第75話:残されたもの
「……勘……だと?」
無表情の仮面が、ぴしりとひび割れる。
「ふざけるな……! 勘でわかるとか、あってたまるか!」
「勘っていうか、なんていうか……もう、間違いないかなって思い込んじゃったんだけど」
言われて、僕は自分の中の感覚を整理する。
「なんか、一番寂しそうなのが本物なんだって思って」
「は?」
「雰囲気と、顔の筋肉の動きとか、表情でね。寂しそうかどうか、なんとなくわかるの。だから、一番寂しい人じゃなければ、溶かしてもいいかなって」
女が、絶句した。
「な、何を言っている。土人形と私の動きは一緒のはずだ。外側も内側も。それに、なんで私が、寂しそうだということになるんだ……?」
「だって、言ってたじゃん」
「な、何をだ」
「……君が決めろ、って」
女の動きが、止まった。
空気の流れまで止まったみたいに、ぴたりと。
「なっ……!?」
「あ、適当じゃないからね」
僕は、慌てて付け加えた。
「“君が決めろ”なんて言う人、どう考えても、寂しい人でしょ。だから、寂しそうな人が本物なんだなって思ってさ」
……自分の名前すら、自分から決められない人。
だから、相手に決めさせる。
決めてもらえると、思っている。
でも、決めてもらった瞬間、それはもう、自分だけのものじゃなくなる。
ずっと、自分を誰かに預けたままで。
ずっと、自分のものじゃない名前で、生きていく。
……それは、寂しいよ。
とっても、寂しいよ。
想像できるのはそれだけ。
だからといって自分じゃない名前に甘えてもらっても困る。
寂しさには、思わず同情する。
でも、何でも許すわけじゃない。
たとえ任務だとしても――バイソンを苦しめたのはジェーンさん、あなただから。
話し合って、責任はとってもらう。
「ただの」ジェーンさんは卒業してもらう。
ひとりのジェーンとして、向き合うんだ。
「…………っ」
ジェーンさんの指が、ぴくりと震えた。
目が、大きく見開かれる。
喉の奥で、息が詰まるような音がした。
次の瞬間。
「殺す――!」
ジェーンさんが、僕の喉を狙って踏み込んだ。
今までで、最速の動き。
けれど、動きそのものは単純だった。
だから、見えている。
それでも、間一髪だった。
鋭い手刀が、僕の頬をかすめて空を切る。
その腕を、僕は――
――掴まなかった。
《下拵え》。
指先に、光のメスが伸びる。
その光のメスを、ジェーンさんの手首へ。
腱と腱のすきまに、そっと滑り込ませる。
切らない。
必要以上に傷つけない。
ただ、力の通り道を、ほんの少しだけずらす。
関節の機能を、一時的に「ほどく」だけ。
丁寧に。
素早く。
メスを、振り抜く。
ぴく、とジェーンさんの手首が震えた。
次の瞬間、その指先から力が抜ける。
「な……っ」
ジェーンさんの身体が、わずかに崩れた。
チャンスだ。
こちらからもう一歩、踏み込めば――
そう思ったときだった。
木々の向こうから、足音が聞こえた。
生きたノイズだらけの――二人ぶんの重さを運ぶ、足音。
思わず気をとられた。
「焔乃士くん! 怪我はないかしら!?」
冷夏さんだった。
その背中に――小さな女の子が、ぐったりとおぶさっている。
気をとられた一瞬でジェーンさんは僕から距離を取っていた。
「うん! 僕は……まあ、見た目ほど大したことはないよ。ていうかその子……」
「死んでないわよ」
嘘泣きしていた、あの子だ。
冷夏さんは、言った通りに殺さず止めた。
さすが、冷夏さんだ。
二人を見たジェーンさんの表情が、変わる。
無表情でもない。
かといって、激情でもない。
「……メロウ」
ほんの少しだけ、やさしい顔になったように、僕には見えた。
その顔が、僕は嫌いじゃなかった。
ジェーンさんが、ちらりと罠にかかっているバイソンの方を見た。
ついさっき、レクターとミネルヴァが傷を塞いだばかりの身体。
緊張はまだ残っていても、ようやく少しずつ深い呼吸が戻りかけた身体。
ジェーンさんのその目に、瞬間――
底冷えするような何かが宿った。
「……撤退する」
仮面を、無理やり貼り直したような、掠れた声だった。
「メロウは、パパの大事な愛娘だからな」
言い終わるより早く、ジェーンさんは地を蹴った。
僕の方じゃない。
冷夏さんの方でもない。
ジェーンさんが向かう先は――バイソン。
嫌な感覚が、背骨を走る。
(まさか……!?)
「――最後まで、働いてもらう」
影で形作られた冷たい刃が、バイソンの身体に突き立てられた。
急所を、外して。
――グシュッ!
わざと、苦痛が長引く場所を選んで。
一度。
二度。
三度。
――グサグサグサッ!
何度も。
何度も。
何度も。
「やめろ――!」
「ブモォオォオオオオオォォォッ!!」
バイソンの咆哮が、森を切り裂いた。
耳を塞ぎたくなるほどの悲鳴。
身体の奥を掻きむしられるような、痛みの声。
僕の目も。
冷夏さんの目も。
その悲鳴に――一瞬だけ、吸い寄せられた。
その、一瞬だった。
「――え!?」
冷夏さんの背中が、ふっ、と軽くなった。
土に還りかけていたはずの、最後の一体。
不完全なジェーンさんの形をしたそれが、いつのまにか冷夏さんの背後に回り込んでいて――
メロウを、攫っていた。
人形は、眠る子どもを抱えたまま、音もなくジェーンさんの隣へ滑り込む。
「チッ――私としたことが、油断したわ」
冷夏さんが、悔しそうに息を吐いた。
ジェーンさんは、メロウの顔を一度だけ見た。
優しい目だった。
それから、まだ動く左手で懐から短刀を引き抜く。
「メロウ。約束を破ったのは、私だ」
今は動かない右手の小指に、刃が当てられる。
「二人でともに、パパのもとへ帰ると――この小指で、約束した」
ためらいは、なかった。
「それを守ることができないのなら」
まるで、料理人が玉ねぎの根元を落とすように。
「――こんなものなど、いらない」
小指が、ぽとりと地面に落ちた。
切られた断面から血が滴り、土に広がる。
その瞬間――ジェーンさんの足元から、濃くて不快な影が、液体のように沸き立った。
「《深淵魔法――影溶》」
声は、もう抑揚を失っていた。
ジェーンさんの身体と、メロウを抱えた土人形が――地面に滲むように、影へ溶け落ちていく。
人形は、影の境界で、ぼろりと土に還った。
メロウの身体だけが――影の中に沈むジェーンさんの腕へ渡る。
「メロウ……!」
冷夏さんの雷が、ぱちりと鳴った。
一拍遅れて、黒い染みを貫く。
けれど、それはもう地面を抉り、奥の木を裂いただけだった。
影は、夜の闇に溶けて消えた。
僕はハッとして、すぐさまバイソンに駆け寄った。
どうにかしようと思ったものの――
その瞳からは、どんどん光が薄れていく。
ゆっくりと。
ゆっくりと。
命が、身体から抜けていくみたいに。
咆哮は、もう上がらない。
ただ、低く、低く、呻きながら。
ついには、その声さえも、途切れた。
その意味を僕はすぐに理解した。
「あ……」
僕は膝をついた。
バイソンの目が、僕を見た気がする。
最後に、ほんの一瞬だけ。
助けようとした。
できるなら助けたかった。
でも、間に合わなかった。
「……苦しかったよな……ごめん……本当にごめん」
僕は、無意識に何度も呟いていた。
「……ごめん」
ガンテツは、何も言わない。
オーガも、何も言わない。
ジュリアも。
ヴァンデルも。
ミネルヴァも。
レクターも。
誰も、声をかけなかった。
慰めも。
励ましも。
皮肉さえも。
何もなかった。
脳の中が、不自然なほど静かだった。
バイソンの呼吸は、もうない。
黒い装甲の身体は、もう動かない。
森の地面に差し込む月光が、その輪郭を、ただ静かに照らしていた。
……静寂。
夜風が、森の木々を揺らす。
残されたものが、ふたつ。
切り落とされた小指。
息絶えたバイソン。
その時だった。
足の裏が――震えを拾った。
遠く。
森の奥から。
たくさんの、重い、生きた足音。
心臓の音だらけの。
呼吸だらけの。
怒りに揺れたみたいな、足音の群れ。
僕はこの足音に似たものを知っている。
悪寒と同時にその感触を思い出す。
フラッシュバックしたみたいに、あのときの感情と記憶が蘇った。
これだとまるで。
――ロイさんの家を襲ったハクゲツみたいだ。
「ホノジくん……」
わずかに震えた冷夏さんの指が、僕の裾を握る。
(……来る)




