘……だと?」


 無表情の仮面が、ぴしりとひび割れる。


「ふざけるな……! 勘でわかるとか、あってたまるか!」


「勘っていうか、なんていうか……もう、間違いないかなって思い込んじゃったんだけど」


 言われて、僕は自分の中の感覚を整理する。


「なんか、一番寂しそうなのが本物なんだって思って」


「は?」


「雰囲気と、顔の筋肉の動きとか、表情でね。寂しそうかどうか、なんとなくわかるの。だから、一番寂しい人じゃなければ、溶かしてもいいかなって」


 女が、絶句した。


「な、何を言っている。土人形と私の動きは一緒のはずだ。外側も内側も。それに、なんで私が、寂しそうだということになるんだ……?」


「だって、言ってたじゃん」


「な、何をだ」


「……君が決めろ、って」


 女の動きが、止まった。

 空気の流れまで止まったみたいに、ぴたりと。


「なっ……!?」


「あ、適当じゃないからね」


 僕は、慌てて付け加えた。


「“君が決めろ”なんて言う人、どう考えても、寂しい人でしょ。だから、寂しそうな人が本物なんだなって思ってさ」


 ……自分の名前すら、自分から決められない人。


 だから、相手に決めさせる。

 決めてもらえると、思っている。


 でも、決めてもらった瞬間、それはもう、自分だけのものじゃなくなる。


 ずっと、自分を誰かに預けたままで。

 ずっと、自分のものじゃない名前で、生きていく。


 ……それは、寂しいよ。

 とっても、寂しいよ。


 想像できるのはそれだけ。

 

 だからといって自分じゃない名前に甘えてもらっても困る。

 寂しさには、思わず同情する。

 でも、何でも許すわけじゃない。


 たとえ任務だとしても――バイソンを苦しめたのはジェーンさん、あなただから。


 話し合って、責任はとってもらう。

 「ただの」ジェーンさんは卒業してもらう。


 ひとりのジェーンとして、向き合うんだ。


「…………っ」


 ジェーンさんの指が、ぴくりと震えた。

 目が、大きく見開かれる。


 喉の奥で、息が詰まるような音がした。


 次の瞬間。


「殺す――!」


 ジェーンさんが、僕の喉を狙って踏み込んだ。


 今までで、最速の動き。

 けれど、動きそのものは単純だった。


 だから、見えている。

 それでも、間一髪だった。

 鋭い手刀が、僕の頬をかすめて空を切る。


 その腕を、僕は――


 ――掴まなかった。


 《下拵え(プレップ)》。


 指先に、光のメスが伸びる。

 その光のメスを、ジェーンさんの手首へ。


 腱と腱のすきまに、そっと滑り込ませる。


 切らない。

 必要以上に傷つけない。


 ただ、力の通り道を、ほんの少しだけずらす。


 関節の機能を、一時的に「ほどく」だけ。


 丁寧に。

 素早く。

 メスを、振り抜く。


 ぴく、とジェーンさんの手首が震えた。


 次の瞬間、その指先から力が抜ける。


「な……っ」


 ジェーンさんの身体が、わずかに崩れた。


 チャンスだ。


 こちらからもう一歩、踏み込めば――


 そう思ったときだった。


 木々の向こうから、足音が聞こえた。

 生きたノイズだらけの――二人ぶんの重さを運ぶ、足音。


 思わず気をとられた。


焔乃士(ほのじ)くん! 怪我はないかしら!?」


 冷夏さんだった。


 その背中に――小さな女の子が、ぐったりとおぶさっている。

 

 気をとられた一瞬でジェーンさんは僕から距離を取っていた。


「うん! 僕は……まあ、見た目ほど大したことはないよ。ていうかその子……」


「死んでないわよ」


 嘘泣きしていた、あの子だ。


 冷夏さんは、言った通りに殺さず止めた。

 さすが、冷夏さんだ。


 二人を見たジェーンさんの表情が、変わる。


 無表情でもない。

 かといって、激情でもない。


「……メロウ」


 ほんの少しだけ、やさしい顔になったように、僕には見えた。

 その顔が、僕は嫌いじゃなかった。


 ジェーンさんが、ちらりと罠にかかっているバイソンの方を見た。


 ついさっき、レクターとミネルヴァが傷を塞いだばかりの身体。

 緊張はまだ残っていても、ようやく少しずつ深い呼吸が戻りかけた身体。


 ジェーンさんのその目に、瞬間――


 底冷えするような何かが宿った。


「……撤退する」


 仮面を、無理やり貼り直したような、掠れた声だった。


「メロウは、パパの大事な愛娘(まなむすめ)だからな」


 言い終わるより早く、ジェーンさんは地を蹴った。


 僕の方じゃない。

 冷夏さんの方でもない。


 ジェーンさんが向かう先は――バイソン。


 嫌な感覚が、背骨を走る。


(まさか……!?)


「――最後まで、働いてもらう」


 影で形作られた冷たい刃が、バイソンの身体に突き立てられた。


 急所を、外して。


 ――グシュッ!


 わざと、苦痛が長引く場所を選んで。


 一度。

 二度。

 三度。


 ――グサグサグサッ!


 何度も。

 何度も。

 何度も。


「やめろ――!」


「ブモォオォオオオオオォォォッ!!」


 バイソンの咆哮が、森を切り裂いた。


 耳を塞ぎたくなるほどの悲鳴。

 身体の奥を掻きむしられるような、痛みの声。


 僕の目も。

 冷夏さんの目も。


 その悲鳴に――一瞬だけ、吸い寄せられた。


 その、一瞬だった。


「――え!?」


 冷夏さんの背中が、ふっ、と軽くなった。

 

 土に還りかけていたはずの、最後の一体。

 不完全なジェーンさんの形をしたそれが、いつのまにか冷夏さんの背後に回り込んでいて――


 メロウを、攫っていた。


 人形は、眠る子どもを抱えたまま、音もなくジェーンさんの隣へ滑り込む。


「チッ――私としたことが、油断したわ」


 冷夏さんが、悔しそうに息を吐いた。


 ジェーンさんは、メロウの顔を一度だけ見た。

 優しい目だった。


 それから、まだ動く左手で懐から短刀を引き抜く。


「メロウ。約束を破ったのは、私だ」


 今は動かない右手の小指に、刃が当てられる。


「二人でともに、パパのもとへ帰ると――この小指で、約束した」


 ためらいは、なかった。


「それを守ることができないのなら」


 まるで、料理人が玉ねぎの根元を落とすように。


「――こんなものなど、いらない」


 小指が、ぽとりと地面に落ちた。

 切られた断面から血が滴り、土に広がる。


 その瞬間――ジェーンさんの足元から、濃くて不快な影が、液体のように沸き立った。


「《深淵魔法(アビスマジック)――影溶(シャドウ・メルト)》」


 声は、もう抑揚を失っていた。


 ジェーンさんの身体と、メロウを抱えた土人形が――地面に滲むように、影へ溶け落ちていく。


 人形は、影の境界で、ぼろりと土に還った。


 メロウの身体だけが――影の中に沈むジェーンさんの腕へ渡る。


「メロウ……!」


 冷夏さんの雷が、ぱちりと鳴った。

 一拍遅れて、黒い染みを貫く。


 けれど、それはもう地面を抉り、奥の木を裂いただけだった。


 影は、夜の闇に溶けて消えた。


 僕はハッとして、すぐさまバイソンに駆け寄った。


 どうにかしようと思ったものの――

 その瞳からは、どんどん光が薄れていく。


 ゆっくりと。

 ゆっくりと。


 命が、身体から抜けていくみたいに。


 咆哮は、もう上がらない。

 ただ、低く、低く、呻きながら。


 ついには、その声さえも、途切れた。


 その意味を僕はすぐに理解した。


「あ……」


 僕は膝をついた。


 バイソンの目が、僕を見た気がする。

 最後に、ほんの一瞬だけ。


 助けようとした。

 できるなら助けたかった。


 でも、間に合わなかった。


「……苦しかったよな……ごめん……本当にごめん」


 僕は、無意識に何度も呟いていた。


「……ごめん」


 ガンテツは、何も言わない。

 オーガも、何も言わない。


 ジュリアも。

 ヴァンデルも。

 ミネルヴァも。

 レクターも。


 誰も、声をかけなかった。


 慰めも。

 励ましも。

 皮肉さえも。


 何もなかった。


 脳の中が、不自然なほど静かだった。


 バイソンの呼吸は、もうない。

 黒い装甲の身体は、もう動かない。


 森の地面に差し込む月光が、その輪郭を、ただ静かに照らしていた。


 ……静寂。


 夜風が、森の木々を揺らす。


 残されたものが、ふたつ。


 切り落とされた小指。

 息絶えたバイソン。


 その時だった。


 足の裏が――震えを拾った。


 遠く。

 森の奥から。


 たくさんの、重い、生きた足音。


 心臓の音だらけの。

 呼吸だらけの。


 怒りに揺れたみたいな、足音の群れ。

 僕はこの足音に似たものを知っている。


 悪寒と同時にその感触を思い出す。

 フラッシュバックしたみたいに、あのときの感情と記憶がよみがえった。


 これだとまるで。


 ――ロイさんの家を襲ったハクゲツみたいだ。


「ホノジくん……」


 わずかに震えた冷夏さんの指が、僕の裾を握る。


(……来る)

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